婚約破棄された侯爵令嬢は、王国ごと元婚約者を見限ります
「リディア・グランフェルト侯爵令嬢。私は今日、この場をもって、君との婚約を破棄する!」
王立学院の卒業記念舞踏会。
王宮の大広間に、第一王子アルベルトの声が響き渡った。
楽団は演奏を止め、着飾った貴族たちは一斉に中央へ視線を向ける。
その先に立っていたのは、銀糸の刺繍が施された濃紺のドレスをまとった令嬢だった。
リディア・グランフェルト。
王国屈指の名門、グランフェルト侯爵家の一人娘であり、アルベルトの正式な婚約者である。
突然の宣言を受けても、リディアは取り乱さなかった。
扇を静かに閉じ、淡い青色の瞳で王子を見つめる。
「婚約破棄、でございますか」
「ああ、そうだ!」
アルベルトは勝ち誇ったように胸を張った。その隣には、桃色の髪をした男爵令嬢ミレーヌが寄り添っている。
庇護欲を誘う大きな瞳は涙で潤み、細い指はアルベルトの袖をすがるようにつかんでいた。
「君は嫉妬からミレーヌを虐げた。父上からいただいた髪飾りを盗み、階段から突き落とそうとし、学院中で彼女の悪評を広めたそうだな!」
ざわめきが広がった。
リディアは少しだけ首を傾げる。
「それは、どなたの証言でしょうか」
「ミレーヌ本人だ!」
あまりにも堂々とした答えに、大広間の空気が一瞬だけ止まった。
しかしアルベルトは周囲の微妙な反応に気づかない。
「彼女は勇気を出して、すべてを私に打ち明けてくれた。証拠もある!」
そう言って彼が掲げたのは、青い宝石のついた髪飾りだった。
ミレーヌが震える声で訴える。
「それは昨日、リディア様のお部屋から見つかりました。わたくし、返していただけるだけでよかったのです。でもリディア様は、身分の低い者が王子殿下に近づくな、と……」
「なるほど」
リディアは淡々とうなずいた。
その落ち着きが気に入らなかったのか、アルベルトは眉をつり上げる。
「言い逃れはできないぞ!」
「言い逃れをするつもりはございません。ただ、確認したいことがございます」
リディアは髪飾りを指した。
「そちらは陛下より賜った品だとおっしゃいましたね」
「そうだ」
「では、王家の紋章が刻印されているはずです。裏側をご確認くださいませ」
アルベルトの表情が固まった。
髪飾りを裏返してみるが、あるはずの刻印はない。
代わりに、花弁を模した小さな工房印が刻まれていた。
「あら」
リディアは扇で口元を隠した。
「そちらは王都南区の露店で販売されている模造品です。価格は銀貨三枚ほどでしょうか」
「な、なぜ君がそんなことを知っている!」
「先月、違法な王家紋章の使用について調査した際、同じ工房の商品を確認いたしましたので」
リディアは王妃の命を受け、王都の商業監査を担当していた。
しかしアルベルトは、その事実すらろくに知らなかった。
ミレーヌの顔から血の気が引く。
「ち、違います。これは本物です!」
「でしたら、この場で宝物庫の記録と照合いたしましょう。王家から下賜された宝飾品には、すべて管理番号がございます」
「それは……」
ミレーヌは答えられなかった。
アルベルトが慌てて割って入る。
「髪飾りの件は何かの間違いかもしれない。だが、階段から突き落とした件はどう説明する!」
「その日は隣国の使節団をお迎えするため、私は王宮におりました」
「嘘だ!」
「王太后陛下、宰相閣下、近衛騎士団長、隣国の大使ご夫妻が証人です」
今度こそ、アルベルトは言葉を失った。
リディアは続ける。
「悪評を広めたという件につきましても、興味深い点がございます。ミレーヌ様に関する噂が流れ始めたのは、三週間前。ですが私はその期間、北部の洪水対策会議に出席するため学院を欠席しておりました」
「では、誰が噂を……」
「さあ。ご本人の行動を目にした方々が、それぞれ感想を述べただけではございませんか」
大広間の方々から、令嬢たちのひそひそ声が聞こえた。
「図書室の本を返さなかったのよ」
「わたくしはドレスを汚されたわ」
「謝罪もなく、王子殿下と親しいから許されると言っていたな」
ミレーヌが青ざめる。
アルベルトは周囲を見回し、助けを求めた。
けれど、誰も彼と目を合わせなかった。
「殿下」
リディアの声が静かに響く。
「婚約破棄のご意思に、お変わりはございませんか」
「あ、ああ」
もはや引き返せないと思ったのだろう。
アルベルトは虚勢を張るように答えた。
「私はミレーヌを愛している。証拠に多少の間違いがあろうと、冷酷な君より、心優しい彼女こそ王妃にふさわしい!」
「承知いたしました」
リディアはわずかに微笑んだ。
それは敗者の表情ではなかった。
長く背負ってきた重荷を、ようやく下ろした者の笑みだった。
「では、正式にお受けいたします」
彼女はドレスの内側から、一通の書状を取り出した。
「こちらが陛下のご署名入りの婚約解消許可証です」
「なに?」
「殿下から婚約破棄を宣言される可能性を考え、一月前に準備しておりました」
会場が再びざわめいた。
一月前。
つまりリディアは、この断罪劇を予測していたのだ。
「ま、待て。なぜ父上が許可した!」
「陛下には、すべてご報告しておりますので」
リディアは王族席に目を向けた。
そこには国王と王妃が座っていた。
国王の顔には疲労が浮かび、王妃はこめかみを押さえている。
「アルベルト」
国王の低い声が響いた。
「余はお前に、今夜の宣言を思いとどまるよう命じたはずだ」
「父上、しかし私は真実の愛を!」
「虚偽の告発を信じ、罪のない令嬢を大衆の前で辱めることが真実の愛か!」
雷鳴のような叱責に、アルベルトは肩を震わせた。
だが彼は、まだ自分の置かれた状況を理解していなかった。
「リディアとの婚約がなくとも、私は第一王子です。王位は私が継ぎます!」
国王は目を閉じた。
「それも、本日までだ」
「……は?」
「王太子選定会議は先ほど、お前の継承順位を降下させることを全会一致で決定した」
アルベルトの口が開いたままになる。
「なぜです!」
その問いに答えたのは、宰相だった。
「殿下が王太子教育を怠り続けていたからです」
白髪交じりの宰相は、一冊の分厚い帳簿を開いた。
「殿下がお読みにならなかった外交文書は四十七通。ご欠席なさった政務会議は二十八回。未提出の課題は百を超えます」
「だが、これまで問題なく国政は回っていたではないか!」
「リディア嬢が代わりに処理していたからです」
会場が静まり返った。
宰相は淡々と事実を読み上げる。
「隣国との穀物輸入協定。北部の治水計画。王都の孤児院再建。軍の兵站制度改革。いずれもリディア嬢が原案を作成し、各部署との調整を行いました」
「そんな……」
「殿下のお名前で提出された政策案の大半は、彼女の仕事です」
アルベルトはリディアを見た。
初めて見る人間を見るような目だった。
「なぜ、私に黙っていた」
「何度もご説明いたしました」
リディアの声には怒りすらなかった。
「殿下は一度も、最後までお聞きになりませんでしたが」
アルベルトの脳裏に、いくつもの過去がよみがえった。
執務室を訪れたリディアを追い返したこと。
夜会へ行くからと書類を押しつけたこと。
彼女からの忠告を、小言だと笑ったこと。
そして翌朝には、すべての問題が解決していた。
それをアルベルトは、自分が王子だから当然なのだと思っていた。
「婚約が解消されましたので、今後は殿下に関する業務からも退かせていただきます」
リディアは一礼した。
「グランフェルト侯爵家が王家に無償で貸与していた穀物倉庫、河川運搬船、北部街道の使用権につきましても、契約に従い返還をお願いいたします」
宰相が目を見開いた。
「お待ちください、リディア嬢。それでは王都への物資が!」
「契約書には、私とアルベルト殿下の婚姻を前提とする旨が明記されております」
「しかし、急にすべてを返還するのは……」
「三年前から、契約更新のたびにご説明しております」
にこやかな笑顔。
けれど、その瞳には一片の譲歩もなかった。
「王家が契約書をお読みにならなかったことまで、私の責任なのでしょうか」
誰も答えられなかった。
グランフェルト侯爵領は、王国最大の穀倉地帯を有している。
加えて、北部から王都へ続く主要街道と河川港の多くを管理していた。
王家はそれらを格安どころか、ほとんど無償で利用していたのだ。
すべてはリディアが未来の王妃として、この国を支えるために。
しかし、その前提は今、アルベルト自身の手によって失われた。
「待ってくれ!」
大広間を去ろうとしたリディアを、アルベルトが呼び止める。
「婚約破棄は撤回する!」
「お断りいたします」
あまりにも早い返答だった。
「私は騙されていたんだ! ミレーヌが嘘をついたせいだ!」
隣にいたミレーヌが息をのむ。
「アルベルト様?」
「お前が私を惑わせたんだろう!」
「そんな! わたくしを愛しているとおっしゃったではありませんか!」
二人は大衆の前で責任を押しつけ合い始めた。
その様子を見て、リディアは小さく息を吐く。
「殿下は何も変わっておられませんね」
「なんだと」
「ご自身の失敗を、常に他人のせいになさるところです」
アルベルトの顔が赤く染まった。
「私は第一王子だぞ!」
「先ほどまで、でございましょう?」
大広間のどこかから、堪えきれない笑い声が漏れた。
アルベルトは震えながら国王を見る。
しかし父王は、冷たい目で息子を見返すだけだった。
「アルベルト。お前には北西の離宮へ移ってもらう」
「離宮?」
「そこで領地経営と政務を一から学べ。自分の食事に必要な金が、どこから来るのかを理解するまで王都へ戻ることは許さん」
「そんな!」
「なお、ミレーヌ嬢への虚偽告発および王家の宝飾品を偽造した疑いについては、司法局が調査する」
ミレーヌはその場に崩れ落ちた。
リディアは二人に背を向ける。
もう彼らに用はなかった。
大広間の扉へ向かう彼女を、第二王子レオナードが呼び止めた。
「リディア嬢」
アルベルトより三歳年下の王子だった。
彼は兄と違い、地方行政を学ぶため各地を回っている。飾り気はないが、誠実な青年として知られていた。
レオナードは深く頭を下げた。
「兄上の行いを、王族の一人としてお詫びする」
「殿下が謝罪なさる必要はございません」
「それでも謝らせてほしい。そして、厚かましい願いだとは分かっているが、北部街道と河川港の契約について、改めて交渉の機会をいただけないだろうか」
アルベルトは命令した。
宰相は情に訴えた。
だがレオナードだけは、対等な交渉を申し入れた。
リディアは初めて、わずかに表情を和らげる。
「交渉でしたら歓迎いたします。ただし、今後は正式な使用料をいただきます」
「もちろんだ。契約内容もすべて私自身で確認する」
「よろしいのですか? かなりの分量になりますが」
「分からない部分は、分かるまで教えを請うつもりだ」
リディアは少し考え、うなずいた。
「それでは、来週グランフェルト侯爵邸へお越しくださいませ」
「ああ。必ず伺う」
二人の会話を聞きながら、アルベルトは呆然と立ち尽くしていた。
自分が投げ捨てたものを、弟が拾い上げようとしている。
だが、今さら何を言っても遅かった。
*
それから一年。
北西の離宮へ送られたアルベルトは、わずかな予算で領地を運営する苦労を思い知っていた。
彼の朝は、山積みの請求書を確認するところから始まる。
逃げようにも、監督役として派遣された老官吏が決して許さない。
「殿下、こちらの支出には用途が記載されておりません」
「昨日、書いただろう!」
「『必要なもの』では記載したことになりません。やり直しです」
かつてリディアに押しつけていた書類を、今度は自分で処理しなければならなかった。
ミレーヌは調査の結果、虚偽の証言と証拠の偽造が認定された。
男爵家から籍を外され、王都から追放されたという。
もっとも、アルベルトは彼女を恨むことができなくなっていた。
帳簿と格闘するうちに、少しずつ理解したからだ。
騙されたことと、考える義務を放棄したことは別である。
最終的に婚約破棄を決断し、人前でリディアを辱めたのは、自分自身だった。
一方、グランフェルト侯爵領はかつてない繁栄を迎えていた。
リディアは王家との契約を対等な条件で結び直し、その収益を街道の整備と学校の設立に充てた。
やがて第二王子レオナードが正式に王太子へ選ばれる。
その隣で政策顧問を務めていたのは、もちろんリディアだった。
数年後。
王都の大聖堂で、王太子レオナードとリディアの婚礼が執り行われた。
沿道には多くの国民が詰めかけ、二人を祝福した。
式の前、レオナードはリディアに尋ねた。
「本当に私でよかったのだろうか」
「今になっておっしゃいますの?」
「君は一人でも、誰より立派に生きられる。だからこそ、ときどき不安になる」
リディアは微笑んだ。
豪華な王冠にも、王妃という地位にも、彼女は執着していなかった。
彼女が望んだのは、努力を当然と思わず、言葉に耳を傾け、隣に並んで歩いてくれる人だった。
「一人で歩けることと、一人で歩きたいことは違います」
リディアは彼の手を取った。
「わたくしは、あなたと歩きたいのです」
レオナードも、その手を優しく握り返す。
大聖堂の鐘が鳴り響いた。
婚約を破棄された令嬢は、不幸にはならなかった。
自分の価値を認めない者の隣から、自ら立ち去っただけだ。
そして彼女を失った王子は、ようやく知った。
宝石とは、持っているだけで輝くものではない。
その価値を理解し、大切にできる者のもとでこそ、最も美しく輝くのだと。
もっとも、それに気づいたときには、すべてが手遅れだったのだけれど。
了




