遥かなり西安
午後10時20分。候車室5の改札口は、これから同じ列車に乗り込む事になる数百人の乗客たちで溢れ返っていた。あと10分で開札が始まるというアナウンスが流れると同時に、待合所で座り込んでいた人々が一斉に立ち上がり、改札口に殺到していたのだ。
「私たち凄い運が良いよね・・・」
「ナイスタイミングでしたね!」
アナウンスの瞬間、偶然にも彼女たちは案内表示を確認するため改札口の目の前にいた。そのお陰で、非常に良い位置に付く事が出来たのだ。中国の鉄道を利用する場合、発車の約30~40分前には改札口の前で待機するよう心掛けるのが良いだろう。
「さあ、準備は良いですか!」
「オッケー!」
開札は午後10時30分ちょうどに始まった。順番に手持ちの切符を機械に通すと、人々は流れに身を任せてホームへと向かって行く。
切符には「D306次 22:50開 2駅台上車」と書いてあった。「D306の列車は22時50分に出発する。2番線へ行け」という意味だ。
「それでは、2番線に急ぎましょう!」「よっしゃあー!」
案内に沿って歩いて行くと、何条もの線路が敷かれた巨大な駅空間が現れた。ホームは6本から7本あって、頭上は金属製の骨格で支えられたドームで覆われている。煌々と明かりが灯され、階段の踊り場から見下ろしてみると、思った以上に綺麗な駅である事が見て取れた。
2人が階段の先を見下ろすと、左手の2番線に白を基調とした車両が並んでいる。マリアが素っ頓狂な声を上げた。
「あー!! これってもしかして・・・シンカンセン!?」
「しーー! あれは中国国内メーカーの自主開発って事になってるんです!」
「え、でもICEにも似てるような気が・・・」
「しーーーーっ!!」
今夜一晩お世話になる夜行列車。その車体は丁寧に整備されているようで、白い光沢を放っている。窓付近は黒く塗装され、そのすぐ下を鮮やかな青い線が走っている。
発車まで少し時間があったので、2人は一番端の車両まで行ってみる事にした。前方から眺めると、JR九州が運行する特急かもめによく似た流線形のフォルムが何とも印象的だ。
運転席の前方には、この高速鉄道車両の名前が記されていた。
「あ、これ知ってる! シンカンセンとICEとTGVのパクもがごごごェェ」
「その先は言わない方が身のためです」
照はマリアの口を手で塞ぎながら窘めた。
和諧号。中国全土を結ぶ約3万キロとも言われる高速鉄道網を支える、世界的にも有名な車両である。マリアの言う通り、日本でいえば新幹線車両に当たるだろう。中国ではそれが夜行列車としても運用されているのである。
「今から乗る列車って、本当にこれ!?」
「そのようですね」
「シンカンセンの中にベッドが備え付けられていて、凄いスピードで走るけど、ちゃんと寝られる・・・って事だよね?」
「日本では未来永劫見られそうもない光景です」
高速鉄道車両が夜行列車として使われているというのは、日本人からすると相当な違和感を覚えるかも知れない。中国では日本と違って「新幹線」と「在来線」の軌間(線路の幅)の差が無く、高速鉄道車両が在来線と同じ線路を走れる。それが自由度の高い運行計画に繋がっているのだ。
「ところで、”ワカイ”ってなぁに?」
「聞いたところによると、『矛盾のない調和のとれた社会』の事だそうですよ」
「ふーん」
和諧号は日独仏の大手車両製造メーカーからの技術移転によって開発されたものであるが、一方で中国政府はこれを自主開発したと主張しているそうだ。
記念撮影を終え、発車まで残り10分となったところで、2人は2号車から乗り込んだ。目的地の方角から鑑みるに、1号車が一番後ろの車両になるようだ。
車内を見渡してみると、ホームと反対側の窓際には一直線の通路が伸びていて、彼女たちより早めに来た乗客たちが補助席に座ってくつろいでいた。
通路には個室が10戸ほど面していて、それぞれの内部にベッドが4つ据え付けられている。上下2段かける2列で、軟臥と呼ばれる少し値の張る寝台だ。
最初の個室の入口には001から004まで番号が書いてあった。2人の番号は002と004。この部屋で間違いはないのだが、2人とも2段ベッドの上段なのに、どういう訳かそこまで上るための梯子が付いていない。
「どうするのこれ!?」
「あっ、ここに足を掛けてよじ登るみたいですよ!」
「寝る前にアクロバットな昇降運動しないと、ベッドにすら辿り着けないやつだね!!」
「眠気も覚めちゃいそう・・・」
ドアの横、高さ1メートルくらいの場所には取っ手があり、引くと足を掛けられる程度の大きさの金属板が出てくる。「これで何とかしろ」という訳だ。十分な筋力を持たない女性や老人の存在をまるで想定していない、些か無責任な仕様である。
成人して間もない女子にとっては些か無様で恥ずかしい格好をしつつ何とか登りきると、その高さに少々不安を覚える。しかも転落防止用の柵が高さ10センチ程度しか無いのだ。寝相が悪い人間は、心地よく寝ている間に自由落下して全身を強く打ち、病院送りになってしまうという恐ろしい代物である。
ふと2段ベッドの下段を覗き込むと、家族連れと思われる3人組が楽な姿勢でくつろいでいた。父親と母親、それにまだ小さな赤ちゃんである。
もし運が悪ければ、彼らは何もしていないのに、上空から全く悪気のない肉弾攻撃を被ってしまう事になる。
そう考えると照は空恐ろしくなった。
「ちょ、ちょっと怖いです・・・」
「新たな不安材料が湧いてきたね・・・」
それでも、大人しく寝てさえいれば、明日の午前中には目的地に到着する事に変わりはない。2人はホッとした表情を浮かべて、それぞれの荷物を所定のスペースに押し込んだ。
そして、発車1分前。車内チャイムが鳴った。
「レディース・アンド・ジェントルマン。長らくお待たせ致しました。この列車は西安北駅行きです。お乗り間違い無きようご注意願います。それでは間もなく発車します・・・」
女性乗務員のアナウンスが流れ、しばらくして扉の閉まる音が聞こえた。午後10時50分。列車は定刻通りにゆっくりと滑り出し、上海駅を後にした。
「遂に」
「始まりましたね」
上海から烏魯木斉まで、5000キロに及ぶ鉄道旅のスタートだ。明日の午前10時頃には、三千年の古都、西安に到着するだろう。
さて、個室のドアは閉めておいたのだが、発車してから数分もすると外からノックする音が聞こえてきた。
「切符をお預かりしまーす」
「ほーい!」「お願いします」
車掌が各部屋を回って、乗客1人1人の切符を預かり始めたのだ。各人の行き先を乗務員側が把握するため、そして彼らが予定と違う駅で降りてしまわないようにするためである。
切符を回収される代わりに乗客は引換券を手渡される。これを降車駅に到着する30分から1時間ほど前に再度切符と交換してもらって、列車から降りていくという訳だ。
人数分の切符を回収し終えると、係員は物言わず隣室へと去り、不思議な静寂が訪れた。聞こえてくるのは列車の走行音と、下段で家族連れが談笑する声くらいだ。
照は洗面用具が入った小さなポシェットを片手に、危うく体勢を崩して転落しそうになりながらも何とか床まで降りてきた。その様子を見ていたマリアも、がさごそと荷物を漁り始めるのだった。
2人は個室を出ると洗面台のある方へ向けて細い通路を抜けて行った。だが、そこには既に先客がいたので、順番が来るまでその場で少し待つ事になった。
「旅のメインの目的地は、トルファン・・・で良いんだよね?」
マリアが退屈しのぎに口を開くと、照は大きく頷いた。
「そうですよ。新疆ウイグル自治区の東部に位置する、熱砂と歴史の街。往時のシルクロードの要衝です」
「で、どうしてそこがメインかというと・・・」
「・・・・・・」
「・・・照?」
「・・・・・・・・・グビっ」
「アーッ! アーーッ!! アアアアーーッ!!!」
「ンフぅ・・・」
照はさっき買った白酒の小瓶に口を付けて、そのまま中身を喉に流し込んでいた。ポシェットに忍び込ませておいたようである。アルコール度数は、56%だ。
「ヨーグルト!!!!! 中国人ですら、まずヨーグルト飲んで胃壁に膜を作ってから乾杯するっていうのに!!!」
「口の中をアルコール消毒したんですよ」
「イカれてる・・・」
「結構。ところで、イカレてると言えば」
「むっ」
照が目線も話題も逸らそうとするのを見て、マリアはぶすっとした表情で睨んだ。
「夕食のお代を払って下さったあのお方。禁酒、禁欲って繰り返し仰ってましたね」
「うん」
「新生マニ教の教義って、何かご存知ですか?」
「え? いきなり・・・?」
突然の設問に驚いたマリアだったが、それでも彼女は腕を組んで虚空を眺めた。「うーん・・・」と唸って、答えを絞り出している。
「えぇっと・・・消費社会からの脱却、動物の愛護や屠殺者への弾圧、反原発、反軍事、表現の自由、人権・平等・博愛、異文化・異人種への寛容主義、弱者の権利拡充、独裁政権の打倒、その他諸々・・・」
「って、私が教えましたよね」
「そうだったそうだった!」
「ええ。確かに、今マリアが言った通りです。それらは新生マニ教が掲げる重要な教義ですから。しかしですね・・・」
照は目を細め、眉間に皺を寄せた。
「実際のところ、それらは俄に付け加えられた新しい教義に過ぎません」
「そ、そうなの?」
「はい。実は新生マニ教は、それらに加えて禁酒や禁欲も、伝統的な教義としてちゃんと謳っているんですよ。人民が禁酒・禁欲を心掛ける事で争いの無い平和な世界が築かれるんだー、って」
「へー!! そうなんだ!?」
マリアは驚いた。もしそうだとしたら・・・。
「さっきの人が言ってた内容って、新生マニ教の主張とそっくり・・・って事になるの?」
「というより、丸っきり同じでしたよ」
「・・・・・・」
「遂に来ちゃいましたね」
「うん・・・・」
いよいよ自分たちのところにまで勧誘が来たのか、とマリアは身震いがした。現在進行形で、世界中の国も人も飲み込み、果てしなく蔓延していくあの宗教が、まさか自分たちをも取り込もうと触手を伸ばしてきたなんて。
それだけの事・・・と言うのは容易いが、何故かマリアは言い知れない不気味さと寒気を覚えた。やはり、相手が相手だからだろうか。それとも、かつて自ら棄教してしまったとは言え、自分がキリスト教圏の出身だから?
「第4の世界宗教を復活させたっていいますけど、千年も前にほとんど壊滅したはずの教団を、21世紀にもなって甦らせたと豪語して、そのくせ元来の教義を歪めに歪めて現代風にアレンジしたうえで世界中に広めて、各国で過激な言動をするなんて・・・」
「まあ、ロクなもんじゃないって事は確かなんだろうけどね」
「正にイカレた連中です」
マリアは溜め息を零して肩を落とした。
「はぁ・・・新生マニ教かぁ」
その時、先に洗面台を使っていた女性が、やっと用事を済ませたらしくその場を離れて行った。マリアは照に順番を譲ると、壁に背をもたれてポケットに手を突っ込んだ。
何もせずボーッと考えるうち、ふとマリアは、切符売り場で目にした当局のメッセージを思い出した。それに、上海駅周辺で繰り返しアナウンスされていた内容も。
「中国政府も随分と警戒してるみたいだったね」
「ごぼごぼっ。・・・『異教徒』がね、怖いんですよっ! ぶくぶく・・・」
「異教徒?」
照が洗顔の途中で息継ぎをしながら答えた。
「・・・ん、ぷはっ! 社会主義も一種の新興宗教ですからね! 同じ新興宗教どうし、お互い攻撃的になるのは当然なんですよ!」
「なるほどね・・・」
産業革命期のイギリスで、実業家にして社会改革者のロバート・オウエンが労働者の待遇改善に取り組んだのが200年前。共産主義の大思想家、カール・マルクスが『共産党宣言』を書いたのが170年前。人類史上初の社会主義国家たるソビエト連邦が爆誕したのが100年前で、第二次世界大戦末期に中国共産党が、華南の農村出身の野心家が思い描いた脳内妄想ワールドを「毛沢東思想」と呼んで自らの指針としたのが70年前だ。
社会主義というのは、まだまだ歴史の浅い(が恐ろしく濃い)新興宗教に過ぎないのだ。
現に数日前、新生マニ教の過激な信徒たちが、北京の広場で違法な集会を開こうとして当局に阻まれ、多数の逮捕者を出す事件が発生したばかりなのである。
「それにしても、『古マニ教の聖地に行く事が旅の最大の目的』だなんて、当局に知られたらどうなる事やら・・・」
「いえ・・・そもそも、ちゃんと辿り着けるのかどうかすら怪しいですよ。あ、お先にどうぞ」
照は濡れた顔をタオルで拭きながら、今度はマリアにも洗顔を促した。
「あ、どうも。ええー、せっかく新疆ウイグル自治区の近くまで行って、入域すら出来ずにとんぼ返りってのは勘弁して欲しいなぁー」
「それはつまり、”私たちが探しているもの”に近付けないって意味ですからねぇ・・・」
これこそまさに、今の2人にとっては一番の懸案事項だったのだ。今はただ、無事に行ける事を祈るしかない。
20分ほど掛かって、照とマリアは化粧を落とし、歯を磨き、トイレまで済ませた。
これで寝る支度は完璧だ。2人はそそくさとベッドへ戻り、白いシーツが掛けられた布団に潜り込む。ベッドの弾力は日本の寝台列車とさほど違いはなかった。
今日は1日の大部分を移動に費やしただけだったが、それでも彼女たちは疲労困憊していた。2人が心地良い揺れの中で安らかな眠りに落ちていくまで、さほど時間は掛からないだろう。
「いよいよ明日から旅行本番だね」
「ええ。でも、何だか実感が湧かないような・・・まだ始ってすらいないような。そんな気がするんですよね」
「わかる」
「ふふっ」
下段では既に、家族連れ3人が静かに寝息を立てていた。起こしてしまわないよう、2人は小声でひそひそと話をした。
「照との初めての海外旅行。私、すごく楽しみにしてたんだぁ」
「私もです。きっと、一生忘れられない思い出が作れるでしょう」
「国内旅行なんかとは比べ物にならないくらい、色々と事件が起こりそうだけど・・・」
「そこは気合い入れて乗り切りましょう」
照が自信たっぷりに答えると、マリアはくすっと微笑んで、悪戯っぽく切り返した。
「旅行だからといって、アルコール飲料はくれぐれも飲み過ぎないよう・・・」
「おやすみなさい」
「・・・おやすみー」
2人を乗せた和諧号は、西へ向けて静かに走る。不思議にもそのルートは、かつて唐王朝の先進的な文化や諸制度を学ぶべく、奈良の都を出発して遥かなる長安(現在の西安)を目指した、1,200年前の遣唐使たちと同じであった。
彼女たちもまた、この旅から学ぶべき事が沢山あるだろう。1日目は過ぎ去ったが、シルクロードをなぞる彼女たちの旅は、ようやく始まったばかりなのである。