ある渋谷
僕は、電車に乗って渋谷に向かった。理由は特にない。
電車に乗った時は人はまばらで、余裕で席に座れた。そして、持っていた小説をカバンから取り出して読み始める。
小説の内容は、少年が自分の住んで居る土地に嫌気がさして旅に出るという内容の冒険小説であった。
冒険小説の主人公と自分を少しだけ重ね合せる。それと同時に小説の文章から目線を車内にもっていくが、現実は休日に疲れ切った老若男女が座ったり立っているだけであった。
渋谷に近づくにつれて人は増えていき、最終的には乗車率も高めになっていた。平日の通勤時間帯ならまだしも、今日は休日である。「恐るべし渋谷ッ」と心の中でつぶやいた。
僕は、地下鉄に乗ったつもりはなかったのだが、電車が到着するとそこは地下のホームに止まっていた。
電車から大量の人が、我先に、我先にと降りていく。僕はその流れがなんだか嫌だったので、一番最後に電車から降りることにした。
湿気がある。電車から降りた瞬間に、僕の肌に都会の湿気が押し寄せた。
右腕を反対の左腕で少々さすって、湿気の感覚をなくそうと努力するものの、努力の甲斐も虚しく、都会の湿気は僕の体をじわじわと締め付けていった。
僕は、カバンに入れていたミネラルウォーターを取り出して、キャップを開けて飲もうとした。
口にペットボトルの飲み口を持っていこうとした瞬間、後ろから人が来て僕の肩にぶつかった。
僕の方にぶつかった若い大学生と思しき女性は、なにも言わずにそのままエスカレーターで昇っていった。
ぶつかった衝撃で、僕の右手とシャツの一部にミネラルウォーターが跳ねた。紺色の無地のTシャツには黒っぽいシミがついてしまった。しかし、季節は夏だ。そのうち乾くだろうと思い、僕はそのまま歩いて地上を目指すことにした。
地上に出ると、さきほど電車から降りていった人間の数百倍の人間が渋谷の街に立っていた。白人の外国の人は、その光景が珍しいのか、スクランブル交差点を歩く日本人を一眼レフカメラのシャッターを切り続けていた。
この街にどうしてこんなにも人が集まるのだろうか。僕は思う。
決して交通の便が良いとは思えない。基本、坂ばかりだし道だって狭い。というか谷だ。一昔前ならば、渋谷にしかないお店とかもあったのかもしれないが、最近は渋谷にあるお店は、他の場所にも多く展開していて、特別感は薄れつつあるように思える。
人はなんだかんだで、寂しさには弱いのかもしれない。
でも、ここにいる人たちは人としては見られていない。この渋谷の街からして見れば、彼らは人ではない。
単なる消費者である。君たちの個性なんていらないんだ。お金さえ落としてくれればそれでいい。僕にはそんな風に聞こえた。東京という街は恐ろしい。しかし、かく言う自分も、今は単なる消費者だ。渋谷の街が求める人物としての役割を果たしているにすぎない。
人混みを避けながら歩いている時に、一人の女性のことが頭をよぎった。
彼女は、昔からの知り合い。でも、最近なんだかとても気になる人だった。
普通に接していた人物が自分にとってなんだか違う人に見えてしまった。きっかけは振られた時に、話を聞いてくれたことだったと思う。そういうことってよくあると思う。ただの友達だったはずなのに。
でも、別の女性に振られてからはもう1年以上経つわけだから、自分も割と奥手である。
僕は、喉が渇いたからアイスコーヒーを飲もうと思った。
一軒目のコーヒーショップに入るもの、満員だった。
入った瞬間、店員さんは「いらっしゃいませ」と営業スマイルとともに挨拶をしてくるのだけれど、店内は満席である。コンビニで美味しい挽きたてコーヒーが飲めるこのご時世に、コーヒーショップでコンビニよりも100円以上払ってコーヒーを飲みにくるのは座りたいからである。
座れないにもかかわらず店内に案内するというのは、なんだかなぁと思いながら満席の店内を後にした。
二軒目。
一軒目とは反対側にあるコーヒーショップ。
こちらも営業スマイルと主に、店内へと向かい入れてくれた。僕は、店員さんからくる「いらっしゃいませ」という響きを確認する間も無く、そそくさと店内へと入っていき、開いている席を探した。
長方形の木のテーブルの席が一つ空いていたので、僕はそこへ荷物を急いでおいた。
あまり東京へはこないのだけれど、ここであたふたしているとハイエナのごとく現れる学生に取られてしまうことを僕は知っている。ゆえに急いでみたのだった。
昔は、こんな長方形のテーブルなんてなかったように思う。
これも、時代の流れだろう。コーヒーショップに求めるニーズが変化していったのにちがいない。でも、左右、前に知らない人がいる空間はちょっと恥ずかしい。しかもパーソナルな距離でいるもんだから、少し可愛らしい女性が座ると僕は落ち着かない。
僕は、アイスコーヒーを買ってきて席に戻った。
冒険小説の続きを読もうと思い、カバンから小説を取り出した。
ペラペラとページをめくって読んでいると、目の前の席の人が立ち、入れ替わりで若いカップルが座った。
女性は、男ウケしそうな黒髪のボブのショート。ピンク色のカーディガンに白いワンピース。絵に描いたような男性が理想とする女性だった。
男性は、すらっとした体型で、今のポロシャツと黒いズボン。爽やかな髪型で、薄い顔立ち。こちらもまた今の若い女性に受けそうな男性だった。
しばらくすると、彼らの会話が僕の声に入ってきた。
「好きな人とかいないの?」と女性が話しかける。その時点で、僕はカップルだと思っていた男女が単なる友人であることに気がついた。
しかし、思いを巡らせて考えてみると、美男美女のカップルというのは意外と存在しない。なにを思ったか、どちらかが妥協したような組み合わせであることも少なくはないのである。
「いないなぁ」と男性は否定する。でも、その視線はどこか彼女に向けているような気もする。しかし、その女性は全く気がついていない。
「逆に、君はいないの?」と男性は話しかける。
女性は、男性の目を見つめ、恥ずかしそうに髪の毛を右手でくちゃくちゃといじりながら「あたしも、いないなぁ」と答える。
僕は、読んでいた小説をパタリと閉じた。
そして、深呼吸をして心の中で叫んだ。
「あんたら、両思いだから付き合っちゃいなよ!」
僕に恋人はいない。でも、恋人になるんだろうなという人々を察知できる能力が不思議と身についている。どうして、自分自身のために備わっていないのか甚だ疑問ではあるのだけれど。
でも、これも東京の魅力かもしれない。人の数が多ければ多いほど、数多くの人間模様が見れるのでる。
その後、目の前の男女はまどろっこしい会話が続いた。僕は、あまりにもまどろっこしいので、再度小説を開いて冒険の世界に没頭しようとした。しかし、内容が頭に入ってこなかった。
集中力を欠いた僕は、また彼女のことを思い出した。最近気になる友達の女性である。
スマートフォンを取り出して、コーヒーカップの写真を撮る。
そして、写真共有SNSにその写真をいい感じに加工し、気の利いたコメントとともにアップをした。
【コーヒーの苦味が、目の前の甘い男女の会話でよくわかりません】
5分後。スマートフォンが震えた。僕は、手に取り画面を確認すると誰かがコメントをしてくれたという通知が表示されていた。
【20点。あたしもコーヒー飲みたいな】
この人を、誘えるんだったら苦労はしませんよ。はいはい。
この物語はフィクションです。
ノンフィクションの部分があるとすれば、作者が渋谷に行ったことくらいです。