捕獲
最上竜は目覚めの悪い頭を無理やり起こし、時計を見る。まだ6時だった。彼は階段を下りて朝のコーヒーを淹れる。春の朝のすがすがしい空気が漂う。暖かいがどこか寒い。竜は待つ間に制服に着替える。黒のブレザーに深い赤のネクタイと白いワイシャツ、黒のスラックス。これが菱明高校の制服だ。
コーヒーが出来上がった。コーヒーをカップに注ぎ、飲んだ。これで目覚めの悪い彼の頭も苦さとカフェインで30分後には起きるだろう。顔を洗い、毎度の寝癖を直し、朝食を食べ、歯を磨いていざ出発。
いつも遅刻ギリギリの彼は、通勤で車道いっぱいの車を見たことがない。渋滞した車道を横目で見流し、得意げな顔で歩道を走る自転車。彼も歩道を走る自転車だった。今日はゆとりを持って教室に入ると、見慣れない顔ぶれがそろっている。
「よう、最上。今日は早いな。」
クラス替えをしても同じクラスの高田陽一が笑顔で言う。陽一は早くもクラスに馴染んだようで、すでに立ち話をしていた。
「ああ。今日は早く起きたんだ。」
(なんだ、この違和感。)
陽一は変わらない笑顔でおかしな物音もしない。それなのに違和感がある。出所が分からないだけに気持ち悪かった。それも時間が経つにつれてそれが強くなっていく。これほどまでに違和感を覚えたのは初めてかもしれない。違和感が彼を焦らせる。ただ時が過ぎていく。焦りが募る。
(落ち着け。焦る必要はない。ただの「感」だろ。そうだろ?なのに、どうして…?)
彼は自分に言い聞かせようとする。しかし、焦りは収まることなく募っていく。吐き気までしてきた。決してメンタルが弱いわけではない。とは言って強くもないが、ちょっとやそっとの事では動じない自信はあった。
(全て吐き出してしまおうか。…でも、不安は消えないだろうな…。)
そう分かってしまうと我慢してしまう。
やがて、今日の授業はすべて終わる。不安と焦りは頂点を越える。頂点を越えた感情はただの恐怖に変わっていく。大した運動もしてないのに息が切れてきた、心の呼吸が。
ホームルームが終わって生徒たちは散り散りになって帰る。或いは部活へと足を運ぶ。部活に所属していない彼は帰宅の途につく。逃げるように急いで帰るか、見つからないようにこっそりと帰るか、周りになじむように平然と帰るか、悩んだ。しかし、結果が出るより先に事態が動いた。自転車に乗って学校を出ようとすると、近くから悲鳴が聞こえた。その声のする方向を見ると鋭い閃光が見えた。何かの刃の切っ先だった。
「どけろ。」
ドスの効いた低い声があたりに響いた。すると一人が勢いよく逃げ出した。それにつられた他の面々も四散した。もちろん彼も逃げた。しかし、人ごみの中では自転車をこぎ出すことはできない。後ろからナイフを持ったその男が小走りで彼らを追いかける。彼は自転車を押しながら走る。男はスピードを上げる。彼は自転車を押してビルの隙間に入った。先客もいないようで、ここからなら自転車に乗れそうだ。そう思った彼の後ろから声がした。
「最上竜。」
(この低い声はさっきの…!)
彼が振り返るとナイフを持った男が立っていた。息も乱れない立ち姿が彼の恐怖心を駆り立てた。彼は自転車にまたがってこぎ出そうとするが、あまりの焦りでバランスを崩してしまいその場に転んだ。彼が転んだその視線の先に壊れた傘が捨ててあった。ビニールの部分がアームから完全に取れていたがそれ以外の破損はなかった。彼はその傘を拾って、起き上がり、走り出した。当然男は彼を追ってくるが、その男の顔には必死さがなかった。
(何なんだ、こいつは…!)
時折、彼は振り向きざまに傘を振ってまた向き直って走り出す。男は傘を難なくかわすが少し距離は開いた。しかし、それもつかの間。彼はとうとう追いつかれた。背中には塀が、両手にも壁があった。塀の高さは2メートルほど。短時間でよじ登ることはできなかった。
「終わりか…。つまらんな。」
(こいつ、遊びか…?それとも、精神が崩壊した犯罪者か?)
どちらにしてもまともではなかった。彼の息は絶え絶えなのに比べて男はやはり呼吸が針の先ほども乱れない。驚異の体力だった。
「ちょっと眠ってもらう。」
男は言った。なにやら怪しげな道具を持ち出した。
「ただで死るつもりはない。」
彼はそう言って傘で男を叩こうとする。しかし、相手は慣れた手さばきで傘をはじいていく。彼は長いものを扱ったことがない。野球はやったが、あまり好きではなかったためせいぜい1,2回しかしていない。それに引き替え相手はプロかそれに似たものだ。力量も技量も遠く及ばない。
「ほう、面白い。なかなかやるな。ただそれもここまでだ。」
男は感心したように言いながらポケットから拳銃と取り出した。
パン
銃声にしてはおかしな音だったがその音も聞かないまま彼はその場に倒れた。
ありがとうございました。