↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

婚約破棄された侯爵令嬢は、王国ごと元婚約者を見限ります

作者: シオン
掲載日:2026/09/09


「リディア・グランフェルト侯爵令嬢。私は今日、この場をもって、君との婚約を破棄する!」


王立学院の卒業記念舞踏会。


王宮の大広間に、第一王子アルベルトの声が響き渡った。


楽団は演奏を止め、着飾った貴族たちは一斉に中央へ視線を向ける。


その先に立っていたのは、銀糸の刺繍が施された濃紺のドレスをまとった令嬢だった。


リディア・グランフェルト。


王国屈指の名門、グランフェルト侯爵家の一人娘であり、アルベルトの正式な婚約者である。


突然の宣言を受けても、リディアは取り乱さなかった。


扇を静かに閉じ、淡い青色の瞳で王子を見つめる。


「婚約破棄、でございますか」


「ああ、そうだ!」


アルベルトは勝ち誇ったように胸を張った。その隣には、桃色の髪をした男爵令嬢ミレーヌが寄り添っている。


庇護欲を誘う大きな瞳は涙で潤み、細い指はアルベルトの袖をすがるようにつかんでいた。


「君は嫉妬からミレーヌを虐げた。父上からいただいた髪飾りを盗み、階段から突き落とそうとし、学院中で彼女の悪評を広めたそうだな!」


ざわめきが広がった。


リディアは少しだけ首を傾げる。


「それは、どなたの証言でしょうか」


「ミレーヌ本人だ!」


あまりにも堂々とした答えに、大広間の空気が一瞬だけ止まった。


しかしアルベルトは周囲の微妙な反応に気づかない。


「彼女は勇気を出して、すべてを私に打ち明けてくれた。証拠もある!」


そう言って彼が掲げたのは、青い宝石のついた髪飾りだった。


ミレーヌが震える声で訴える。


「それは昨日、リディア様のお部屋から見つかりました。わたくし、返していただけるだけでよかったのです。でもリディア様は、身分の低い者が王子殿下に近づくな、と……」


「なるほど」


リディアは淡々とうなずいた。


その落ち着きが気に入らなかったのか、アルベルトは眉をつり上げる。


「言い逃れはできないぞ!」


「言い逃れをするつもりはございません。ただ、確認したいことがございます」


リディアは髪飾りを指した。


「そちらは陛下より賜った品だとおっしゃいましたね」


「そうだ」


「では、王家の紋章が刻印されているはずです。裏側をご確認くださいませ」


アルベルトの表情が固まった。


髪飾りを裏返してみるが、あるはずの刻印はない。


代わりに、花弁を模した小さな工房印が刻まれていた。


「あら」


リディアは扇で口元を隠した。


「そちらは王都南区の露店で販売されている模造品です。価格は銀貨三枚ほどでしょうか」


「な、なぜ君がそんなことを知っている!」


「先月、違法な王家紋章の使用について調査した際、同じ工房の商品を確認いたしましたので」


リディアは王妃の命を受け、王都の商業監査を担当していた。


しかしアルベルトは、その事実すらろくに知らなかった。


ミレーヌの顔から血の気が引く。


「ち、違います。これは本物です!」


「でしたら、この場で宝物庫の記録と照合いたしましょう。王家から下賜された宝飾品には、すべて管理番号がございます」


「それは……」


ミレーヌは答えられなかった。


アルベルトが慌てて割って入る。


「髪飾りの件は何かの間違いかもしれない。だが、階段から突き落とした件はどう説明する!」


「その日は隣国の使節団をお迎えするため、私は王宮におりました」


「嘘だ!」


「王太后陛下、宰相閣下、近衛騎士団長、隣国の大使ご夫妻が証人です」


今度こそ、アルベルトは言葉を失った。


リディアは続ける。


「悪評を広めたという件につきましても、興味深い点がございます。ミレーヌ様に関する噂が流れ始めたのは、三週間前。ですが私はその期間、北部の洪水対策会議に出席するため学院を欠席しておりました」


「では、誰が噂を……」


「さあ。ご本人の行動を目にした方々が、それぞれ感想を述べただけではございませんか」


大広間の方々から、令嬢たちのひそひそ声が聞こえた。


「図書室の本を返さなかったのよ」


「わたくしはドレスを汚されたわ」


「謝罪もなく、王子殿下と親しいから許されると言っていたな」


ミレーヌが青ざめる。


アルベルトは周囲を見回し、助けを求めた。


けれど、誰も彼と目を合わせなかった。


「殿下」


リディアの声が静かに響く。


「婚約破棄のご意思に、お変わりはございませんか」


「あ、ああ」


もはや引き返せないと思ったのだろう。


アルベルトは虚勢を張るように答えた。


「私はミレーヌを愛している。証拠に多少の間違いがあろうと、冷酷な君より、心優しい彼女こそ王妃にふさわしい!」


「承知いたしました」


リディアはわずかに微笑んだ。


それは敗者の表情ではなかった。


長く背負ってきた重荷を、ようやく下ろした者の笑みだった。


「では、正式にお受けいたします」


彼女はドレスの内側から、一通の書状を取り出した。


「こちらが陛下のご署名入りの婚約解消許可証です」


「なに?」


「殿下から婚約破棄を宣言される可能性を考え、一月前に準備しておりました」


会場が再びざわめいた。


一月前。


つまりリディアは、この断罪劇を予測していたのだ。


「ま、待て。なぜ父上が許可した!」


「陛下には、すべてご報告しておりますので」


リディアは王族席に目を向けた。


そこには国王と王妃が座っていた。


国王の顔には疲労が浮かび、王妃はこめかみを押さえている。


「アルベルト」


国王の低い声が響いた。


「余はお前に、今夜の宣言を思いとどまるよう命じたはずだ」


「父上、しかし私は真実の愛を!」


「虚偽の告発を信じ、罪のない令嬢を大衆の前で辱めることが真実の愛か!」


雷鳴のような叱責に、アルベルトは肩を震わせた。


だが彼は、まだ自分の置かれた状況を理解していなかった。


「リディアとの婚約がなくとも、私は第一王子です。王位は私が継ぎます!」


国王は目を閉じた。


「それも、本日までだ」


「……は?」


「王太子選定会議は先ほど、お前の継承順位を降下させることを全会一致で決定した」


アルベルトの口が開いたままになる。


「なぜです!」


その問いに答えたのは、宰相だった。


「殿下が王太子教育を怠り続けていたからです」


白髪交じりの宰相は、一冊の分厚い帳簿を開いた。


「殿下がお読みにならなかった外交文書は四十七通。ご欠席なさった政務会議は二十八回。未提出の課題は百を超えます」


「だが、これまで問題なく国政は回っていたではないか!」


「リディア嬢が代わりに処理していたからです」


会場が静まり返った。


宰相は淡々と事実を読み上げる。


「隣国との穀物輸入協定。北部の治水計画。王都の孤児院再建。軍の兵站制度改革。いずれもリディア嬢が原案を作成し、各部署との調整を行いました」


「そんな……」


「殿下のお名前で提出された政策案の大半は、彼女の仕事です」


アルベルトはリディアを見た。


初めて見る人間を見るような目だった。


「なぜ、私に黙っていた」


「何度もご説明いたしました」


リディアの声には怒りすらなかった。


「殿下は一度も、最後までお聞きになりませんでしたが」


アルベルトの脳裏に、いくつもの過去がよみがえった。


執務室を訪れたリディアを追い返したこと。


夜会へ行くからと書類を押しつけたこと。


彼女からの忠告を、小言だと笑ったこと。


そして翌朝には、すべての問題が解決していた。


それをアルベルトは、自分が王子だから当然なのだと思っていた。


「婚約が解消されましたので、今後は殿下に関する業務からも退かせていただきます」


リディアは一礼した。


「グランフェルト侯爵家が王家に無償で貸与していた穀物倉庫、河川運搬船、北部街道の使用権につきましても、契約に従い返還をお願いいたします」


宰相が目を見開いた。


「お待ちください、リディア嬢。それでは王都への物資が!」


「契約書には、私とアルベルト殿下の婚姻を前提とする旨が明記されております」


「しかし、急にすべてを返還するのは……」


「三年前から、契約更新のたびにご説明しております」


にこやかな笑顔。


けれど、その瞳には一片の譲歩もなかった。


「王家が契約書をお読みにならなかったことまで、私の責任なのでしょうか」


誰も答えられなかった。


グランフェルト侯爵領は、王国最大の穀倉地帯を有している。


加えて、北部から王都へ続く主要街道と河川港の多くを管理していた。


王家はそれらを格安どころか、ほとんど無償で利用していたのだ。


すべてはリディアが未来の王妃として、この国を支えるために。


しかし、その前提は今、アルベルト自身の手によって失われた。


「待ってくれ!」


大広間を去ろうとしたリディアを、アルベルトが呼び止める。


「婚約破棄は撤回する!」


「お断りいたします」


あまりにも早い返答だった。


「私は騙されていたんだ! ミレーヌが嘘をついたせいだ!」


隣にいたミレーヌが息をのむ。


「アルベルト様?」


「お前が私を惑わせたんだろう!」


「そんな! わたくしを愛しているとおっしゃったではありませんか!」


二人は大衆の前で責任を押しつけ合い始めた。


その様子を見て、リディアは小さく息を吐く。


「殿下は何も変わっておられませんね」


「なんだと」


「ご自身の失敗を、常に他人のせいになさるところです」


アルベルトの顔が赤く染まった。


「私は第一王子だぞ!」


「先ほどまで、でございましょう?」


大広間のどこかから、堪えきれない笑い声が漏れた。


アルベルトは震えながら国王を見る。


しかし父王は、冷たい目で息子を見返すだけだった。


「アルベルト。お前には北西の離宮へ移ってもらう」


「離宮?」


「そこで領地経営と政務を一から学べ。自分の食事に必要な金が、どこから来るのかを理解するまで王都へ戻ることは許さん」


「そんな!」


「なお、ミレーヌ嬢への虚偽告発および王家の宝飾品を偽造した疑いについては、司法局が調査する」


ミレーヌはその場に崩れ落ちた。


リディアは二人に背を向ける。


もう彼らに用はなかった。


大広間の扉へ向かう彼女を、第二王子レオナードが呼び止めた。


「リディア嬢」


アルベルトより三歳年下の王子だった。


彼は兄と違い、地方行政を学ぶため各地を回っている。飾り気はないが、誠実な青年として知られていた。


レオナードは深く頭を下げた。


「兄上の行いを、王族の一人としてお詫びする」


「殿下が謝罪なさる必要はございません」


「それでも謝らせてほしい。そして、厚かましい願いだとは分かっているが、北部街道と河川港の契約について、改めて交渉の機会をいただけないだろうか」


アルベルトは命令した。


宰相は情に訴えた。


だがレオナードだけは、対等な交渉を申し入れた。


リディアは初めて、わずかに表情を和らげる。


「交渉でしたら歓迎いたします。ただし、今後は正式な使用料をいただきます」


「もちろんだ。契約内容もすべて私自身で確認する」


「よろしいのですか? かなりの分量になりますが」


「分からない部分は、分かるまで教えを請うつもりだ」


リディアは少し考え、うなずいた。


「それでは、来週グランフェルト侯爵邸へお越しくださいませ」


「ああ。必ず伺う」


二人の会話を聞きながら、アルベルトは呆然と立ち尽くしていた。


自分が投げ捨てたものを、弟が拾い上げようとしている。


だが、今さら何を言っても遅かった。



それから一年。


北西の離宮へ送られたアルベルトは、わずかな予算で領地を運営する苦労を思い知っていた。


彼の朝は、山積みの請求書を確認するところから始まる。


逃げようにも、監督役として派遣された老官吏が決して許さない。


「殿下、こちらの支出には用途が記載されておりません」


「昨日、書いただろう!」


「『必要なもの』では記載したことになりません。やり直しです」


かつてリディアに押しつけていた書類を、今度は自分で処理しなければならなかった。


ミレーヌは調査の結果、虚偽の証言と証拠の偽造が認定された。


男爵家から籍を外され、王都から追放されたという。


もっとも、アルベルトは彼女を恨むことができなくなっていた。


帳簿と格闘するうちに、少しずつ理解したからだ。


騙されたことと、考える義務を放棄したことは別である。


最終的に婚約破棄を決断し、人前でリディアを辱めたのは、自分自身だった。


一方、グランフェルト侯爵領はかつてない繁栄を迎えていた。


リディアは王家との契約を対等な条件で結び直し、その収益を街道の整備と学校の設立に充てた。


やがて第二王子レオナードが正式に王太子へ選ばれる。


その隣で政策顧問を務めていたのは、もちろんリディアだった。


数年後。


王都の大聖堂で、王太子レオナードとリディアの婚礼が執り行われた。


沿道には多くの国民が詰めかけ、二人を祝福した。


式の前、レオナードはリディアに尋ねた。


「本当に私でよかったのだろうか」


「今になっておっしゃいますの?」


「君は一人でも、誰より立派に生きられる。だからこそ、ときどき不安になる」


リディアは微笑んだ。


豪華な王冠にも、王妃という地位にも、彼女は執着していなかった。


彼女が望んだのは、努力を当然と思わず、言葉に耳を傾け、隣に並んで歩いてくれる人だった。


「一人で歩けることと、一人で歩きたいことは違います」


リディアは彼の手を取った。


「わたくしは、あなたと歩きたいのです」


レオナードも、その手を優しく握り返す。


大聖堂の鐘が鳴り響いた。


婚約を破棄された令嬢は、不幸にはならなかった。


自分の価値を認めない者の隣から、自ら立ち去っただけだ。


そして彼女を失った王子は、ようやく知った。


宝石とは、持っているだけで輝くものではない。


その価値を理解し、大切にできる者のもとでこそ、最も美しく輝くのだと。


もっとも、それに気づいたときには、すべてが手遅れだったのだけれど。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。