怪僧
時刻は午後8時ちょうど。北京時間(中国の標準時)は日本の標準時より1時間遅れているので、日本では午後9時になったところだ。
「いやぁ、ホッとしたら余計にお腹すいたね」
「寒いから早く何処かのお店に入りましょうか」
しかし、どれほど寒い日であろうと、キレのある喉越しを欲するのが照の性分である。
「・・・ビールの有る所に」
「・・・・・・・・」
大きな交差点に面して、セブンイレブンとファミリーマートがある。中国の都市部には日本のコンビニが多数出店しているらしく、今や市民にもお馴染の存在となっているようだ。
そして2つの店舗の間には、ラーメン屋と思しき小さな大衆食堂がある。他に行く当ても無く、寒さに震えていた2人に選択肢はなかった。
「早く入ろう」
「凍死します」
だが、店内でメニューを眺めるその瞬間まで、照はこのお店がビールはおろか酒類の取り扱いを一切していないという非人道性に、全く気付いていなかったのである。
「うん、結構美味しいじゃない!」
「でもビールが有りません」
彼女たちが注文したのは辣肉飯(鶏ガラスープ付き)といって、要するに鶏肉と白米を混ぜて食べる炒飯だ。炒めた鶏肉がピリッと辛くて美味である。
「でもビールが有りません」
「照は依存症を疑った方がいいよ」
「もういいです。後で何処かで買います」
「まだ飲むんだ・・・」
「飲まずにやってられるかってンでイ」
「言い方!!?」
幾らかお腹が膨れたので、2人は次第に自分の周囲に注意を振り向けられるようになってきた。というより、入店した時から気になっていた事に、だんだん耐えられなくなってきた・・・の方が正確かも知れない。
店内まで冷たい風が吹き込んで来る。これだけ寒いのに、入口のドアが開けっ放しなのだ。しかも、それを誰も気にしていないのである。
恐るべし上海人。
「いや、寒いよ!」
「足元がスースーします・・・」
「私が閉めて来ようか?」
「でも、あえて開けてるのかも知れないし・・・」
2人が日本語でそんな話をしていた時の事である。
「お姉さん! ちょっと!」
照のすぐ真後ろから、レジにいた女性の店員を、中国語で呼ぶ声が聞こえてきた。少しハスキーな声色だったので、男性なのか女性なのか、聞いただけでは判別できなかった。
照は無意識に振り向いた。その人は純白のパーカーを着てフードを目深に被っており、表情は全く確認できない。テーブルの脇に黒檀の杖が立て掛けてあるのを見つけたが、やはり年齢すらはっきりしなかった。
ところが、である。
「あ、れ・・・?」
「どうしたの?」
「後ろの人、顔が・・・」
代わりに彼女は、その人の深いフードの下に、白い包帯が見え隠れしている事に気が付いた。
レジにいた女性はパタパタとサンダルを鳴らしながら足早に歩み寄ったが、彼もしくは彼女を真正面から直視した途端に、驚愕の表情を浮かべた。
しかし二言三言と話をすると次第に平常心に戻ったのか、ドアまで駆けて行き、足で金具を蹴ってドアを閉め始めたのだった。
「あっ・・・」
「おお、ありがたや!」
その人は女性に軽く会釈をすると、椅子の背もたれを掴んで身体をこちら側へ向けた。そして、フードの端をサッと指の背で押し上げ、2人をじっと見つめて・・・流暢な日本語で話し掛けて来たのだ。
「中国ではね? 些細な物事を気にしたって仕方がないんだ。他人がどう思うか、睨まれやしないか・・・気にしてたら損するばかりだ。不満が有れば迷わず主張する! 言ったもん勝ちさ。断る必要すら無いくらいだよ」
「・・・・!!」
「は、はぁ」
ちょっぴり長いお説教は、残念ながら2人の頭にほとんど入って来なかった。他の事が気になって仕方がなかったからだ。何しろその人は、顔面を包帯でぐるぐる巻きにして、目と口の他は全て覆い隠していたのだから!
「い、いやぁー、お気遣いありがとうございます! それにしても、日本語が随分とお上手ですなー!」
「それ、貴方が言う?」
「え」
「ふふふ・・・どうもね」
そう言ってその人は微笑んだ。目と口しか見えなくとも、それくらいの表情の変化は見て取れた。
「君たちは日本から来たんだね。初日かな? 緊張感というか、独特の不安が手に取るように分かるよ」
その人はチラッと二人のバックパックに目をやると、顎に指を当てて、少し考え込むそぶりをしてから続けた。
「ふむ、これから夜行列車に乗るんだね。切符を買って一安心。だけど『本当にこれで大丈夫か』『落としたりしてないか』『誰かに盗まれやしないか』不安で、ついついウェストポーチに手が伸びてしまう訳だ」
「・・・・・」「・・・・・」
2人は顔を見合わせた。驚くべき観察眼である。
「す、凄いですね・・・」
「流石に行き先までは分からないけどね」
「西安です。その後は河西回廊を通って・・・」
「へえぇ、新疆まで! 可愛い顔して、アグレッシブな旅を好むんだねぇ」
「エヘヘヘ・・・いやはや、お世辞もまた一級品ですなぁ! あっはっは!」
マリアはその人と馬が合うようで、怪しい風貌を気にも留めず、アッという間に打ち解けてしまった。もしかすると、これも彼女の【博言】の異能によるものなのだろうか。
彼女は大まかな旅程を話して聞かせた。関西国際空港から韓国の仁川空港で乗り継いで、つい3時間前に上海虹橋空港へ降り立った事。今夜は西安行きの夜行列車に乗り、そこで2泊3日滞在した後、工業都市の蘭州を経由して万里の長城の要衝、嘉峪関を訪れる事。更にその日の夜には再び夜行列車に乗り込み、新疆ウイグル自治区のトルファンとウルムチを目指す事、などなど・・・。
「・・・・」
マリアが大まかな旅程を説明する間、照はほとんど口を挟めずにいた。今に始まった事ではないが、彼女はマリアの圧倒的なコミュ力を心底羨ましいと思っている。「せめて、ここに一升瓶さえ有れば!」とも・・・。
その人は興味深そうにマリアの話のところどころで相槌を打っては、あの町のどこそこは美しい、この場所はこれこれの観光地が面白い、ここは何々がオススメだ、などと懐かしそうに語るのだった。
しかし、やはり照の立てたスケジュールだけあって、予定がぎっしり満載である。どこかでトラブルが起きたら、その後の旅程が全て狂いかねない。そんなリスクも伴う超過密スケジュールだ。
「誰!? こんな頭の悪いハードスケジュールを組んだのは! ・・・私か!?」
照は改めて頭を抱えるのだった。
「なるほど! とても楽しそうな大旅行じゃないか。精一杯楽しむと良いよ」
「いやいや、ありがとうございますー!」
「ふむ。それで・・・」
その人は会話の途中、唐突に一言ぶんの間を空けてから続けた。
「君たちの旅の目的は何だい?」
二人は顔を見合わせ、怪訝な表情を浮かべた。
「目的、ですか? さっき・・・」
「ははは、目的地は新疆なんだろうけど、聞きたいのはそこじゃないんだ。私が知りたいのは、君たちの旅行全体の目的だよ」
「旅のテーマは何か、って意味の質問で・・・?」
「その通り! 単純明快なテーマが有ればこそ、綿密かつ完璧な計画を立案し、多くの信者を獲得・・・いや何でもない」
その人は何回か咳払いをして続けた。
「・・・ゴホン! 要するに、シンプル・イズ・ベストさ!」
「う、うぅーん?」
「さて、君たちの旅を意義あるものとする、確たる大目的とは!?」
「いや、はて・・・」
今回の旅行の本質を、シンプルな言葉で表現するならどうなるか。他人から面と向かって聞かれた事のない質問に、照とマリアは少々面食らってしまった。確かに、そう言われてみると・・・なかなか適当な言葉が出てこないものである。2人でやっと絞り出した答えは、
「えっと、シルクロードを巡る旅・・・かな?」
そんなものだった。いかにもありきたりで、日本人なら誰でも思い付きそうな謳い文句だ。
「・・・・・・・」
その人は、照とマリアの目をじっと覗き込むようにしばらく無表情で黙っていたが、ふいに目線を下に落として笑みを浮かべた。
「いや、いいんだ。なかなか口では表現し難い事も有るだろうからね。無理強いはしないさ」
ガラガラと椅子を引きずりながら、その人は小声で「今はまだ、ね」と付け加えた。
すっくと立ち上がると、ポケットから懐中時計を取り出してまじまじと見つめる。その眼光は恐ろしいほど鋭く、むしろ睨むといった方が正確だったかも知れない。照もつられて時計を見たところ、ほぼ9時ちょうどを指していた。
「すまないね、そろそろ私も行かなきゃ。楽しい話を聞かせてくれてありがとう」
「あっ、ど、どうも! お気を付けて・・・」
「大変貴重な情報を頂きました! いつかまた、お会いしましょうね!」
「ふふ・・・すぐにでも会えるさ」
そう言って目を伏せたが、何処か含みのある様子が気になり、すかさずマリアが訊ねる。
「ところで貴方はどちらへ?」
「北京だよ。目的? そうだねぇ・・・」
注文したキュウリの和え物の代金を数え終わると、その人はニヤリと口角を上げた。
「敵情視察、かなぁ?」
「「??」」
その人は「またね」と言って小さく手を振った。黒光りする古びた杖を手に取り、右足を庇いつつも、力強く歩き始める。
レジ打ちの女性に恐ろしい目付きでガンを飛ばされるのも気にせず支払いを済ませると、ドアを開け放って出て行こうとした。
「・・・・・ねぇ! 2人とも!」
だが、その人は去り際にふと立ち止まった。
後ろを振り返り、そして、2人にも聞こえるような大きな声で問い掛けてきたのだ。
「君たちには・・・探しているものがあるだろう!?」
「「・・・・は、はい!?」」
質問が余りにも唐突すぎて、2人は何を言われているのか全く分からなかった。だが少なくとも、その人が先ほどの和やかな様子とはまるで雰囲気の違う、張り詰めた空気を醸し出している事だけは確かだった。
「蓮見、照君!」
「えっ・・・」
その人は照のフルネームを叫んだ。ただの一度も、名前など教えてすらいなかったはずなのに。
「・・・・ふふっ」
不安そうな照の顔をじっと見つめ、急にその人は悪戯っぽい笑みを浮かべて、店の外を指差した。
「白酒を探しているなら、すぐ隣のスーパーで買えるよ! けど、禁酒や禁欲も心掛けてね! 死ぬ前も、死んでからも後悔するから!」
禁酒禁欲、禁酒禁欲と独り事のように何度も呟きながら、その人は冷たい夜風が吹きすさぶ町へと去って行った。
ちょっとどころじゃなく怪しげなその人がお店から出て行き、後に残された照とマリア。2人とも唖然として暫く言葉も出なかったが、先に沈黙を破ったのはマリアの方だった。
「な、なんだったんだろう? 一体、あの人は・・・」
だが、相方にそう問い掛けられた当の本人は、もはや心ここにあらずといった様子だった。マリアの言葉に注意を払えるような余裕は、全くと言って良いほど残っていなかったのだ。
「照? 照ったら! ・・・おーい、照さーん?」
「・・・・・・」
「ダメだよ。アルコール飲料はほどほどにしないと。身体を壊しちゃうから」
「・・・・・・・」
「今の人も言ってたじゃない。深酒は後悔するってさ! そのうち死んじゃうよ!」
「・・・・・・・・・・・」
「ね? 蓮見照さん、度数の高いお酒で娘が肝臓をやられたら、お父さんもお母さんも悲しむでしょ? お酒なんかで人生を棒に振ったら・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・ァ」
「あ?」
「あ、ア・・・ぁば、あばばババばばばッ・・・!!!」
「ヒェっ!?」
照は動悸が抑えられない。胸が高鳴る。どれほどこの日を待ちわびて来た事か! ついにこの時が来たのだ! 彼女は旅の目的も相方の存在も完全に忘れ去って、瞳を輝かせて歓声を上げた。
「んんんンンンンン白酒ですってェえええぇ!!?!??」
「あちゃー」
彼女は居ても立ってもいられなくなって、気が付いた時には店を飛び出していた。支払いは慌ててマリアが全額立て替えてくれたのだった。
ちなみに、中国の大衆食堂では、店内に飲み物を持ち込んでも基本的に注意される事はない。日本でのマナーとは丸っきり逆で、むしろ飲み物は自分で持ち込むものなのだ。
つまり照には、すぐ隣のコンビニでビールを買って来て、夕食を頬張りつつチビチビやるという選択肢もあった訳だ。しかし、本人がその事に気付くのは、しばらく先の事である。