第一話
「この宇宙には、ひとつだけ欠点があるのです」
満天の星が空を満たす。
南東の果てより立ちのぼる白煙は天の川の光。吹きすさぶ夜風は冷たく冬の名残を残し、山裾の輪郭をなぞるように木々の葉を揺らして流れ行く。
小高い丘の中腹にあって、世界は星月夜の揺り籠で眠っている。眼下にはどこまでも広がる水田の網目模様。水面はひそやかに輝き、天を満たす星明かりを我が身に写す。夜にあって地は眠り、天には無数の星の霊たちの気配。自己の意識が夜の中に拡散していくような、幽玄なる時間。
「それが何か、わかりますか」
田園の夜景を背に、立ち尽くすのは銀色の髪の青年。
立ち姿は脱力なのか洒脱な佇まいなのか判然とせず、口元は呼吸の動きもわからないほど静かであり、感情は読み取れない。その美しさは水晶のように完全であり、星座のように定まって揺らぐことがない。
「どうして、そんなことが知りたいの」
答えるのは少女である。
年の頃なら十代の半ば、わずかに花のような幼年期の華やぎを残し、これから蝶の翅を生やして飛び立たんとする活力を目に宿している。なにかの繭にも似た可憐な白のワンピース。胸元を飾るのは紫色のリボン。木造りのサンダルを履くその姿はどこか活動的な子供のようにも見えるし、その潤んだように艷やかな瞳と、夜風を受けて黒くたなびく流れ、濡れたような日本髪にはどこか大人びた凛々しさがある。
それは少女と大人の中間、秒ごとに印象を変えるような危うい人生の一瞬の光景。
銀髪の青年は目を伏せて言う。
「分かりません。心に浮かぶのはその疑問だけ。この宇宙の欠点を、それを解決せねばならない。だけれども欠点とは何なのか、私は何をすればいいのか、その答えだけを求めていたような、気がするのですが」
「でもあなた、宇宙から来たんでしょう? 地球人に今さら聞くことなんて、あるの?」
少女は青年の背後へと視線を伸ばす。そこは草地であり、膝丈の草が広範囲に生い茂っている。
そしてその中央に、丸い渦。
繁茂するすべての草が渦を描き、中央に向かって倒れている。月明かりの中でそれはどこかへ通じる入り口のようにも見えたし、霊的な気配を残す荘厳な儀式空間のようにも見えた。
青年は静かにかぶりを振る。
「分かりません。何も……思い出せないのです」
「じゃあ、私の家に来るといいよ。ゆっくり思い出せば、疑問の答えも見つかるかも」
少女はすいと手を差し伸べ、銀髪の青年は少しの逡巡の後、その手を取る。
「ご迷惑ではありませんか」
「いいよ、そのかわりお店の手伝いをしてね。住み込みのバイトは前から募集してたし、丁度よかったよ」
歩き慣れた裏山である、まして月明かりの濃い夜だった。少女はしっかりと足下を踏みしめて歩を進め、土の坂を降りていく。
「あなた、お父さんに会いに来たんじゃないの」
「お父様……ですか、なぜ、そのように」
「だって、うちのお父さん、そういうの専門家だからね」
少女は父のことを思う。あの何とも形容のできない特異な人間。おそらくこの世の誰も定義できないであろう人物のことを。
道を進めばやがてしっかりとした丸太造りの階段に至り、下方には月光にきらめく水田の中を、蛇のようにうねりながら続くあぜ道が浮かぶ。
足元に向いていた視線を持ち上げれば、あぜ道の先に見える大きな建物。それは夜の海に浮かぶ小島のような、あるいはぼんぼりを飾った遊覧船にも見えるシルエット。
前には軽トラックを含めて六台ほどの車が駐まり、屋敷のような家は全ての窓からあかあかと光を放っている。今日もお店は賑わっているようだ。
「まあとにかく、歓迎するよ」
少女は少しだけ誇るように胸をそらす。大きく腕を振って示すのは彼女の生まれた村。そして世にも珍しき彼女の家。
「カスタネットへようこそ」
※
道の果てに陽炎が見える。
土で固められた道はうだるような熱気に揺らめき、蝉の音は並木道の左右から押し寄せる。蝉の声が巨人の手になって自分を揉みほぐしてくるような音圧。
「あつい……」
そう呟くのはつばの広い帽子をかぶった女性。赤紫色のパンツスーツ姿であり、大きめのカメラバッグを腰に下げている。どこかの記者か探偵か、第一印象はそんなところだ。写真好きの趣味人には見えない。
腰からスマートフォンを抜き出し、ちらりと視線を落とす。
「まだ圏外……嘘でしょ、今どきこんな場所が……」
この村に足を踏み入れてからずっとである。別に深山幽谷、剣ヶ峯の秘境というわけではない。山に囲まれてはいるが、なだらかな低山ばかりである。印象としては開けた土地なのに、電波が通っていないのだろうか。
「泊まれる場所はあるのかしら。無いんなら日が暮れるまでに帰らないと……」
予想よりも遥かに田舎である。どこまでもだらだらと続く土の道にはガードレールもない。歩くのは丈高い杉の並木道、時おり通り過ぎる民家は垣根が低く、ひょいと覗き込めばニワトリが何羽か走り回っていたり、年季の入った物干し竿でシーツが干されていたりする。人の姿こそないものの、生活の匂いは確かにある。道端には田植え機が泥を散らして放置されていた。
ネットで調べた限りでは民宿の情報もない。観光財のあるような村ではないのだから無理もない。周辺の村とは地理的に隔絶されており、バスが一日に4本走っているだけだ。
「根乃己村……辺鄙な土地ね、ほんとになんにもないし……」
三つの県の境目にあり、周囲は山に囲まれた盆地である。JRの駅がなく、高速道路の貫通していないいわゆる陸の孤島だ。
コンビニもなく、大手外食チェーンもない、タクシーも遠くから呼ばねば来ない。逆になぜ村が存続しているのか不思議なほどだ。
さらにしばらく歩くと雑貨屋があり、その前には自動販売機がぽつんと立っていた。通電していないようで、錆の柱となっている。
「いま令和よね、いまどきガムの自販機って……」
雑貨屋の中を覗き込む。木の棚に野菜やら缶詰やら、あるいは洗剤やらサンダルやらが並んでいる。サンダルについては売り物なのか店主の私物なのか判然としない。奥まで意識を向けて耳を澄ますが気配はない。
「すいませーん、誰かいますかー」
返事は返らない。
「宿泊できるところ探してるんですけどー」
どうやら留守のようだ。店舗を開け放ったままで外出とは不用心この上ない。
「というか人いないんだけど……田圃にもいないし、車でパチンコにでも行ってるのかしら」
そのとき、目に止まるものがある。座敷の片隅にうずくまる妖怪のような存在感、それはダイヤル式の黒電話だ。
「……?」
もちろん電話ぐらいあって当然であるが、ふと違和感が浮かび、その理由が数瞬遅れてやってくる。
「あれ……そういえばこの村、電話線がないような……」
ではあの黒電話は飾りなのだろうか。住民はすべて携帯電話を。そんなはずはない、ここまですべて圏外だったと思い至る。
そこから思考が進まない、空腹と暑さのせいだった。ひとまず店を後にしてさらに歩く。景色がやや開けてきて、そこからは大きく広がる水田の眺めだった。
翠の谷に迷い込んだ感覚。左右にはなだらかな曲線のフォルムを見せる小高い山。その合間を縫って川の流れのように水田が開けている。一つの一つの田圃は四角形を保っておらず、子供むけのジグソーパズルのように一辺を湾曲させて組み合わさっている。昔懐かしい大八車やら一輪車やらが何気なく散在し、道に残る泥の足跡は乾ききって砂色に変わっている。
相変わらず人に出会わない。まるで幽霊の街に迷い込んでしまったような不可思議な感覚。そして1キロほど歩くうちに喉の乾きが強くなる。
「さっきのお店で、お金置いてきて水を買っとくべきだったかなあ」
風景はなかなか変化せず、むしろ己の歩みを押し止めるかのようだった。空腹と喉の乾きと、何より直上からの陽光に頭がぼうっとしてくる。梅雨前だというのに今日は暑い。気力が足から地面に流れ、実際に歩いた距離よりもずっと長くを進んだような気がする。疲労と気だるさが背中に積み上がっていく感覚の中で。
ふと、視線が右方に引き付けられる。
船が。
そのように見えたのは錯覚だったか。田圃の真ん中に大きな二階建て家屋が浮かんでいる。背景に水田しかないため、その建物が風景から切り取られた船のように見えるのだ。
少しいびつなフォルムの家だった。どうやら本来の家の左右に建て増しされているらしい。黒い瓦が光を跳ね返し、周囲の水田はきらきらとさざ波のような光を放つ。
家屋の前には数台の車と自転車、そして入口の脇になにかの看板が立てかけてある。遠すぎて文字までは読めない。
「? お店かしら。いわゆる自宅レストランみたいな」
「お客様ですか」
背後からの声にはっと振り向く。
そして数瞬の忘我の時間。
その人物がいつから、という疑問すら浮かばなかった。動揺すら忘れるほどに目が点になって、わずかに時間さえも止まる。
そして目に意識が吸い込まれる。それはあまりにも透明なアクアマリンの瞳。
光を透かすような銀色の髪。蝋のように白い肌。殆ど色素を感じさせない唇と、ぴんと立って形の良い鼻。耽美小説から抜け出してきたような白無垢の美青年である。青いポロシャツにジーンズというありふれた恰好ながら、まるで映画の一場面のような浮世離れした印象がある。
「お客様ですか」
まったく同じトーンでもう一度繰り返す。二度目でようやく青年の言葉の意味を理解する。
「お客……あれってお店なんですか」
「はい、お食事もできます。寄っていかれませんか」
この青年は店員なのだろうか。何にせよ砂漠でオアシスを見つけたような心境だった。女性が力強くうなずくと、青年は田圃の土手を降り、あぜ道を通って歩きだす。
よく見ればその家は水田の中の開けた土地に立っており、大きめの庭を駐車場にしていた。腰の曲がった松の木と物干し台。木造の倉庫に軒先の干し柿、錆びた自転車に古い水がめ、そんな物が見えてくる。
方向で言うと自分と青年は南側から家に向かって歩いているが、家の北側には車の通れる道もあるようだ。どこかから回り込んでくるのだろうか。
「あの、私は草苅真未、東京で雑誌記者やってます。あなたはこの村の方ですか」
「はい、レーテといいます」
「日本語すごく上手ですけど、どちらの国からいらしたんですか?」
レーテと名乗った青年は背後をうかがう気配を出していたが、草苅記者の問いかけには少し反応が遅れ。
「遠くの国です」
ややあって、それだけを言う頃にあぜ道は終わる。
ネットカフェ カスタネット
木の看板に墨でそう書いてある、ネットカフェの文字は小さく右上に添えられてるだけだ。
まずカスタネットと大字書で書き、それだけでは何の店か分からないよ、と誰かに指摘されて、しぶしぶ右上にネットカフェと添えた、なぜかそんなイメージが浮かんだ。
「履き物は玄関でお脱ぎください」
木の縦格子がはまったガラス戸をがらがらと開ける。そこまでは本当にただの民家である。しかし広い玄関の脇にはナンバーロック式の下駄箱、入ってすぐにカウンターが設置されている。古めかしいレジもあった。
「ネットカフェ……ここってネットカフェなんですか?」
「はい」
青年はカウンターの奥に回り、壁にかけてあった黒のエプロンを身につける。上下とも青の服装と、青年の白い肌、それを黒が引き締めて見えた。
「個室がよろしいですか、オープン席もございます、料金はこちらに」
「えっと、オープン席だと二時間で400円、安っ……じゃあオープン席で」
「お座席は自由となっております。こちらの伝票をお持ちください」
レーテと名乗った店員は筆箱サイズの伝票板を渡す。上部には赤いプラスチックの板が接着されており、「2」と書かれていた。それはクリップになっているらしく、レジスターから出力されたレシートが留められる。
「ご希望の方には当店の設備をご説明いたしております」
ひとつひとつがガラスの鈴のように透明な声音である。あまり抑揚がなく、感情が感じられないが、それは丁寧さとか実直さという印象に感じられた。
「ネカフェなら大体分かるけど……ああ、そういえば食事をお願いしたくて」
そのとき、背後の戸ががらがらと開き、揃いのユニフォームを着て野球帽をかぶった少年たちが入ってくる。いや、よく見れば五人いて、うち三人は女の子である。
「レーテくん、来たよー!」
「いらっしゃいませ」
「私たち一階ね、あ、男どもは個室がいいって」
「ちょっと、勝手に注文すんなよ、ハイスペの部屋じゃねえとダメなんだよ」
なんだか騒がしくなってきた。とりあえず水だけでも飲みたかったので、さっさと入ってしまおうと判断する。
「説明はいいわ、オープン席ってこっち?」
「はい、では後ほどお食事の注文にうかがいます」
喧騒を後ろ手に、草苅記者はぎしぎし鳴る廊下を進む。
「こんな所にネットカフェ……最近の田舎はすごい、のかな」
カメラバッグをえいと持ち直し、その中身の重さを確かめる。
「本命の前に、このお店の記事も書けるかしら……」
というわけで新しく連載を始めてみました、ゆっくりした更新になると思いますが、どうかよろしくお願いします。
過去作品はこちら
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