日本と中国
大衆食堂から上海駅へ戻る途中に、これまた照明が少なく薄暗いスーパーマーケットがあった。店番をしているおばちゃんは、常連客と思しき男性と楽しそうに話し込んでいて、照とマリアに気を使う様子はまるで無さそうだった。
照は店内の隅の方で、背丈よりずっと大きな棚に陳列されている無数のガラス瓶を見つめていた。ワインやウィスキー、紹興酒のボトルは数も多かったが、照はそういった日本でも容易に手に入るような酒類には目もくれていなかった。
棚の前にしゃがみ込み、片手に乗るほどの小瓶を矯めつ眇めつ眺めては、気味の悪い笑みを浮かべていたのだ。
「うぇひひ・・・アルコール度数、怒涛の56%ッッ!! 頭の悪い飲み物ねぇ・・・ンフフ」
「そんなもの買うの!? ねぇ、止めようよ・・・」
「嫌よ! 中国旅行したら白酒を味わい尽くすと最初から決めていたんですもの!!!」
「初めて聞いたよそんなバカみたいな話」
「バカで結構ですわ」
照が瞳を輝かせて魅入っていたのは、持ち運びに便利な100mlの小瓶に封入された、数種の白酒だった。
白酒とはイネ科の穀物の一種、高粱を主原料とする中国生まれの醸造酒だ。ツンとする強い香りと、高いアルコール度数が特徴である。
中でも特に照の気を引いたのは、赤い星形のラベルが貼られた商品であった。
「ちょっと、何なんです貴方は!? そのシンプルでイカした文化大革命的なラベルは!!」
「・・・・・」
「いかにも"ザ・中国"って感じのお名前・アンド・デザインしてるじゃないですか・・・!!」
「・・・・・」
「きっと貴方、さぞかし美味しく作られたんでしょうねぇぇ!?」
「・・・・・」
「い、いいいぃぃぃいい良いですよ? これぞ正しく一期一会! 私たち人類と酒は、この星で奇跡の出会いを果たす運命だったんですから!!」
「・・・・・」
「私が、じっくりと味わってあげますからねぇええぇええええええぇえええ!!!」
「・・・・あのさ」
「じゅる。」
「なんでお酒に向かって話し掛けてるの?」
「・・・・・・えっ、どうしました?」
「は?」
「私ったら今、何か言いましたっけ?」
「照」
「はい?」
「貴方、いよいよおかしいよ?」
「・・・・・・え?」
「もぅいいわ」
「ぅん?」
ラベルには「紅星」と書いてあった。中国では有名な白酒の銘柄だという。名称の横には「二鍋頭酒」と書いてあり、これは「二回蒸留したお酒」という意味だそうだ。
しかし、マリアは心底呆れた様子だった。
「もう! 飛行機の機内でビールとウィスキーをしこたま飲んでたよね!?」
「はい」
「まだ飲むの!?」
「はい」
「肝臓おかしいんじゃないの?」
「はい! ・・・あ、でも」
「?」
「そこで『頭』とは言わないでくれるんですね」
「いやどっちもおかしいわ」
「おさけはともだち! あたまおかしくないよ!」
「どっちかというと頭の方がアレだったね・・・」
「うふふ・・・」
照は気にせず鼻歌を唄いながら小瓶を手に取り、立ち上がってレジへ向けて歩き始める。その途中で、照はさっきのお店で出会った人の事を思い出した。
「それにしても、白酒を取り扱っているお店を紹介してくださるなんて、とっても親切な方でしたねぇ!」
「呑気だね照は。ちょっと変わってて面白い人だったけど、こっちは内心ヒヤヒヤしたよ! バレたらどうしようかと・・・」
マリアはそう言いながら掌を照に差し出した。お酒を買うために財布を取り出していた照は、それを見て無言で15元(=約250円)を数え上げ、マリアに手渡した。先程のお店で、マリアが照の分まで立て替えておいてくれたからである。
「私たちの旅行の、真の目的かぁ」
マリアはそう言いかけて首を横に振った。
「いやいやいや! まあ・・・さっきの人に話したところで、どうせワカラナイよね! 私たちの目指してる”場所”なんて」
「さて、どうでしょうか」
「えっ?」
照は店番のおばちゃんに10元(=約170円)を渡しながらマリアを見つめ返した。さっきまでの頭の悪い浮かれ具合とはうってかわって、とても真剣な面持ちだった。
「あの方、去り際に『私たちが探しているもの』と、はっきり仰ってましたから」
「まさか……」
「それに、教えもしないのに私の本名をご存知でしたし」
「も、もしかして――」
マリアの頬を冷や汗が伝う。
「――バレてる? 私たちの正体だけでなく、私たちの”探しもの”まで!」
「うぅ・・・怖くて寒気がして来ました」
二人は心底、あの人の名前を聞いておかなかった事を後悔したのだった。
買い物を終え、再び駅前広場に来た2人は、頭上の大画面で人民解放軍のコマーシャルが放映されているのを目にした。「強国への飽くなき挑戦!」など威勢の良い謳い文句を連呼している。
「『富国強兵』も、こんな感じだったのでしょうか・・・」
「ん? 何か言った?」
「いいえ、黄色人種の話」
「んんー?」
20世紀終盤の中国で改革開放政策を推し進めた最高指導者の鄧小平は、「社会主義市場経済」という、建前と本質の乖離が著しい夢のようなスローガンを打ち立てた。
「戦力は保持しないけど自衛隊(立派な戦力)はいます」などと宣う島国もどこかにあるようだが、それはともかく、中国が開放後40年で資本主義国家である日本をも上回るような経済力を獲得した事は確かである。軍事力の増強も著しい。
明治日本の「富国強兵」政策を思わせるような発展ぶりだが、まさに鄧小平本人も明治維新を強く意識していた事が知られているし、なんと最近の中国の若者は歴史の授業で日本の明治維新について学ぶという。
さて、黒服の警官たちが道行く人々を射抜くような目付きで監視警戒する中、2人はいよいよ駅構内へ進入するため、駅舎のすぐ手前まで来ていた。
しかしそこで鉄柵に阻まれ、それ以上は真っ直ぐに歩けなくなる。この先は鉄柵で作られた通路が数十メートルごとに何度も折り返しながら少しずつ駅舎へ近付く構造で、なかなか容易には駅舎内に入れてもらえないのだ。
全ては鉄道駅を狙うテロリストへの対策だろう。警官と鉄柵に囲まれた鉄道駅とは、日本ではなかなか経験し難い物々しさである。
ふと照が頭上のスクリーンを見上げると、「富強」という文字が見えた。中国共産党が大々的に宣伝する国家の目標の一つなのだが、同党が「富国強兵」を推し進めた明治維新を参考に国家を運営している事が明らかである以上、国家の性格や唱和されるスローガンが似てくるのは当たり前なのだ。
今まさに中国国内のどこかで放映されているコマーシャルも、恐らく明治日本で盛んに叫ばれていたお題目の焼き直しだろう。もし20世紀初頭の日本の様子を眺める事が出来たとしたら、きっと現在の中国の状況と驚くほど似通っていたに違いない。照はそう思わずにはいられなかった。
「・・・・・・」
照はそっと瞼を閉じ、自分の眼にぐっと意識を集中させた。ふと思い立って【歴視】の異能を使ってみる事にしたのだ。
力強く眼を見開くと、彼女の瞳に映る景色が一変した。駅前には大きな駐車場が広がっており、駅舎は今よりもずっと小さかったようだ。
周囲を見渡してみても背の高い建物など一つもない。性能の悪い自動車の排ガスのせいか、どうにも空気が悪い。何より、多くの民衆が擦れた人民服を着ているのだ。
開業当時・・・つまり今から30年以上前には、大都市上海の主要な駅と言えども、まだまだそんな状況だったのである。
「照、何が見える?」
「古びた街が・・・前時代の中国が見えます」
「ふと忘れてしまいがちだけど、中国は発展途上国だったね」
江戸時代末期の大政奉還から40年と経たずに、ロシア帝国を破って列強入りを果たした日本。大東亜戦争敗戦後の焼け野原から驚異の高度経済成長を遂げ、40年でアメリカが羨むほどの製造業大国にのし上がった日本。
そして、文化大革命の混乱と停滞の時代を潜り抜け、40年で世界第二の軍事・経済大国にまで上りつめた中国。
照は東アジアを牽引する二つの大国の、酷似する急速な発展史に思いを寄せた。
鬱陶しくなるほど長い鉄柵の通路を潜り抜け、遂に2人は駅舎内部へと進入した。前方では中国人たちが強面の係員に誘導されて、身分証明書と切符を取り出して専用の機械で読み込んでいる。
しかし外国人である彼女たちは、身分証明書の代わりにパスポートを取り出して見せ、「外国人はあっちだよ!」と促されるまま別のゲートを開けてもらえたのだった。
その次に待ち構えているのが、日本では空港くらいでしかお目に掛かれなさそうな手荷物検査装置だ。中国では鉄道を利用する際、いちいち手荷物をX線で透かして見られてしまうのだ。
ちなみに、2人は上海の地下鉄に乗る際、既に同じ装置を経験している。地下鉄に乗る度に手荷物検査を受けねばならないというのは、長年日本で暮らしていると特に億劫に感じられる。
手荷物検査をパスして、その先にある長いエスカレータを上り切ると、長い長い通路が遥か彼方まで続いている。通路の両側には駅ナカの店舗が延々と並んでいるが、この時間だと空いているのは土産物屋ばかりで、食事ができそうな店は見当たらなかった。
「そしてお酒も無い、と」
「まだお酒の話してる・・・」
「まあ、仕方がありません。それに今の私には・・・うふっ」
照は自分のバックパックに目をやりつつニヤリと笑みを浮かべた。
「アルコール度数56%の可愛いお酒が・・・」
「うへぇ」
通路のところどころには案内表示が吊り下がっていて、その指し示す方向にはそれぞれ数百人を収容できる広い空間がある。「候車室」と呼ばれている列車の待合所だ。その一番奥には改札口があり、ホームへと続いている。
「なんていうか・・・」
「むしろ飛行機の乗り方に似てるよね」
「列車に乗る前の雰囲気、っぽくないですね」
「日本基準で言えば、だけど・・・」
中国では規模の大きな鉄道駅であれば、VIP専用の待合所まで完備されている。どこか空港を思わせるようなサービスが多数存在する一方で、建物の構造や案内表示はやはり鉄道駅のものなのだ。2人はそのギャップを目の当たりにして、ただ「面白い」という言葉を連呼し続けていた。
切符に書かれた「候車室5」に到着すると、既に沢山の人々が大きな荷物を抱えて椅子に座り込んでいた。壁に背中を預けて立っている人も多く、2人ぶんの席が空く事は期待できそうもない。
改札口の真上に吊り下げられた電光掲示板を見ると、現況は「候車」とある。準備中という意味だ。まだ時間はたっぷり有りそうなので、2人はしばらく駅ナカを見て回る事にした。
駅の北口に向かって通路を進んでいくと、ある土産物屋のレジで、照やマリアと同年代と思われる女子2人が、カップ麺を啜りながら店番をしている様子が目に映った。店内には彼女たちの他に誰もいないようである。
「あ、あらら・・・」
「いやぁ、自由だねー」
ここが日本なら、心無い目撃者に盗撮された挙句、勝手にSNSにアップされ「店員がレジでカップ麺食ってるんだけど(笑)」などといって、アッと言う間に炎上案件だ。
「ちょっと羨ましいです・・・」
「日本人は細かい事を気にし過ぎだよね」
「下着の色は白指定とか、ポニーテールは扇情的だから厳禁だとか、女はパンプス強制だとか・・・」
「履歴書は手書きに限るとか、判子の向きがどうたらとか、バイトは15分前に到着するとか・・・」
「接客態度がどうとか、消防士はうどん屋でうどん食べるなとか、自衛隊は奇麗な水で顔を洗うなとか・・・」
「いちいち紙の書類を提出するとか、どうでも良いお知らせを紙で寄こすとか、わざわざメールを紙で印刷して来るとか・・・」
「オイ」
「ぷっ」
「些細な事は気にしない」というのが中国の強みの一つであり、相対的に、どうでも良い事を気にせざるを得ないのが日本の弱みと言えよう。日本は中国より非効率的になりやすいのだ。
照とマリアはふらふらと当てもなく歩き回りながら、途中で別の待合所も覗いてみた。すると、これまた日本では有り得ない光景が。
「え、駅に給湯器が・・・」
「ていうか、普通に食べてるし!」
彼ら中国人は駅ナカの料理屋など無くとも、売店でカップ麺を買って、駅には必ずと言って良いほど備え付けられている大きな給湯器でお湯を注いで、安価に腹を満たしているのだ。日本と中国の鉄道利用文化の大きな違いの一つと言えよう。
ふと広間の隅を見てみると、床に鞄を置いてそれを枕に横になる人までいる。究極のジベタリアンだ。しかも、誰も彼の事を気にすらしていないのである。
「凄いね、中国」
「はい・・・」
我ら日本国民が”寛容さ”で中国に辿り着けるのはいつの日だろうか。千年後だろうか。日本は民主主義国家であるはずなのに、独裁国家に暮らす中国人よりも”寛容さ”で負けている。一体これは、どういう訳なのだろうか。