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上海駅

挿絵(By みてみん)


広場に設置された時計の針は午後7時30分を指していた。既に日は西の地平線下に沈んでいたが、大都会ゆえに星明かりは掻き消され、夜空は漆黒に塗り潰されている。

そのうえ、この辺りは何故か街灯が少ないため、沢山の人々が集まる巨大な鉄道ターミナル駅の目の前にいるというのに、周囲は妙に薄暗く、やや不気味さすら漂う。


「さ、寒・・・」

「うぅー・・・」


日本から来た2人の女子大生は、まるで大阪のメトロかと見紛うほど雰囲気のよく似た地下鉄の駅から、慣れない簡体字の案内表示を頼りに地上へ出てきた所だ。


「思った以上に寒いよ!」

「ちょ、ちょっと待ってください! フリース羽織りますから・・・」

「私も! もうすぐ4月も終わるっていうのにねー」


全く足を踏み入れた事のない異国の街を訪れたものの、感慨にふける間など与えられず、いきなり寒行の洗礼を受けていたのである。海外の気候や天気予報を事前にネットで調べておいたとしても、なかなか服装の調整というのは思い通りに行かないものだ。

しかし、予想外もまた旅の醍醐味である。旅先で苦労すればするほど記憶に残りやすく、いい思い出になるというもの。「どんなトラブルだろうが、ドンと来なさい!」と、照は気持ちを新たにしたのだった。


「D306は・・・まだ出てないみたいだね」

「まだ、たっぷり3時間はありますから。それにしても・・・」

「お腹が減った!!」

「お酒が飲みたー・・・」

ジロリ。

「いッ!?」


マリアの湿っぽい視線を感じて、照は慌てて眼を逸らした。

全面ガラス張りの長大な駅舎の壁面に設置された大型スクリーンは、眩いばかりの光量を放出しながら様々な映像を映し出している。


「・・・政治活動、労働争議、宗教活動など、駅周辺での集会は禁止されています。違法な行為を発見した場合、警察の取り調べを・・・」


中でも、このような鉄道警察のメッセージは何度も繰り返し流されていて、少々鬱陶しいくらいだった。


さて、スクリーンのすぐ横には直近の列車の発車時刻と行き先がでかでかと明示されていて、ここが日本の鉄道駅でない事は一目で分かる。

北京、天津、南京、徐州、成都、西寧・・・目的地はいずれも中華人民共和国の大都市だ。中国各地の、遥か数千キロ彼方へ向かう沢山の列車が、ここ上海駅を起点として旅立って行くのである。


「取り敢えず切符を入手しましょう。それが無いとこの先、何にもなりませんから」

「售票処、だね! ええと・・・」

「あら? 售票大楼は?」


列車の切符を取り扱うビル「聯合售票大楼」は、駅舎から少し離れた場所にあるという。切符売り場が鉄道駅構内に併設されているとは限らないというのが、日本人には馴染みが薄くて少々戸惑いがちだ。

2人は周囲をオロオロと見渡してみたが、どうにも埒が開かない。着いて早々、もう迷子疑惑である。


「お、おかしいですね・・・」

「どこだかワカラナイね・・・」


事前調査によって、駅南口に向かって右手に有るという情報は掴めていたのだが。

【博言】の異能を持つマリアは、軽く咳払いをすると、道行く人々や警察官に何度も何度も普通話で道を訊ねて回った。その結果判明したのは、目指すその場所が駅から東へ300メートルも離れた所にあるという事だった。

着いてみると、確かに建物の上部には「售票処」と書いてある。だが・・・。


「照、ホントにここ?」

「ええ・・・その筈ですが」

「薬物の密売所じゃなくて?」

「中国で麻薬取引したら死刑ですよ」


中に入ると、灯りがほとんど点いていない広い空間があった。その代わりに壁一面を覆い尽くすほど巨大なスクリーンがあって、そこに長々と表示されている中国語の注意書きが放つオレンジ色の光が、ほぼ唯一の光源という不思議な空間であった。


「ほら、あそこ。コワモテのおじさんが立ってるでしょ? 100元(≒約1700円)くらい渡してさ・・・」

「お止めなさい」

「でも、質が悪いやつしか買えないかなぁ?」

「ええー・・・」


左手には映画館のチケット売り場によく似た窓口が並んでいて、この時間だとそのうち3ヶ所しか開いていなかった。重そうな荷物を抱えた人達が列をなして並んでいる。


「30分くらい掛かるかなー?」

「早めに来て正解でした。やっぱり『地球の歩き方』に書いてある通りでしたね」


一つの列には10から15人くらいが並んでいたが、各々が係員に早口で何事か捲し立てているものだから、列は往々にして進まないのだ。予想に反して20分も並ぶと順番が回って来てくれたが、やはり件の旅行ガイドのアドバイスに従って、余裕を見て早めに行動するのが吉である。


「次の人!」


係員が少々ぶっきらぼうな物言いで2人を呼んだ。その声色から、不平不満を並べる客たちの相手をするのに、だいぶウンザリしている様子が窺える。


「あ、すみません。メールのコピーを・・・」

「ちょっと待って! わざわざ印刷して持って来たの!?」

「? そうですけど・・・」

「照は本当に前時代的だねぇ!!!」

「なっ・・・!」


日本国内に在住している日本人でも、自宅に居ながらにして簡単に中国の鉄道の切符を予約する事が出来る。以前の照なら信じられなかっただろうが、紛れもない事実である。


オンライン旅行代理店「Trip.com」は、海外のホテル、航空券、そして鉄道の切符の予約サービスを提供する中国系企業である。今回の旅行で使用する切符は2人分で合計10枚に上るが、彼女は自宅のノートパソコンを使い、この会社の公式サイトを通じて、旅行の2ヶ月前にその全てを予約する事ができたのである。

このような事が可能となったのも、『中国鉄道時刻表』の的確なアドバイスのおかげだ。中国鉄道時刻研究会という、中国の長大な鉄路を網羅する時刻表を完成させた酔狂な人々がいるのである。

それも、東京都の文京区に。


そして今回、彼女は切符の予約確認メールを印刷して持ってきた。そこには英数字10桁の予約番号が印字されていて、係員はそれを見ながら予約照会を行ない、切符を発券するのである。

しかし、ミーハーなマリアにとっては、そんな照のやり方がとても古臭く見えたようだ。


「印刷? 全てが電子化されて行く、このITの時代に? ・・・ぷっ」

「だ、だって! 紙はいつの時代になっても信頼できるでしょう!?」

「嵩張るじゃない。コピーするのもタダじゃないし」

「でも、そんな事を言ったって・・・」


ペーパーレス派のマリアはこう言うが、全てを電子機器に頼るのは危険である。充電が0%になったり、ネットの接続環境が悪くなったりすれば、途端に何も出来なくなる。そんな時にはスマホなど、まな板の代わりにすらならないだろう。

紙は時に不便で嵩張るものの、科学世紀でも紙は無くならないし、完全には無くさない方が良い。恐らく、それは旅行ガイドも同じだろう。


「印刷技術を最初に発明したのはどこの国か、マリアは知っていますか!?」

「知らないよそんな事・・・」

「ちょいとお客さん!!! 早くして!!?」

「すいません」「ごめんなさい」


大量印刷の技術を世界で最初に確立したのは唐、すなわち古代中国の王朝だと考えられている。遅くとも9世紀には中国で仏教の経典の木版印刷が行われていた事が確認されているのだ。

ヨーロッパではルネサンス期に活版印刷術が発明されているが、15世紀になっての事である。ヨーロッパ初の印刷業者、ドイツ人のグーテンベルクが最初に印刷した書籍は聖書であった。

それから約70年後には同じくドイツ人の聖職者であるルターの手によってカトリック教会を批判する文章が書かれているが、これが活版印刷によりドイツ中に拡散した事から宗教改革運動が勃発したのであった。ルターはその後、キリスト教の一大教派プロテスタントの祖として不動の名声を手にしている。

更に言うと、現存する世界最古の印刷物は、8世紀に奈良の法隆寺に奉納された仏教の呪文だという。どうも各時代の新しい印刷術・・・すなわち最新の情報伝達手段というものは、歴史的に各界の宗教と深い因縁関係が出来てしまうものらしい。


「パスポートは!!!??」

「はい」「どうぞ」


外国人は中国の鉄道の切符を入手するためにパスポートが必須である。パスポートに記載されているパスポート番号が重要なのだ。中国人だと国民識別番号が印字された身分証が必要になるのだろう。

切符にはそうした使用者本人のみが保有する番号が印字されており、本人しか使う事ができない。特定の一個人にしか使えない鉄道の切符、というのは日本人からすると不思議に思えるが、転売も盗用も不可能なので合理的とも言えよう。


「ほらァ!!!!!」

「ありがとうございます」「あざっす」


2人は係員が無造作に投げて寄こした切符の束を受け取った。

大きさはクレジットカードとほぼ同じだ。ちなみに、中国では地下鉄の切符も同じような形をしている。

切符は合計10枚。照は窓口の横へずれて、1枚1枚を矯めつ眇めつ確認し始めた。


「上海から西安北、西安北から蘭州西、蘭州から嘉峪関、嘉峪関からトルファン北、トルファンからウルムチ。それぞれ2枚ずつあるから・・・」

「どう?」

「はい、間違いありません!」

「じゃあ、これで旅程は確保できたって訳だね!」

「一先ずは、ですね・・・」


もし切符が入手出来ていなければ、この先の旅程が全てパーになる可能性すらあった。だからこそ、2人はようやくホッと一息吐けたのだった。


しかし、意外とすんなり手に入ったので逆に拍子抜けした気分だ。「予約なんて取れてませんよ?」などと言われたらどうしようかと2人は内心不安だったが、中国の鉄道は意外としっかりしているようだ。「中国は物凄くいい加減な国なのでは」という疑念は、あくまで日本人的な偏見だったのかも知れない。


ふと2人が頭上のスクリーンを見上げると、映し出された注意書きが目に留まった。あからさまに巨大な文字サイズで強調されたオレンジ色の文言を読むと、そこにはこう書かれていた。


「新生マニ教徒による違法な勧誘行為が活発化しています。新生マニ教は破壊工作を伴う危険な邪教です。怪しい誘いには乗らない! 見掛けたらすぐに警察へ通報を! 邪教の無い、健全な社会を守りましょう!」

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