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カスタネットへようこそ  作者: MUMU
第二章 ブラジル回転と家族の天秤
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第十二話


確かに。


水穂が店内を見渡す、どこにも空調口らしきものがない。天井のシーリングファンにより空気の流れがあるだけだ。ジメジメとした感覚はないが、額に汗が浮くほど暑い。


「いや、お母さん、暑いのも変だけど、あそこの舵輪の影が」

「お待ちどうさま」


店主の声がして、水穂は壁に向けようとした指をさっと膝に置く。


「こちらは深煎りのブラジル豆100%のコーヒー、ブラジルでは砂糖をたっぷりと入れるのが一般的なんです。こちらが上白糖、こちらがザラメです。お嬢さんはカプチーノですね」


浮き輪のように太い腕がテーブルに下ろされ、カップを二つ、シュガーポットを二つ置き、さらにパウンドケーキの乗った小さな籠も置かれる。


「こちら、自家製のパウンドケーキです。ココア、ナッツ、さつまいも、それとバターのみのプレーン。二切れずつありますので、食べきれなければお土産にさせていただきます」

「パウンドケーキを合わせるの? 少し重そうね」


瑛子は済ました顔になり、カップのふちに薬指をそっと這わせる。


「はい、砂糖を入れた甘いコーヒーなら軽めのクッキーなどを合わせがちですが、それはブラジルの精神とは言えません。甘いものにあえてボリュームのあるケーキを合わせる、それが喫茶店の演出できる非日常だと思うんです」


大貫と名乗った店主は我が意を得たとばかりに、身ぶりを交えて話す。


「南国の労働者にとって喫茶とは活力を養う大切な時間であり、思いきり甘いものを取ることで心身に休息を促すものなんです。インドのチャイティーもそうですし……」

「うん、いいお味ね、淡白なブラジル豆とは思えないボリュームがあるわ」


瑛子がコーヒーをすするのを見て、水穂がバンとテーブルを打ちつつ立ち上がる。


「お母さん!」

「? ど、どうしたんですか?」


大貫が眼を丸くするのに向けて、瑛子がひらひらと手を振る。


「こっちの話だから気にしないで、それと、コーヒーはこれ一種類なの? 焙煎も淹れ方も上等だけど豆は一般的なものに思えるわね。このお店だけのスペシャリテな一杯はあるのかしら」


そう問われて、大貫は眼を輝かせて頷く。


「おわかりですか! それはいわゆるサントス豆、サントス港から世界に出荷されるものの通称でして、ブランドとしては一般的なものです。実はあるんですよ、僕がブラジルの農家を訪ね回って見つけた豆です。生産者の顔まで追える、いわゆるサードコーヒーというものですね」

「それをいただけるかしら、この子にも」

「はい、お待ちください! いやあ、最初のお客さんが味の分かる方だなんて、店を開いた甲斐が……」


嬉しそうにそう言いつつ、弾む足取りで奥へ消える。

水穂は慌てて言いつのる。


「お母さん、そんなの飲んじゃダメだよ、このお店何かおかしい、黒鉾(ヘイボウ)とかの罠かも」

黒鉾(ヘイボウ)はガチガチに頭の固い連中なのよ、こんなまだるっこしい罠なんか仕掛けないわ。だいたい、この店に来たのは偶然でしょ」

「それはそうだけど……このお店自体が何か異常なものかも」

「それに飲んでないわよ、喉に隠したビニール袋に入れただけ」


がふ、とコーヒーの入った袋を吐く。水穂はぎょっとして身を引く。袋の口はすでに舌で結んであった。


「いつの間に……」

「ちょっとした手品よ。もう毒劇物チェックも済んでるわ」


いつの間にか、瑛子の右手にボールペンが握られている。白い胴体の側面に、うっすらと青い線がにじんでいた。


「問題なし、異常存在には水のゆらぎを見ただけで危険な泉、せせらぎを聞いただけで動物になる小川なんかもあるけど、そこまでの異変ならとっくに周辺に影響が出てるでしょうね。それに、なんだか暑さも収まってきたわね」


そういえば、と水穂は店内を見渡す。

先程の遠火で焼かれるような熱気はどこへやら、梅雨前のしっとりした風が店内を循環している。

水穂が壁を見れば、舵輪の影はもう分からなくなっていた。外は夕映えの時刻を過ぎ、日が落ちようとしているのだ。


「でも、さっき……」

「調べてみましょう」


瑛子の行動はてきぱきとして隙がない。ハンドバッグから取り出すのは車のキー、そこからキーホルダーを取り外す。

それは古い銅製の天秤である。大きさは手に収まるほど。


「それREVOLVEの道具だね」

「そう、凶兆の天秤(イソロピア)と呼ばれるものの模造品(レプリカ)よ。発明されたのは古代ギリシャだけど、錬金術師だとか神秘主義者の間に受け継がれていたの。実用に足る精度になったのは戦後のことね」


その天秤は普段は動かないようにストッパーを噛まされていたらしい。瑛子はそれを外し、ツマミを調整して左右のバランスを取る。


「いい? 見えないけれど、右側の皿には「現実」が乗っている」

「うん」


母は生真面目な現実主義者であることは間違いないが、その言動は科学とオカルトの中間のように思える。進みすぎた科学は魔法と区別がつかない、というものだろうか。


「左の皿に何かを乗せて、皿が左に傾けばそれは現実的な物体(シグナルブルー)、もし皿が平行になれば異常物体(シグナルイエロー)、地球に属するものではあるけど、一般的ではないもの。もし右の皿が(・・・・)下がったら(・・・・・)、これは人類の手には負えない、つまり流れの者(フォーリナー)に属する超常存在(シグナルレッド)ということよ」

「どういう原理なの?」

「今はデジタルな仕組みよ。内部に電子回路が仕込んであって、乱数を産み出してそれを評価してるの。乱数の偏りを天秤に反映させてるだけ、オカルトなものじゃないわ、不完全性定理の応用よ」


そう言われてもさっぱり分からない。

そして判定はすぐに終わった。カップからコーヒーを注ぐ、皿は動かない。


「これって……」

「シグナルイエローね、このお店、何かが起きている」


あっさりとそう認め、瑛子は自分のズボンを気にする。


「スキニーデニムは失敗だったかしら。いざというときは逃げも考えたいけど、あまり走れないのよね、破れると困るし」

「どうしよう……なんだか、また暑くなってきたし」

「本当ね、暑さに周期がある? それとも何かの条件か、あるいは任意的なものかしら」


「お待たせしました」


そこへ楽しげな声が届く。店主の大貫が銀のトレイとともにやってきて、アンティークのカップをかたりと置く。


「こちらは当店自慢のスペシャルコーヒーです、こちらはぜひ、最初の一口はブラックでその香りを……」

「大貫さん、今何時かしら」


瑛子が言う。大貫はぴくりと肩を震わせ、壁の時計を見て言う。


「……ええと、19時30分ですね」


はっと、大貫は小走りになって窓の方へ向かい、ブラインドを下ろす。それは遮光性が高く、窓よりも大きく作ってあるため、窓からの日は完全に閉ざされる形になる。店内の照明は高い位置にあり、柔らかな白光を下ろしている。


「ちょ、ちょっと西日が眩しいですね、閉めときましょう」

「もういいわ」


瑛子の声は氷のようだった。水穂がそちらを見れば、丈夫なブラジルウッドのテーブルの上で、手足を縮めて丸まった瑛子の姿。スキニーデニムからいつのまに腰を抜いたのか、長い素足は机の上で力を溜めている。


「え……」


大貫が振り返る一瞬。

弾丸のように机を蹴って飛ぶ。瑛子が大貫の脇に滑り込み、背面から左脇に腕を入れて背中を合わせ、腰を全力で切って身を屈める。

大貫は振り返る勢いすら利用されて体幹を崩され、その巨体が瑛子の背中に乗って転がるように動き、一瞬で破滅的な勢いを付与され、ものの見事にテーブルの天板に叩きつけられる。


「ほぐうっ!?」


どばあん、とエネルギーの無駄がないド派手な音が響き、胸を強打した大貫の左腕をさらに引き上げると同時に跳躍。大貫の背中に飛び膝を落とし、その巨体を縫い止める。


「ぐはっ!?」

「下手に動くと危険よ、肩関節を完全に極めている、折れば激痛で何もできない。あるいは頸動脈を掻き切ることも簡単、脂肪だらけの首だろうとまったく問題ないわ。あと間違ってもこっちを見ないように」


スキニーを脱いだ瑛子は淡々とそう宣言し、大貫の首にボールペンを押し当てる。ひやりとした質感はナイフに思えたことだろう。

彼はそのような脅迫を受けた経験があるのか水穂には分からないが、瑛子の酷薄な声に、冗談でもなければ夢でもないと瞬時に理解する。


「ひ、ひい、な、何を」

「このコーヒーを飲むとどうなるのかしら? 血液を三リットルぐらい吐いて即死? それともあなたの奴隷になって一生ここで働くのかしら?」

「な、なんの、話を……」

「全部話した方がいいわ。この気温の異常について、それにどうして慌ててブラインドを降ろしたの、窓の外を見られたくないのかしら」

「い、いえ、何でもないんです。いつもは飲み終わる間に収まるはずで……いえその、現実にそんなことが」

「はっきり言いなさい、何なの」


ぐい、と顎に腕を回して頭を引き上げる。脂肪がうなじの部分で盛り上がり、息が詰まるのか声が濁る。


「あ、あぐがが」

「私たちは優しい方よ。黒鉾(ヘイボウ)ならとりあえずで射殺されても不思議はない。でも隠しだてしても何の意味もないのよ。あなたはまるで素人だし、プロの尋問には10分と耐えられないでしょう。早く言いなさい、このお店で何が起きてるの?」

「い、言います、言います……。こ、このお店は」

「……」


水穂はその様子を見つつ、ぎゅっと手を握る。


「どうも時々、ブラジルになるんです」



極められた関節は、まだぎしぎし鳴っていた。



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