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青年旅舎

午前10時すぎ。照とマリアは西安北駅の長いホーム上を、大きめのザックを担いでよちよち歩いていた。

同じ列車に乗って来た人々は「出站口チュージャンコウ」と書かれた案内表示に従って、階下の改札へ向かって降りて行く。2人も自然とその流れに加わった。

階段を下りて行った先には巨大な広告が貼り出されていて、一際目を引く存在感を放っている。「人民有信仰 国家有力量 民族有希望」と書かれており、背景は赤系の色で、北京の名所である天安門や天壇てんだん公園、高速鉄道の写真も掲載されている。

数年前から各地で頻繁に見られるようになった、中国共産党のスローガンらしい。


挿絵(By みてみん)


照が立ち止まってぼんやり眺めていると、マリアが突然、何気なく呟き始めた。


「戦争は平和である。自由は屈従である。無知は力で・・・」

「あの、監視照相機テレスクリーンが見てますからね?」

こわ


国家主席の顔写真を貼って、その下に「偉大な同志が貴方を見守っている」とでも書いておけば完璧だったのに。やるなら徹底的にやって欲しいものです、と内心 照は思うのだった。

20世紀イギリスの大作家ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』は、照とマリアの愛読書だ。国民のあらゆる行動が監視・管理される、全体主義独裁国家が舞台の作品である。

その『1984年』で幾度となく登場するのが、「偉大な兄弟(ビッグ・ブラザー)が貴方を見守っている」という党のスローガンだ。国民はその生活の全てを党に監視されているのだが、党からすれば「国民を悪しき道(反逆など)から守っている」という訳である。


さて、西安北駅に着いた2人が、まず最初に目指すのが今夜の宿だ。趣ある雰囲気が良く、西安の中心部に比較的近くて、しかもリーズナブルと好条件が揃っているらしい。

しかし、ここ西安北駅は西安の中心部から幾分離れており、しばらく地下鉄に乗る必要がある。2人は「地铁ディーティエ」という案内表示を探し始めた。

地下鉄への入り口はすぐに見つかった。というのも、上海市内を移動していた時に見たものと同じく、相変わらず鉄格子で囲まれ、黒服で強面の警察官が何人も警戒に当たっているから、とても分かりやすいのだ。

2人は渋い顔をしながら背負っている荷物を手荷物検査のベルトに下ろした。ザックが機械に吸い込まれていくのを傍目に見つつ、女性警官に身体中を触られ金属探知を受ける。特に問題なく通過できたが、2泊3日の西安滞在中に何度これを経ねばならないのかと思うと、照もマリアも気が滅入って、自然と溜め息が零れるのだった。


10時20分頃には西安市内を南北に横断する地下鉄2号線に乗り込む事ができた。日本の地下鉄とさほど雰囲気は変わらないようだが、座った瞬間に違いが分かった。


「うわ、椅子がカッチカチ・・・」

「防火対策とコスト削減のためなんでしょうけどね・・・」


日本の鉄道各社が化学繊維を織り込んで作られた布地を座席用に使っている一方、中国(こちら)の座席はプラスチック製で妙に硬く、座り心地は控えめに言って宜しくない。


「「お尻が痛い・・・っ!!」」


西安北駅から目的地である永寧門駅までは11駅。日本の快適なシートに慣れた2人にとって、これは約30分間の小さな苦行であった。


永寧門駅に到着した2人を出迎えたのは、煌びやかな摩天楼と、歴史の風格が感じられる城門だった。駅の南側には高さ数十階建ての高層ビルが林立している一方、駅の北側約200メートルにそびえ立っているのは石造りの古風な楼閣なのだ。

「永寧門」は、西安中心部へと通ずる南の玄関口である。


「凄い、駅の北と南で景色が全然違う!」

「古都ながらもしっかり発展してますね」


冷たい雨が滴る中、傘を差しながら北に向かって足早に歩く照とマリア。城壁を抜ければ、宿はもうすぐそこだ。

ふと前方を見ると、乗用車もバスも城壁に設けられたアーチ状のトンネルを潜り抜けて行く。西安は、日本でいうと京都や奈良と同じか、或いはそれ以上に遺跡と共生する古都と言えるだろう。


挿絵(By みてみん)


トンネル内に入ると、壁面には無数の貼り紙の跡が残っていて、少し見映えが悪い。

その中に1枚だけ、恐らく貼り出されたばかりの真新しいポスターがある。余白は文字通り新品のため真っ白でよく目立つのだが、それを除けば紙面は黒い文字で埋め尽くされている。

何と書いてあるのか気になって見てみると、2人は目を疑った。簡体字で「偉大な兄弟(ビッグ・ブラザー)を打倒せよ!」を意味する文字の羅列が、ひたすら繰り返し繰り返し、紙面の上から下までを覆い尽くしているのだ。

『1984年』の主人公が、自分もやがて粛清される事を知りながら、それでも日記に殴り書きしたのと同じ言葉を・・・。


「こ、こんな大それた事が、この国で許されるはずないでしょうに・・・」

「怖いもの知らずというか、無謀というか・・・」

「・・・よし!」


誰の「犯行」なのか疑うべくもなかったが、こういう時にきちんと確かめずにはいられないのが蓮見 照である。彼女は貼り紙に右手を触れ、そっと目を閉じ、少し前の事を思い起こすように意識を集中させていく。そんな彼女の左手を、マリアは心なしか頬を赤らめながら、少し躊躇いがちにぎゅっと握り締めた。

照が持つ【歴視】の異能のおかげで、2人の視界が共有される。照とマリアの瞳に映る景色だけ、時間が巻き戻ってゆく。場面は2日前に遡った。


トンネルの中は薄暗く、真夜中であるためか外からの明かりもほとんど入って来ない。

まるで人通りが極めて少なくなるのを見計らっていたかのように、白いシャツを着て黒いマスクで顔の下半分を覆い隠した人物が1人、照とマリアが手を繋いで立っている場所に向けて歩み寄って来た。


新生ネオマニ教徒・・・」

「分かりやす過ぎます」


歩く速度は遅く、周囲を見回して身の安全を確保しているようだ。なお、これは当然の事ではあるが、照とマリアはリアルタイムでその場に居合わせた訳ではないので、彼もしくは彼女には2人の姿は見えていない。

他に誰も近付いて来ない事を確認するや、肩掛け鞄から紙1枚と糊を取り出し、手慣れた動きで壁面に貼り付ける。作業をものの10秒程度で完遂すると、白シャツに黒マスクのその人物は足早に立ち去って行った。


「いやぁ、一瞬の早業だったねぇ」

「ええ。それにしても、なぜここに?」

「余り目立つ所じゃないけど、まぁ・・・目立ち過ぎるとかえって捕まっちゃうか」

「一体、誰へのメッセージなんでしょう? 本当に、謎な連中です・・・」


2人は眉間に皺を寄せ、顔を見合わせて肩をすくめるのだった。


トンネルを抜けてすぐに左折すると、城壁の足元に伸びる細い路地がある。そこを200メートルほど進むと、遂に目指していた宿が見えて来た。


挿絵(By みてみん)


午前11時。湘子門国際青年旅舎に到着だ。外見からしてレトロでエキゾチックで、いかにも中華風といった雰囲気が漂っている。カンフー映画にも出せそうなこの建物だが、『地球の歩き方』にも載っている人気の宿で、但し書きには「明代の屋敷を改装した建物」とある。

入口からしてこれだけ趣があるのだ。期待が高まらない訳がない。2人は開けっ放しの戸口を潜って中へと進入した。

石のタイルが敷き詰められた薄暗い通路をまっすぐ進んで行く。すると、ふいに明るくて開放感のある空間が現れた。1階から3階までが吹き抜けで、天窓からガラス越しに取り込まれた日光が各階を照らしている。


挿絵(By みてみん)


2人は思わず息を呑んだ。これほど見事な内装の安宿が、この国にはあるのかと。


「エモい・・・」「ヤバい・・・」


マリアはスマホを構えると、シャッター音が途切れないくらい膨大な写真を撮り始めた。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


一体、これを何と名状すれば良いだろうか。『千と千尋の神隠し』の世界? いや、それ以上にエキゾチックかも知れない。

空気は冷たく冴え渡っているのに、どこか中国マフィアの巣窟のような、妖しげな雰囲気も感じられる。それでいて大都市の中にいる事を忘れさせるほど館内はしんと静まり返っていて、焦げ茶色の木材をふんだんに使用して細やかな装飾が施された内部は、この国の長い長い歴史の奥行きすら感じさせる。


「信じられる? こんな素敵な安宿に、今夜と明日の2泊もできるんだよ!?」

「せっかく遥々西安まで来たんですから、じっくり味合わないと!」


2人の評価も上々だったが、早くも2日後のチェックアウト時には、「あと1ヶ月くらい居たいのに・・・」と言わしめる事になるのである。


そのまま更に奥へと進むとフロントがあって、高校生か大学生くらいの若い中国人の男女数名が詰めていた。ユースホステルを切り盛りする主役と言えば、世界的に見ても大抵の場合、彼らのような若者なのだ。


你好ニイハオ! 予約していた方ですか?」

「こんにちは! ええ、蓮見 照と言います」


照やマリアとほぼ同年代の女の子が、手元のパソコンで予約の有無を確認する。蓮見 照の名前はすぐに見つかった。彼女はBooking.comを介して、2人×2泊分の予約を入れていたのである。

受付の女の子はプランを確認した後、宿泊者名簿を差し出した。2人はパスポートを取り出し、相手がそれを確認している間に名簿への記入を済ませた。

そして、支払金額が提示される。


「1人2泊で102元(≒1,700円)、それにデポジットが100元。×2名で、合計404元(≒6,700円)です!」


「デポジット」という仕組みは日本人にとってあまり馴染みがないだろう。宿泊時に1人100元(≒1,650円)ほど余分に徴収しておいて、チェックアウト時にそっくりそのまま返却するというものだ。無断で宿を出て行ってしまう事を防ぐための取り組みであり、中国のホテルに宿泊する時には必ずと言って良いほど要求される。

電子決済が急速に普及する中国ではクレジットカードでも支払えるそうだが、念のため現金は持っておいた方が良いだろう。


「マリア、4元あります?」

「1元しかないよ・・・。100元札ならいっぱい」

「3元なら私、持ってますから・・・」


相談してお金を出し合う2人。それにしても、先ほど見てきた通り高級感のある宿なのに、大人1人が2泊して1,700円程度で済むのだから、かなり良心的と言えよう。流石は『地球の歩き方』に掲載されているだけある。

支払いを済ませると鍵を渡され、チェックインが完了した。そのまま2人は3階の宿泊部屋へと移動して行く。軋む木製の階段を上って行くと、天窓から差し込む明かりが階下を照らしていて、先ほどとはまた違った雰囲気に包まれている事に気付く。


挿絵(By みてみん)


そして2人は、これから2泊3日お世話になる部屋の、ドアの前に到着した。


「ここ、ですね」


部屋はオートロック式で、カードをかざすとピピッと音が鳴り、解錠される仕組みである。

中へ入ると、木製の2段ベッドが左右に2つ、合計4床備え付けられていた。鍵で施錠できるタイプのロッカーも、人数分の合計4つ。そして小机1基の上には、ペットボトル入りの水が2本用意されていた。照とマリアへのサービス、という事だろう。


「うわあ、ふっかふかのベッド! 今すぐ寝たい・・・」


大きなバッグを床にかなぐり捨てて、いきなりベッドに向けてダイブする照。彼女は下段を、マリアは上段を選んだようだ。


「こら! 荷物整理したら行くんでしょ?」

「・・・んむうぅー」


照は枕に顔を埋めながら唸った。恐らく、このまま数分もすれば深い眠りに落ちてしまうだろう。早朝からずっと起きていたため、ここに来て睡魔に襲われているのだ。予想通りの自業自得である。

ところが、隣のベッドを見てみると、カーテンが閉まっていて傍にバッグが置いてある。中に人がいるようだ。真昼間から宿で寝ている人がいるという事である。


「う゛ら゛や゛ま゛し゛い゛・・・」

「ほら、頑張って!」


確かに、やる事さえ無ければ宿でぐっすり寝ておいて、長期旅行中の体力回復に努めるというのも、一つの立派な旅行スタイルではあろう。しかし、そんな事ができるのは、よほどスケジュールに余裕のある暇人に限られる。

やはり照は、ベッドの誘惑を振り切って立ち上がるほかないのだ。照は意を決して腕に力を込め、「ふんぬっ!」と呟いて起き出した。

2人は今まで背負ってきた大きなバッグから、くるくる丸めてコンパクトにできるタイプの小さなバッグを取り出した。これなら使わない時には小さく纏めて収納しておけるので、バックパッカー的な旅行には打って付けなのだ。

彼女たちはそこへ 、貴重品や地図など最低限の持ち物だけを入れて行く。後に残った大きな荷物は、全て鍵のかかるロッカーの中へ。

こうして、全ての準備が整った。


「さぁ、いよいよですよっ!」

「三千年の古都 観光ツアーに出発だー!」


時刻はもうじき、昼の12時になろうとしていた。

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