第十話
教室の中に波がある。
そう見えたのはレースのカーテンが生み出す光の揺らめきだった。頬を撫でる涼しい風。開け放たれた窓に届く運動部の掛け声。
窓際の一番後ろ、そこに男がいる。椅子に浅めに腰掛け、ゆっくりと、かつ流麗に指を動かす。学生服のカラーをかっちりと止め、その横顔に有るか無しかの微笑みを浮かべている。
「路、帰らないの」
セーラー服姿の女生徒が言う。その手には蛇皮模様の筒。卒業証書を入れた筒を持っている。
「帰るよ」
男の手には四角い紙。朱色、藍色、檜肌色、金や銀もある、どこにでも売ってるような折り紙にすぎない。
それが男の指で折られる。すべての指が柔軟に動き、正確に端と端が折り合わされ、指先が細部を折っていく、その指の動きは折るというより「揉む」とか「結ぶ」という印象であった。折って形を作るというより、粘土をこねているようにも見える。
「……で、結局、あんた進路どうするの、私はアメリカ行っちゃうよ」
なぜ自分の話が出てくるのか、と少し自嘲的に思う。自分と路は付き合ってもいないのに。
ただ根乃己の高校で、今期の卒業生は眼の前の男と自分の二人だけだった、それだけのことだ。なぜ高校が維持できているのか、それは高校も組織の運営だからに他ならない。
彼はどこも受験しなかったようだが、では村に残るのか、それとも都会に出ていくのか、何度か聞いたことはあるが、曖昧に濁すばかりで要領を得ない。
男が両手で包んでいたものを机に置く、卵のようにそっと解き放つのは船だ。整った姿のヨットが机に現れる。
「……ただの船?」
その船底を光の波模様が走る。カーテンの生み出す影を波に見立てた趣向のようだ。柔らかな風が少し潮の匂いをはらみ、マストがその風を受けて船はゆっくりと風下に流れるかに見えて。
その船縁に、カモメが降り立つ。
「……!」
船には釣り人がいる、細い竹竿を垂らした白髭の老人だ。カモメたちが釣果を狙って集まり、あるいは上空を旋回する。
水面には魚影が見える。群れなして動く小魚、ゆったりと深みを泳ぐ大物の影。そこは大海原かと思ったが、湖のようだ。船をぐるりと取り囲むように陸地があり、船小屋や桟橋が見える。遠景は竹林、牛を連れた農夫がいて、蝶を追い回す子供もいる。
空には雲、釣りをしていた老人は警戒するように空を見上げ、雨にまでは至らぬようだと安堵する。
そして釣りをやめると壺のような酒徳利を取り出し、ごろんと寝転んで酒を煽る。その背後でひときわ大きな鯉のような魚が、家の屋根ほどの高さにまで跳ねる――。
「帰ろうか」
はっと、瞳孔がすぼまる感覚。
机の上には何もない、いま折られていた沢山の折り紙が、やはり折り紙で作られたゴミ箱にしまわれている。路はのっそりと立ち上がり、その紙のゴミ箱をぎゅっと握ってから本物のゴミ箱に捨てる。
……ああ、やはり。
セーラー服の少女は、肺の深みからゆっくりと息を吐きだして思う。
今の光景は幻だったのか。男の指が生み出す幻影の舞台か、それとも何かしら超常的なことが起きたのか。
それはどちらでも構わない、確かなことは一つだけ。
この日、瑛子という名の女生徒は、目の前の男に抱いていた気持ちを確信するに至る。
彼は、やはり。
どうしようもないほど、いかれている。
※
ネットカフェ「カスタネット」は日によって来客数の差が激しい。朝から晩まで十人以上が滞在する日もあれば、時計の音が聞こえるほど静かな日もある。この日は後者であった。
カウンターでレジの小銭を数えていたレーテが、ふと店の西側を眺める。
平和な火曜の夕方、この日はなぜか、店全体が注連縄で縛られるような緊張感があった。
台所に集まるのは枯滝水穂、瑛子、そして竜興である。
彼らの前には陶製のマグカップが人数分存在し、ガラス製のコーヒーサーバーからは湯気が立ち上っている。
「いまお出ししたのが一時間前に淹れたものです」
エプロン姿になって宣言するのは枯滝瑛子、銀のスプーンでそれぞれのカップを示す。
「分かってもらえますかお義父さん、コーヒー豆は焙煎するとその瞬間から酸化し、味が劣化します、そしてそれはコーヒーとして抽出されてからもです。酸化したために酸味が生まれ、舌に残る重い苦み、鉄のような金っぽさがあって、風味も劣化します」
「ふむ、確かにのう」
竜興は皮肉げな笑みを浮かべてカップを置く。
「じゃが、その場で抽出するタイプのマシーンは高くつくからのう、セルフにしたいんなら、ガラスサーバーに作り置きしておくほうが「手作り感」が出るのではないかのう」
「いいえ、あくまでも味にこだわるべきと思います。それにマシーンからコーヒーが抽出されるとき、もうもうと煙が出て芳醇な香りがたちます、エスプレッソなら蒸気の吹き出す音も楽しめます。あれもコーヒーの魅力なんです」
脇には水穂がいる、コーヒーが苦かったのか、舌を出して眉をしかめていた。
「コーヒーなんか紙パックのやつ置いとけばいいじゃん……でっかいやつあるよ、お茶と一緒にクリアーの冷蔵庫に入れとけばいいのに……」
「あれはカフェオレとか、加糖されたものが一般的だからダメよ。まずマシーンでブラックを淹れて、自分で調節するのがいいのよ」
「いいじゃない、おいしいよコーヒー牛乳」
「水穂、言葉は正確に使いなさい。もうコーヒー牛乳という呼称は使えないのよ。牛乳というのは生乳100%のものだけを指して……」
「じゃが、この程度ならドリップパックで十分じゃのう」
竜興老人は存在を示すように強く言い、カップの残りをすする。
「そもそもコーヒーは日に三杯も出んからのう、今まで通り注文を受けてから淹れれば十分じゃろう」
「それは注文の手間があるからです、マシーンがあればコーヒーを飲む人は多いはず」
「わしはこんなもんよう飲まんからのう、はず、と言われても難しいの」
ぎり、と瑛子が奥歯をきしらせ、水穂は肩をすくめる。
「……コーヒーはお菓子の伴にも最適です。これからデザートメニューに洋菓子を充実させていきたいんです、やはりコーヒーがないと」
「そもそもわしはコーヒーが好かんからのう、店がコーヒー臭くなるし、機械を置くならメンテナンスやランニングコストもかかる、スプーンやらで洗いもんも増えるし、漫画にこぼされた日にゃあ目も当てられん」
水穂はぴくりと片眉を動かす。彼女は経験的に知っていた。祖父がいろいろ理由を並べて反対するときは、最後の理由が一番大きいのだと。
「ねえお母さん、とりあえず紅茶をセルフにするとこから始めてみたら? お湯だけ用意して、ティーバッグ置いとけばいいんだし」
「ダメよ、ティーバッグなら本格紅茶とほとんど遜色ないものが淹れられるけど、いろいろ技術が必要なの、お客さんに任せたくないのよ。それにコーヒーマシンの導入は手間を減らすためじゃないのよ」
平和な村の夕下がり、この日にカスタネットで行われていたのは経営会議であった。議題はコーヒーマシンの導入。
カスタネットにおいてはボトルで置いているお茶は無料だが、それ以外の飲み物は注文制であった。コーヒーと紅茶は100円。これをコーヒーマシンを置くことで提供しようというのが議題である。
机の片隅には瑛子が集めたカタログ類が山積みになっている。英語のみのカタログもある。
「ほらお義父さん、これです、この機械は自販機タイプですけどコンパクトですし、冷蔵庫横のスペースに置けますよ。100円でコーヒーのホットとアイス、エスプレッソにも対応してます。カスタネットが大人の社交場と認識されるためには、こういうものを置くことが必要なんです」
「しかし値段がけっこうするのう」
「豆などの原材料費やランニングコストを計算しても、一日に五杯も出れば」
ぱん、と竜興老人が手を叩く。
「要望が来とるわけでなし、今すぐ買うようなものとは思えんなあ」
「ですから、それは村の方がコーヒーに慣れてないからで、この店が文化の発信源として」
「来月の議題に持ち越しじゃな、各自もう少し資料を集めておくようにしようかの」
くるりと背を向け、そのまま台所を出ていってしまう。
「……っ!」
瑛子はぎゅっと拳を握り、唇の橋を噛むが、それ以上食い下がることはできない。竜興に決定権があるわけではない、新しいものの導入は全会一致が原則というだけだ。来月に持ち越しというのは事実上の否決と言える。
水穂は去りゆく竜興と母を交互に見て、困ったように首を傾ける。
「別にいいじゃない、注文ごとに淹れても、私もやるから」
「……私が寝てるときはレーテくんやお義父さんが淹れてるけど、本当は品質にバラつきが出るのは好きじゃないのよ。それにこのバリスタマシン、この「機能美」を店に置きたいの。本棚にはコーヒーマシンのカタログも置くわ。こういう機械を置く生活もあるんだってことを村の人に伝えたいのよ」
「うーん、お爺ちゃんも私もコーヒー苦手だしなあ。そんな美味しいと思えなくて……」
「……」
そこで瑛子は顎に指を当て、数秒考えに沈んでから言う。
「……そうよ、ガラスサーバーに作り置きすると酸化する、という話をしたかったのに、この豆は三日前に日吉町で焙煎されたものだわ、わずかに酸化が起きている……」
「お母さん?」
「うちで自家焙煎するのはハードルが高いし……水穂、このへんに自家焙煎してる喫茶店ないかしら。毎日、いえせめて2日に一度、焙煎した豆を受け取ってこれれば品質がぐっと高まるはず」
「んー……あったかな? 喫茶店はいくつかあるけど、焙煎はどうかなあ」
「探してみましょう」
瑛子はエプロンを脱いでくるくるとまとめ、二階に向かう。
母の行動はいつも迅速である。二人が外に出たのはわずかに七分後のことだった。
※
「さっきのお店はネルドリップ式だったわね。ブレンドはモカ4、マンデリン6かしら」
根乃己にも喫茶店はあるが、多くは自宅を改装した小規模なもので、近所の顔見知りが集まるこじんまりした店が多い。
焙煎している店もあったがロースターで10杯分ほどを焙煎するだけで、カスタネットに分ける余裕はない、との回答だった。ブガッティが泥を跳ね上げながら進む。
「もうお店はないよ」と水穂。
「そうね、やっぱり日吉まで往復しないとダメかしら。通販で届けてもらうのも高くつくし、そういえば中華鍋とかで自家焙煎できるなんて話も聞くけど……」
日が傾くと光線が運転席に入るため、瑛子は日よけのバイザー型サングラスをかけている。外出のためか赤いピアスで軽くお洒落をしているのが母らしい、と水穂は思った。
母はいつでも隙がない。ちょっとした外出でもしっかり身支度をするし、家の内と外で同じ格好をしない、何かのルールを忠実に守るかのように。
「ねえお母さん、なんでそんなに一生懸命なの? あのお店ってカムフラージュなんでしょ?」
「カムフラージュ? 何の?」
「いやだから、お母さんの本当の仕事の……」
「待った!」
急ブレーキが踏まれ、四点式シートベルトが鎖骨に食い込む。
「おぶっ、ちょっとお母さん!」
「あれ喫茶店じゃない?」
「え?」
それは根乃己の中央を少し外れたあたり、畑や水田は少なく、比較的民家が密集して存在している。このあたりには小学校もあるし、図書館や公民館もある。小さいながらスーパーもあるのだ。
道の両側にブロック塀が伸びるその奥、瓦屋、酒屋、木工所、とあって、その奥に大きなガラス窓のはまった店舗が見える。
「ほんとだ、あんなとこにお店あったかな、妙に新しい感じだけど」
「新しくできたのかも知れないわね。行ってみましょう」
それもやはり民家の一部を改装した喫茶店のようだった。店の前には六台分の駐車スペースがゆったりと取られており、背の高い南国の植物がプランターに植えられている。店舗の前には白い木の柵が設けられ、大きな看板がついていた。
「純喫茶、ブラジル……」