中原の車窓から
洛陽竜門駅を後にすると、俄かにトンネルが多くなってきた。窓の外には起伏の激しい丘陵地帯が広がっており、急峻な山肌は階段状の畑作地に覆われている。
列車はものの数十分で、次の停車駅である三門峡南駅に到着した。中国最古の夏王朝の創始者である禹が、天から命ぜられて治水工事を行なった事で知られる秘境の地だ。彼が神斧を振るって黄河を三分割し、三つの峡谷が出来た事からこの地名が生まれたという。
そして、三門峡南駅を発ってしばらくすると、霧の向こうから黄土色に濁った巨大な河川が姿を現した。東アジア文明圏の源流、黄河である。
「こんな山奥のド田舎が黄河文明の中心地・・・」
「段々畑しかないじゃん!」
彼女たちが驚くのも無理はないが、今や地方の寒村に過ぎないこの一帯こそ、3,500年の歴史を有する漢字文明の発祥地なのだ。
乾燥地帯を流れるチグリスとユーフラテスの二大河川から、灌漑によって農業用水を得て栄えた人類史上初のメソポタミア文明。ナイル川の定期的な氾濫が生み出す肥沃な大地で花開き、ピラミッドや数学、人類史上初の一神教を後世に遺したエジプト文明。インダス川と卓越風がもたらす多雨気候が人々の生活を支えたものの、今なお多くの謎が残されているインダス文明。
我々が世界史の授業で習った四大文明は、いずれも大河が育んだものなのだ。時に大洪水を起こして牙を剥き、時に豊穣を与えて穏やかに微笑む。大河こそ、人類文明の父と母だったのである。
照は目を閉じ、意識を集中させつつ窓ガラスに手を触れた。そして、遥か遠い過去の記憶を手繰り寄せるようなイメージを、頭の中で思い描き始めた。
「お? 使ってみる?」
「はい」
窓ガラスや鏡など、何かの風景が映し出される物体に対して、彼女が身体の一部を触れながら【歴視】の異能を使うと、そこに過去の風景を再現する事ができるのだ。
ちなみに照の話によれば、こうした彼女以外の人物に過去の出来事を見せて共有する方法は、他にも幾つか有るらしい。
さて、彼女が目を閉じたままじっと掌を当てていると、外の景色が一瞬ホワイトアウトして何も見えなくなった。窓ガラス1枚分の車窓に映し出される風景だけ、照の【歴視】の異能によって時間が巻き戻されているのだ。
その後すぐに霧が晴れるように視界がクリアになったのだが・・・。
「・・・あら?」
「なんか、あんまり変わらないね」
遥か遠い昔まで遡っても、せいぜい電線や家屋などが見えなくなった程度で、目に映る景色は過去と現在とで大きな変化はないようだった。幾千年の時を経ても、黄河は豊かな水流を湛えて中原を潤してきたという事だろう。
ところが、である。
「えっ!?」
「どうしました?」
「何、あれ・・・」
マリアが列車の進行方向に近い上流の方を指差して素っ頓狂な声を上げた。照がそちらの方向に目を凝らすと、黄河の流れの中に何やら巨大な黒い影が見え隠れしている。
「あれは・・・岩?」
「違うよ! よく見て!」
「あっ!? う、動いてる・・・?」
それは本当に一瞬の出来事だった。黒い影は決して岩などではなく、それ自身の力で動いていたのだ。濁った水飛沫を上げながら、まるで水棲生物のように全体をくねらせ、下流に向かって猛然と突き進んで行くのである!
「あ、あれは一体・・・」
やがて黒い影は列車の後方へ遠ざかりながら河の深みへと潜り込み、その正体がまるで判然としないまま、それきり行方を晦ませてしまった。
「・・・何だったんだろう?」
「さ、さあ・・・」
だが、純日本人である照の目から見ると、先ほど黄河の中で蠢いていた黒い影は、どこか見覚えのあるフォルムだったようにも思えた。
日本人にはお馴染みの、最近はハリウッド映画にも積極的に進出している、放射能を吐き散らしながら都市を蹂躙する怪獣王。
その後ろ姿に、どこか似ているような。照はそんな気がしたのだった。
一説によると夏王朝の始祖となった禹は、もともと魚形の洪水神だったという。
古代中国の地理書『山海経』では「人面にして魚身、足なし」と怪物じみた表現もなされているが、この恐るべき”洪水を司る神”が、いつしか”洪水を治める神”となり、大掛かりな治水事業の功績を天に認められて中国最古の聖王となったのである。
かく言う古代日本でも、地上の開拓神たる大国主命(出雲大社の主祭神)が古い蛇信仰と結び付けられ、蛇の祟り神と霊的に同一視される場合がある事を思えば、さほど驚くような話ではなかろう。
午前9時過ぎ。目的地まで残り1時間を切ったところで、トイレに行っていたマリアが駆け足で照のもとへ戻って来た。相当興奮している様子である。
「照! 来て! なんかヤバい山が見える!」
「な、なんですって!?」
進行方向に向かって左側、つまり南の方角が見えるようドアの前に2人揃って立つと、遥か遠くに水墨画のように脈打ってそびえ立つ高い峰々が見える。
照は思わず息を飲んだ。
「まさか、こんな綺麗に見られるとは・・・」
「すっごいなー! アレに人が登れるんだもんね!」
雲海を貫き、天を突くようなその壮観。天地の中央たる嵩山から見て西方に位置するこの山塊こそ、中国で崇拝される五岳のうちで最も危険と言われる華山である。
道教の聖山であると同時に、大人気の観光地でもあり『地球の歩き方』にもしっかりと掲載されている。標高2,000メートル級の険しい山岳だが、高低差900メートルを結ぶ世界屈指の長大なロープウェイが山頂付近まで開通しており、国内外から数多くの登山客が訪れる。
マリアは自分のスマホを手に、連写機能を使って華山の勇姿をこれでもかと大量に撮影していた。満面の笑みを浮かべて、歓声を上げている。
「凄いラッキーだったね!」
「本当に! 今回の旅行では時間もないので、登拝を諦めていたんですが・・・」
2人の前に忽然と姿を現した聖なる山々は、悪天候のため瞬く間に分厚い雲に覆い隠され、見えなくなってしまった。その間、僅か10分だった。
「いつか一緒に行かないとね!」
「ええ。いつか!」
日本の山々しか登った経験のない2人。まだ旅行は始まったばかりなのに、彼女たちはもう次に訪れる時を思い、心を躍らせて語り合うのだった。
幾らなんでも、気が早過ぎるとしか言いようがなかろう。
列車は華山北駅と渭南北駅にそれぞれ停車し、最後の終着駅に向けて定刻通りに出発した。いよいよ西安も間近である。
だがその時、窓ガラスにポツリポツリと水滴が当たる音が。ついに雨が降り始めたようだ。
「あーあ。なんか最近の旅行、全然天気に恵まれないなぁ」
「去年の北海道旅行なんて、1週間ずっと雨でしたからね」
景色は良くない。写真も映えない。傘は乾かず、どこへ行くにも余計に時間が掛かり、せっかくの旅行なのに気分はだんだんと憂鬱に。
旅先で長雨続きというのは、本当に堪えるものがある。
「呪われてるんじゃない?」
「・・・・・・・ん?」
嘲笑を帯びた表情を浮かべながらマリアが放った一言によって、2人の雰囲気は一瞬で緊迫した。額に青筋を立てた照がすかさず言い返す。
「どっちが、ですか?」
「・・・・・・あぁ?」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
2人ともお互いを指差して、天気運が悪いのはお前のせいだと言わんばかりに、冷めた目で見つめ合うのだった。
もっとも、僅か数分もすれば双方気を取り直して、何事も無かったかのように収まっているのが常なのだが。
午前10時ちょうど。列車はゆっくりと駅のホームへ進入し、やがて静かにその歩みを止めた。2人は遂に西安北駅に到着したのだ。
上海駅を出発して実に11時間。走行距離およそ1,500キロに及ぶ、長距離列車の旅もここで終点である。
「では、行きましょう!」
「いよいよ旅本番! 楽しみだなぁ!」
先程の険悪な雰囲気も何処へやら。相変わらず天候はパッとしないが、今は2人とも晴れやかな表情だ。
その時、ふと照の脳裏に、1,200年前の光景が浮かんだような気がした。
在りし日の遣唐使たちも、数ヶ月に及ぶ旅の果てに長安の都へ辿り着いた暁には、同じような胸の高鳴りを覚えたのだろうか・・・と。
しかし、これはゴールではない。照はそう思い直して首を横に振った。2人にとって、この瞬間は始まりに過ぎない。ここからようやく、彼女たちの旅が始まるのだ。
「「せぇーのっ!!!」」
ドアが開く音と共に、2人は三千年の古都への第一歩を踏み出した。
【御連絡】次話は執筆中のため投稿が大きく遅れる見込みです。代替の短い作品をアップする予定でございますが、まずはご了承賜りたく存じます。