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華北平原

ふと瞼を開けてみると、やけに天井が近く感じる。

照は一瞬だけ違和感を覚えたものの、その理由はすぐに思い出す事ができた。彼女は昨夜から寝台列車に乗って中国を旅しているのだ。二段ベッドの上段から天井までの距離は、僅か数十センチしかないのである。

車窓から入り込んで来る曙光のため、既に個室内は明るくなっていた。寝ぼけ眼で時計を見ると、朝の6時を指している。西安せいあんに到着するまで、あと4時間ほどだ。

こういう時、そのまま二度寝してしまえば良いのに、照にはそれが出来なかった。目的地に到着するまでに朝食をお腹に入れておかなければ・・・と思うとおちおち寝ていられなかったし、何より彼女は”車窓”を含め、旅の途中で見られる景色は全て一目見ておかないと気が済まない性格なのだ。

結局、あとで睡眠不足で昼間に眠くなるだけなのだが。本当に難儀な人間だと、照は自認するのだった。


マリアはまだ隣のベッドですうすう寝息を立てている。下段を見下ろすと、家族連れ3人全員が熟睡中だった。赤ちゃんも父親に抱かれるように寝ていて、すやすやと気持ち良さそうだ。

照は正直なところ、赤ちゃんの事だから夜泣きして起こされてしまうのでは、などと考えていた。だが、そんな心配を他所に、当の本人は和諧号ゆりかごに揺られて一晩中爆睡していてくれたのだ。有り難い限りである。

下段の家族連れを起こさないよう、照はゆっくり慎重にベッドから降りて行く。その際に母親が寝ている布団の端を踏まなければならないのだが、幸いにも彼女の安眠を妨げずに済んだ。ちなみにこういう時、マリアは揺すっても叩いても決して起きないので放っておけば良い。

個室の扉を開けて通路へ出ると、進行方向に向かって右側に大きな窓が並んでいて、その真下には補助椅子が幾つも備え付けてある。その一つを倒して腰掛けると、彼女にとって初めて見る光景が目の前に広がっていた。


「これは・・・日本ではまず御目に掛かれませんね」


空模様はどんよりとした曇りで、じきに雨が降り出しそうだ。しかし、彼女が注目したのは天候ではなく、車窓から見える地形であった。


挿絵(By みてみん)


見渡す限り広がる大平原。山も丘も一つたりとて見えず、真っ平らな大地は畑と雑木林に覆い尽くされている。日本や華南のような水田は見当たらなかった。

雑木林はどこか人為的で、自然の植生ではないように思う。天に向かって屹立している、ポプラのような樹種ばかりだ。建築物は畑や雑木林の合間に点々としており、人口密集地でない事は一目瞭然である。


「そっか、快眠できた理由はこれね」


日本は山勝ちな国土を有し、列島中のあちらこちらが起伏だらけだ。しかも田舎ですら地権者が多く、鉄道を一本通すだけでも立ち退き交渉は非常に煩雑なものとなる。それらを避けるために、日本の鉄道は新幹線を含めてカーブの連続となってしまうのだ。

しかしこの辺りでは、しばらく走っても起伏が全く見当たらない。都市と都市の間なので、人口もさほど多くないだろう。加えて中国では、線路を通す際にどうしても立ち退かない人間を、強制的に排除してしまう事も容易なのだ。

これらの理由により、ここ・・・徐蘭高速線の軌道はカーブがほとんどなく、列車はまっすぐ高速度で走る事ができる。それが横揺れの少なさを生み、おかげで彼女たちはぐっすり眠れたという訳なのだ。


華北平原かほくへいげんは、北京から長江まで南北1,000キロに広がる巨大な平野だ。面積は31万km2で、関東平野の約17倍、大阪平野の約200倍もの広さを誇る。

北海道と四国と九州が丸ごとすっぽり納まり、それでもなお余りあるほどに広大なこの平野は、古来より「中原ちゅうげん」と呼ばれてきた。中国の二大河川、黄河と長江が創り上げた肥沃な大地の支配権を巡って、数々の古代王朝が凌ぎを削ってきたのである。


「・・・・・・・・」


照は何をするでもなく、ただボーッと車窓の進行方向を眺めながら、どこまでも広がる華北平原の長い長い歴史に思いを馳せていた。

決して無為な時間ではない。こうした一見すると無駄な時間の使い方こそが、次の時代に役立つ新しいアイデアを閃く事に繋がると、最新の脳科学が明らかにしているのだ。


ところが、もともと一個人がどう生きるかを他人から勝手に決め付けられやすい国ではあったものの、最近の日本では、悲しいかな・・・ボーッと過ごす事すら否定され始めているような気がする。照はそんな機運を感じ取っていた。

通勤通学は英語の学習に当てろだとか、帰宅後は資格の勉強をしろだとか、忙しいのにわざわざ時間を作って運動をしろだとか。

せっかくの自由時間をどう使おうが、個々人の自由ではないか。マリアには悪いと思っているものの、照は一人でボーッとしている時間が一番休まるのだ。


「いいじゃないの、ボーッと生きてたって・・・」


おかっぱ頭の5歳児に何と言われて叱られようが、構うものか。照は頬杖を突いて、ムスッとした表情を浮かべた。捻くれ者の照らしい開き直りだった。





午前7時すぎ。列車は鄭州東ていしゅうひがし駅に到着した。

やはり高速鉄道を通すために造られた駅はどれも真新しく感じる。開放感があり、全体的に綺麗だ。


鄭州は華北平原の西の際に位置する交通の要衝である。広大な平野部はここで終わり、この先は山間部に分け入る道が西方へと伸びている。

古代中国のいん王朝はここを首都と定めたが、この後で通過する事になる洛陽らくようや、列車の最終目的地である西安など、この辺りは歴代の王朝が幾度となく都を置いていた事で知られている。

というのも、古代中国では鄭州市中にそびえる山岳信仰の聖地、嵩山すうざんを「天地の中心」と見做していたのだ。為政者は中華思想に基づき、「天地の中心」の近辺で政治を行なう事で、観念的には天地の全てを統治し得たのである。

ちなみに、この嵩山の山麓で1,500年前に開かれた禅宗の寺院が、かの有名な少林寺であり、今や一大観光名所となっている。


何人かの乗客がキャリーを引いて列車を降りて行く。改札口を目指してホーム上を歩く彼らを、照は車窓からぼんやり眺めて見送っていた。

すると、後ろから彼女の肩を叩く者があった。通行の邪魔になってはいまいかと咄嗟に振り返ると、そこにいたのはマリアだった。


「うーん・・・照ぅー?」

「ッ!? あ、あんた・・・」

「相変わらず起きるの早いねぇ・・・ふわぁっ」


寝起きで逆立つ髪を掻き上げながら、マリアは人目も憚らずに大きな欠伸を一つ。

しかし、照は青ざめた表情を浮かべて、彼女を指差してガクガクと震え始めた。


「そんなっ、マリアが目覚まし時計より早く起きるなんて・・・・!!!」

「んー?」

「もう、人類は終わりね・・・。て、天から何が降って来るのかしら。隕石? 彗星? それとも・・・宇宙人?」

「幾らなんでも失礼ですよ」


発車を告げるベルが鳴り響く中、マリアは真顔で照に答えた。おかげで彼女も目が醒めたようである。





「これこれ。昨日から気になってたんだよね」


マリアは2人が乗っている車両の壁に埋め込まれたステンレス製の給湯器を指差した。

高速鉄道だろうと在来線だろうと関係なく、中国を走る列車では車内に給湯器が備え付けられている。乗客はおのおのインスタントラーメン等にお湯を注いで、簡単な食事を取るのだ。

照は日本から持参した登山者用のカレーリゾッタを取り出してマリアに手渡した。お湯を注いでチャックを閉じ、3分待てば温かくて美味しいご飯物が食べられるという優れものである。登山と旅行が趣味の照の寮室には、相当な量のフリーズドライ食品が保管されているのだ。

無論、お湯を注ぐ前はカップラーメンの如くカサカサに乾燥しているので、持ち運ぶ分にも軽いし、大して嵩張らない。災害時にも役立つので、大量に備蓄している役所や企業もあるという。

マリアが容器にお湯を汲んで来て個室まで運び、照が2段ベッドの上段まで慎重に持ち上げる。2人の流れ作業の後、3分経ってからチャックを開けてみると、スパイシーな香り漂うほかほかのカレーリゾッタに変身した。

2人同時に手を合わせ、まずは1口。咀嚼し、飲み込んで、マリアがうんうんと頷いた。


「うん・・・悪くない!」

「悪くない、とは?」

「ほら、この前に伊吹山で食べたクリームチーズ味のリゾッタなんて・・・」

「あれはゲ○味ですってば!」

「分かるー!! ○ロ味!!!」


笑い合う二人。楽しくてついつい声が大きくなってしまう。既に下段の家族連れも起きてカップラーメンを啜り始めていたのが幸いだったが、この騒々しさでは寝ている人すら叩き起こしてしまっていた事だろう。


奈良市内の同じ大学に通う照とマリアは、北海道から沖縄まで、日本各地の観光地や山岳を2人で一緒に旅してきた。

彼女たちは大抵、旅先に何食分かのフリーズドライ食品を持参した。観光地価格のご当地カレーや何とか定食を頼むより、お湯さえあれば1食あたり500円でお腹が膨れるので、こちらの方が財布に優しいのだ。


「美味しいねー」

「ですねー」


そのお陰で、二人はフリーズドライ食品に慣れていた。・・・というより、たくさん食べ過ぎて飽きていたのかも知れない。気を紛らすためにこそ、彼女たちはワイワイ騒ぎながら、もう何度も口にしたそれを胃の中に掻き込むのである。


「・・・飽きた」

「それは言わない約束ですよ」





午前8時すぎ。洛陽竜門らくようりゅうもん駅に到着した列車から、荷物と赤ちゃんを抱えた家族連れが降りて行った。

窓際に座っていた私たちと赤ちゃんの目が合うと、マリアはくすっと微笑んで手を振った。彼女は3人の姿が見えなくなるまで、その去って行く方向をじっと見つめるのだった。


「いやぁ、可愛い赤ちゃんだったねぇ」

「うん、まぁ・・・夜泣きしないでいてくれたのは有難かったですね」

「もー! どうして照はそんなに子供が嫌いなのよー」

「別に、嫌いって訳じゃないですけど・・・」


一般的に女性は、たとえ他人の子であったとしても赤ちゃんや小さな子供を非常に可愛がるものとされている。かつて女性たちが、共同体に属する子供たちを1ヶ所に纏めて養育していた時代の名残なのだろうが、中には照のような例外もいる。

要するに彼女は、子供に対してほとんど興味が湧かないのだ。


「将来、私が男の人と結婚して子供を産むって事が、全く想像できないんですよね・・・」

「うん?」


照は渋い顔をした。幾ら相手がマリアとは言え、あまり他人に聞かせられるような話でもないし、聞かされるマリアとて気持ち良くはないだろうからだ。


「赤ちゃんを可愛がらないなんておかしい、って言う人もいるかも知れません。女性としての幸せがどうとか、子供を愛せないなんて幼い、とか・・・」

「んんー・・・」


やがて彼女は、半ば自虐的な笑みを浮かべてこう言うのだった。


「だから私、思うんですよね。私は母親になっちゃいけない人間なんだろうな・・・って」

「・・・・・・・」


マリアは何も言わず、ただじっと照の話を聞いていた。最後に、「生きてるうちに考えが変わるかもよ?」と、そう言って軽く照の肩をポンと叩いた。

こればかりは個人の性格の問題だ。世の中には様々な価値観の人がいる。そう彼女は理解したようである。

しかし・・・。


「私はねー」

「はい」

「照と私の赤ちゃんが欲しい」

「・・・・・・・ヒェッ!?」


照は度肝を抜かれた。笑顔を引き攣らせながら、訴え掛けるような目でマリアを見つめる。


「ちょっ、冗談は止めてくださいよ・・・」

「何て名前にしよっかなぁ」

「えぇ・・・・」


照の完敗である。しかし、これもまた個人の性格の問題。世の中には本当に様々な価値観の人がいる、と彼女は理解するしかなかった。

差し当たっての問題は、技術的に可能かどうか、であろう。


「い、いつか中国が実現してくれるかも・・・」

「開発はよ」


人間の遺伝子をサルの脳に移植して、認知機能を向上させる研究。

眠りに就く事が出来ないようゲノム編集されたサルと、そのクローンの製造。

ゲノム編集により遺伝子を改変した人間の赤ちゃんの双子・・・などなど。


中国人研究者は、生命倫理上の問題を孕む領域に、あえて飛び込んで行くところがある。そもそも倫理観が希薄で、技術的に可能な事であれば何でも実際にやってしまうのだ。

雄マウス同士、雌マウス同士から子供を誕生させる事すら、既に中国科学院が成功している。もしかすると、マリアの待ち望む未来は決して遠いものではないのかも知れない。

こうした「倫理など知った事ではない」という強み。いかにも中国らしい「何でもアリ」なスタンスだが、これと軍国主義が結び付いた時に、一体何が起こるのか。答えは明らかだ。

SF映画『スター・ウォーズ』に登場するクローン軍隊を、人類史上初めて実現する事になるのは恐らく中国だろう。なにしろ、一人っ子政策の弊害によって中国は深刻な少子化に直面しており、それはつまり人民解放軍の成り手がいないという、国家の存亡に関わる大問題を孕んでいるのだから。

そして紛れもない事実として、人民解放軍なくして中国共産党が独裁体制を維持する事など出来はしないのである。

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