第19話:バカじゃないの
窓の外の夕陽は沈みかけ、部屋は薄暗い。シルヴィアは椅子に座ったまま、テーブルの上で指を組んでいた。ノートは閉じたままだ。
アリアが自分の過去を語り終えてから、しばらく時が流れていた。沈黙が長かった。時計の音と、窓の外の鳥の声だけが聞こえていた。いつもは小言がうるさいゾディも、疲れているのか目を閉じている。
「一つ、聞きたいことがあるんですが」
沈黙を破ったのはシルヴィアだった。
「何?」
アリアが応えると、シルヴィアが咳払いをする。
「古代語での禁呪詠唱は、現代語の恥ずかしい言葉と同じ発音なのですか?」
直球だった。回りくどさがない。シルヴィアらしい。昨日まではそれが刃のように感じられたが、今日は楽だった。隠さなくていい相手に向ける直球は、当たっても痛くない。
アリアは天井を見た。天蓋付きベッドの天蓋の裏側。白い布が夕陽で金色に光っている。息を吸った。吐いた。もう一度吸った。
「ええ」
一言。たった一言が喉を通るのに、今までの人生の全ての勇気が必要だった。だが通った。
「古代語は、解読してみたら現代語の恥ずかしい言葉と同じ発音だったの。詳細は割愛するけど、まあ、俗に言う赤ちゃん言葉? みたいな、そういう言葉。古代語が失われた何千年かの間に、発音だけが現代語に残ったみたいね。意味は全く違うのに、音が同じ。だから叫ぶたびに、恥ずかしくて死にたくなる」
声が震えた。だが止まらなかった。
「そして」
もう一つ。最後の秘密だ。なぜかアリアは、一番重い秘密を口にしようとしていた。
「王国図書館にある聖典……旧約ゼポルディア原理福音大聖典。あれね、あれを書いたのは、実は、私なの」
シルヴィアの瞳が大きくなった。
「大聖典……旧約ゼポルディア原理福音大聖典を?」
「正確には、洞窟で古代語を解読している間に私が書いた、私の日記帳。練習がてら書いたポエムって言った方がいいかも。友達が欲しいとか、誰かに名前を呼ばれたいとか、恋人が欲しいとか、恋人と手を繋いで歩きたいとか。まあ、そういう恥ずかしい願望が全部、私の字で、古代語で、書いてあるの」
声はもう震えていなかった。震えるだけの力が残っていなかった。空っぽになった。詰め込み続けた秘密が全部出て、体の中に何もなくなったような感覚だった。
シルヴィアの口が開いて閉じた。もう一度開いた。唇が震えている。
「あの大聖典が……?」
「ええ」
「人類最後の古代語文献と崇められている、あの旧約ゼポルディア原理福音大聖典が?」
アリアは頷く。
「私の、黒歴史の日記……ポエム帳」
夕陽が沈みかけている。部屋の中が暗くなっていく。シルヴィアの顔が影に隠れかけた、その瞬間、シルヴィアの肩が震え始めた。
「ぶっ」
シルヴィアが吹き出した。
「ぶふっぶっ……」
「ちょっと」
「ーーごめん、なさい。けど、ぶふっ」
「笑わないでって言ったでしょ!」
「笑って、ません。ぶふっ、ごめんなさい、でもこれは。ぶべらっ」
シルヴィアが顔を覆った。肩が震えている。笑いを堪えている。堪えきれていない。椅子に座ったまま体を折り曲げ、テーブルに額をつけんばかりに前のめりになっている。
「百年間。ぶふっ。ずっと一人で。お漏らししちゃった、おむつ変えてって。ぶふふふふふふっ」
「シルヴィア!」
「ごめんなさいっ! ごめんなさい……でも」
シルヴィアが顔を上げた。目が潤んでいた。笑いすぎて涙が出ている。頬が赤い。ノートも羽根ペンも、いつの間にかテーブルの上に転がっている。
だが、その瞳に軽蔑はなかった。嘲笑もない。あるのは、アリアがこの百年見たことのない種類の光だった。温かくて、少しだけ切なくて、それでいて、可笑しくてたまらないという。
「バカじゃないの」
シルヴィアの声は、温かかった。
「ずっと一人でそんなこと抱えてたの? 誰にも言えずに?」
シルヴィアが涙を拭った。笑い涙を。そして笑うのをやめた。拭った指先が下がり、膝の上で拳を握った。
「バカじゃないの」
二度目の「バカじゃないの」は、一度目とは違う声だった。温かさは同じだが、その奥に怒りがあった。アリアに対する怒りではない。だが、それが何に対しての怒りなのかは、アリアにはわからなかった。
アリアの目から、涙がこぼれた。
笑われた。バカと言われた。でも軽蔑されなかった。一番怖かったのはこれだった。秘密を知られて切り捨てられること。だがシルヴィアは笑って、泣いて、怒って、「バカじゃないの」と言った。
「このこと、魔術学院に報告する?」
「私が報告すると思いますか。こんなこと」
アリアが尋ねると、シルヴィアが涙を拭いながら言った。声がまだ少し震えている。
「我が王国の大聖典が、実は大賢者様の黒歴史ポエム帳でした、なんて誰が信じますか? 私の方が、頭おかしいって思われますよ」
「報告しないの?」
「しません。代わりに」
シルヴィアが、まっすぐにアリアを見た。夕陽が最後の光を窓から投げ込み、シルヴィアの亜麻色の髪を金色に変えた。
「大祭典まであと何日です?」
「あと二日」
「原本を消したいんですよね」
アリアは頷いた。声が出なかった。
「だったら、一緒にやりましょう」
「え?」
予想もしていなかったことを言われ、アリアは目を瞬く。
「なんで?」
「なんでって」
シルヴィアが少しだけ笑った。さっきの堪えきれない笑いではなく、もっと小さな、穏やかな笑み。
「あなたのこと、知りたいって言ったでしょう。知ってしまったからには、放っておけませんよ」
シルヴィアが言った。その後、恥ずかしくなったのか、急に笑い出し、それから顔を背ける。
「ありがとう」
アリアは言った。言えた。すぐに言えた。
ゾディが窓枠の上で金色の瞳を細めた。相変わらず、何も言わなかった。




