第十一話
瑛子は首をかしげる。
「こんなお店あったかしら。でも南国仕立てで良い感じね。コーヒーの香ばしい匂いもするし」
「お母さんの組織で把握してないの?」
「まさか、ロシアじゃないのよ、お店の一つ一つまで見張ってないわよ」
「ロシアってそんなことしてるの?」
「さあ?」
店内に入る。
急に空間が開けたような感覚がある。天井が三メートル以上の高さにあり、シーリングファンがゆっくりと回転している。壁を飾るのは南洋を描いた絵画や写真、マウンテンバイクや木製の飛行機模型、カジキの骨まである。
他にもボトルシップや古い舵輪のインテリア、民族風味を感じさせる手織りのタペストリなどがそれとなく並べられ、それに混じってガラス製の鳴子がちりちりと音を立てている。
店は床も壁も木造りであり、テーブルはがっしりとした赤茶色の木材でできていた。
「凝ってるわね、本物のブラジルウッドよ、高いでしょうに」
「よくわかんないけど、艶があって綺麗なテーブルだね」
「いらっしゃい」
トレイにお冷をもって現れるのは恰幅のいい男性である。
「お客さん第一号だね、嬉しいよ」
「え、私たちが初めてのお客?」
「そうだよ、かわいいお嬢さん。今日はプレオープンなんだ、来週から本格オープンの予定だから、まだチラシも配ってない試験営業なんだよ」
店主は真っ黒に日焼けしており、濃い褐色のサングラスを掛けている。腹は太鼓と呼ぶのも足らぬほどせり出しており、腕も丸太のように太い。お冷が入っているのは普通のグラスなのに、指でつまむ様子はお猪口に見えた。
瑛子はバイザー型サングラスを外し、軽く店内を見回す、高い位置でまとめた髪がふわふわと揺れる。瑛子の髪はわずかにブラウンが混ざっており、髪質は綿のように軽い。
「僕は店主の大貫といいます、今後ともよろしく」
「純喫茶ブラジルということは、ブラジル豆のコーヒーをいただけるのかしら」
「はい、奥さん、ブラジル豆を味わったことはありますか?」
水穂を連れているから既婚者と判断したのか、男は奥さんと呼ぶ。瑛子は少し目を尖らせて言った。
「味わったことのない人いないでしょう、ほとんどのブレンドコーヒーでベースとして使われてるわ」
「そうですね、ブラジルはコーヒーの生産も消費も世界一、まさにコーヒー王国です。その特徴はすっきりとした軽さ。酸味が抑え目で、コクのある苦みと旨み、欠点のない味わいですが、そのせいで一般的には特徴のない味と言われます。だからブレンドベースに使われるんですね」
ころころと猫のような笑みを浮かべ、柔和な様子で話す。どのような経緯で喫茶店を開くに至ったのか知らないが、コーヒーについて語るのが楽しくて堪らないという様子である。
瑛子は黙って聞いていたが、水穂の方は店内の様子に気をとられていた。
店内は少し暖かい、梅雨前なのに暖房を効かせているようだ。なんだか汗ばんできたので、着ていたケープのような上着を脱いで藍色のワンピース姿になる。
店主の話はしばらく続いたが、つまりは、という言葉で水穂の意識がそちらに向く。
「僕はブラジルコーヒーの奥深さ、その真の味わいを日本の皆さんに伝えたい、そう考えて店を開いたんです」
「そう、じゃあお勧めのコーヒーを二ついただこうかしら。ホットで、いえ待って、一つはカプチーノがいいかしらね、適当なお茶うけもお願い」
瑛子もまた、言葉に他者のくちばしを入れさせない鋭さがある、店主の話をさえぎって素早く注文を入れた格好だ。
「分かりました、ドリップ方式は選べますが、うちのお勧めは」
「ブラジルはペーパードリップが一般的なんでしょう? まあ全部お任せするわ」
店主は朗らかに微笑んで、奥の方へ向かう。テーブルの高さは少しずつ異なっており、それが店内に起伏があるかのような錯覚をもたらす。
「お母さん、蝶の標本あるよ、見たことないやつばかり」
「あの青いのが有名なモルフォ蝶よ、フクロウシジミとかセセリチョウもあるわね。なつかしいわ、ブラジルにいた頃は支部の庭にも来てたわよ」
「ブラジルにいたことあるの?」
「ええ、REVOLVEでは世界中の支部を三ヶ月ずつ回ったからね。向こうのコーヒーもよく飲んでたわ」
水穂はふと思い出す。瑛子は本来なら田舎にいるような人種ではないらしい。まだ若いと言える年齢なのに組織の支部長を任されているのだ。
「ねえお母さん、組織の仕事って大変じゃないの? いつも何かあるとタツガシラに泊まり込みになるし」
「そうでもないわよ、スタッフが優秀だからね。それに私に何か権限がある訳じゃないの。流れの者への切り札、REVOLVEは上司の決済でやるんだから」
REVOLVE
それはシステムの名前でもあり、組織それ自体の通称でもある。
そのシステムの仕組みは何度聞いてもよく分からない、水穂の理解力がどうというより、瑛子が重要な部分を語っていないのだろう。強制的にファーストコンタクトをやり直す、流れの者の来訪をなかったことにするシステムだと聞いているが。
「……どうして根乃己に戻ってきたの? ニューヨークですごく出世してたって聞いたけど」
「誰に聞いたの?」
「ん……公民館の棚町さん」
「ああ一般職員の……覚えときましょ」
しまったと思った。根乃己には母の組織の人間がいくらか潜入しているが、彼らは民間に埋没するのが仕事であり、瑛子やその家族を職員として扱うことは禁止されている。
「根乃己がどういう町かは知ってるでしょう?」
「うーんと……宇宙人を引き寄せて、お帰りいただくための迎撃基地……だっけ」
「そう、できたのは1948年頃、アメリカが自国に持ってたagoleという町を日本にも作ったのよ。イギリスにもアーグルトンという似たような町があるわ。この三ヶ所で流れの者、REVOLVEが言うところのフォーリナーを管理している」
瑛子は白のハンカチを取りだし、首筋の汗をぬぐった。水穂は重ねて問う。
「でも流れの者って世界中に来るんでしょ?」
「そう。生物だけじゃなくて、理解不能な器物、不可思議な場所、説明のつかない天体現象、そういうものに対応するのがREVOLVEなのよ」
水穂もすべて理解できるわけではないし、瑛子もすべてを語ろうとはしていない。
そもそも事態を正確に理解している人間が存在するのかも怪しい、そんな不確実な会話だが、互いに間合いを測るように言葉を続ける。
「つまり根乃己は最前線ってこと。お給料だっていいし、必要なときだけタツガシラに行けばいいことになってる。理想的でしょ」
「じゃあ、コーヒーメーカーなんかぽんと買えばいいのに」
「そうは行かないわ、赤字をサイドビジネスで埋めるなんてプライドに関わるもの、あくまでカスタネットの予算で買わないと」
実際、こんな田舎にネットカフェが定着し、黒字を続けているのは母の手腕が大きいと感じている。
祖父の竜興もパワフルな人物だが、趣味に走りすぎるきらいがある。雑誌棚の増設、深夜営業を行う離れなどは竜興の提案だが、あまりビジネス的に成功とは言えない。
「……じゃあ、お父さんと結婚したのはなぜ?」
ぽたり、と頬の汗が床に落ちる。水穂はこれは冷や汗ではないと認識する、本当に暖房のきかせすぎだ。
「あの人が抗異化因子存在だからよ」
事もなげに、あえて感情を入れずに言う。
「それ、宇宙人を追い払えるっていう……」
「そう、どんな異常現象にも対応して生き残る、数十億人に一人の特異体質。正確な定義もできないし、過去の例との比較も困難な偶発的存在よ。根乃己の土地柄から生まれたのか、偶然かは分からないけど、チャンスだと思ったわ。あの人と結婚して、根乃己村の支部長にでもなれれば望外の出世が得られると思ったの」
水穂はこころもち眼を伏せる。
感謝すべきなのだろう。瑛子は自分に対して虚言を言うまいとしている。いくらでもごまかせるはずなのに。
「……でも、それだけで結婚なんて」
「できるわよ。二人とも付き合ってた相手もいなかったし、あの人は羊みたいに物静かで人畜無害だったからね。ある事件であの人が抗異化因子存在ではないかと囁かれて、REVOLVEは組織をあげて保護しようとしたのよ。私は胸が踊ったわ。彼はあっさりと交渉に応じた。私と結婚して根乃己に帰ることに同意したのよ。そしてあなたが生まれたの」
瑛子の言葉には揺らぎがない。それは相手を動揺させまいとするためか、あるいはいつかはする話だったと身構えていたのか。
それとも本当に、それは瑛子にとっては重要なことではないのか。
「そのままなら順風満帆だったんだけどね、あの人が行方をくらませなければ」
枯滝路という人物には昔から放浪癖があったらしい。学生時代もふいに姿を消しては、北海道やら沖縄やらに現れた。高校を出てからREVOLVEに捕捉されるまでは世界中を放浪していたと聞いている。
これは以前に聞いたことだが、両親が高校以来、数年ぶりに会ったとき、彼が高校のジャージをズボンがわりにしていたことに心底呆れたのだという。
「しかもあの人、今は超常的な器物を集めてREVOLVEに敵対している。まさか黒鉾に協力してるわけはないと思うけど、見つけたら生死問わずの拘束が命令されてるのよ。私の地位は揺らがなかったけど、ニューヨークの本部に返り咲くのは無理そうね」
栄転が左遷に化けたような状態、と瑛子は皮肉げに言っていたが、水穂にはよく分からなかった。
「でも水穂、あなたのことは愛してるわよ」
瑛子は海外仕込みのフランクな様子で言う。家族にあまり執着しないが、愛情は素直に表現する、それも彼女らしさと言えるのだろうか、と水穂は思う。
「ひとまずは、それでいいでしょ」
「うん……」
まるで隙がない、と水穂は思う。
瑛子はまるで古い映画のようだ。そのたたずまい、美しさ、言葉と表情の一つ一つに解釈の余地を残さない。
枯滝路と枯滝瑛子、水穂が割って入るには独特すぎる二人である。二人が何を思って行動しているのか、どうあることが二人にとっての幸せなのか。
そもそも枯滝家の現状は、瑛子にとっては問題ですらないのかも知れない。
では自分はどうすべきなのか。現状を受け入れるのか、それとも何か働きかけるべきなのか。
何も分からない。それは水穂が見通すにはあまりに遠く深い、人生の綾模様の深淵である。果たして、自分はまた父と母と、そして祖父を交えて四人で暮らすことができるのか。
「ついでにレーテも、ね……」
「何か言った?」
ううん、と首を振り、そろそろコーヒーが来る頃だろうか、と店内を見渡す。
体が汗ばんでいた。少し行儀が悪いが、服の襟元を引っ張って風を入れる。夕方のはずなのに日差しはやたらに強く、窓からの強い光がブラジルウッドの赤茶色を鮮やかに照らす。この暖房については忠告すべきだと思った。だいたい、店主はあんなに太ってるのに暑くないのかと思う。
「……え?」
そこで気づく。
それは壁にかかっていた古い舵輪。
その影が、入店した頃は真横に伸びていたのに、今はやや斜め下に伸びている。
太陽が昇っている。
「お母さん、何かおかしいよ」
「……そうね、私も今、気づいたけど」
瑛子は店内を見渡している。その目が隅から隅まで動き、そして確信したように宣言する。
「この店……エアコンなんか無いわよ……」