壁
「僕」の体験談。
短編ホラーです。
一時期は海外のホラーばかり見ていました。
サスペリアは今でもトラウマ。
母の様子がおかしいと病院から連絡が入った。
今から四年前の、七月のある日のことだった。
病院から電話が入った日、僕は会社にいた。
見慣れない電話番号から着信が入った。
もしもし、と携帯電話を取ると、少し忙しなさそうな女性の声が聞こえてきた。
◯◯さんの携帯電話で合っていますでしょうか?
僕はええ、と答えた。
彼女は、母が定期的に通う病院の看護師だった。
母は二ヶ月に一回、通院しているのだが、このところ来ていないのだという。
何回もキャンセルの電話が続いているので何かおかしい。
様子を見にいってくれないか、と彼女は続けた。
もしかしたら、病院に来る元気もないのかもしれません。
看護師の不安げな声に、僕は胸に詰め物をされたような何とも言い難い重みを感じる。
分かりました。今日行ってみます。
よろしくお願いします。
電話ありがとうございます。
礼を言って電話を切ると、僕はすぐに母に電話した。
しばらくして母が電話に出た。
大丈夫?
母は言った。
ここのところ貧血がひどくて……。
救急車呼んだ方が良いよ。
母は渋った。
そんな大事じゃないよ。
僕は母が昔から変に頑固なのを知っていた。
とにかく仕事終わったらすぐ行くから。
そして、僕が電車とバスを乗り継いで母の家に着いた時には、母は倒れていた。
母は末期の大腸がんだった。
がんに冒された腸は、もう元には戻れないほどに疲弊していた。
母はそれから程なくして亡くなってしまった。
あっという間の出来事だった。
僕は失った時間を埋めるように母の入所したホスピスに通ったが、指の間から砂がこぼれ落ちるように、それは虚しい行為だった。
幾度も涙を流したが、母への罪悪感は消えることがなかった。
母とはこの一年間ほど会っていなかった。
母は僕に気を遣って電話をかけてこなかったのだ。
仕事が忙しいからと、無駄な電話はかけてこなかったのが容易に想像できた。
僕もそんな母に甘えて、病気の母を一人放っておいたのだ。
数少ない肉親の僕が、もっと一緒にいてあげるべきだったのだ。
母の死に目にも会えなかった。
僕が少し目を離した間に母は硬くなっていた。
僕は泣いた。
全てが不甲斐なかった。
見送る時でさえ僕はそばに入れなかった。
いや、もしかしたら母は僕に悲しんでほしくなくて、僕のいないところで空に帰ったのかもしれない。
それもただの僕の妄想だ。
僕はただ母に謝ることしかできなかった。
実家と縁を切っていた母の葬儀には、母の妹しか来なかった。
それから母の家の本格的な整理が始まった。
母と僕が二十年近く住んでいた家だ。
貧しかった僕たち二人は、駅から離れた古いアパートの一室を借りていた。
久しぶりに家に帰ると、母以外の入居者は一人もいなくなっていた。
薄暗い部屋に入ると、母との思い出が蘇ってくる。
狭い室内。
小さなキッチン。
ひび割れた浴室のガラスドア。
薄ら寒さを感じるようなタイル張りのトイレ。
奥には二つの部屋。
一つは物置き小屋のようだ。
捨てられない大量の、僕の昔の服やらアルバムやらおもちゃやらが積み上げられている。
もう一つは僕の部屋だ。
ベッドと本棚と、勉強机が置かれている。
本棚は本好きだった僕が買い集めた書籍で埋め尽くされている。
くたびれたベッドの向こうには、小学生の時に買ってもらった茶色い勉強机が鎮座している。
改めて見ると、暗い部屋だった。
部屋全体が明度が低い。
部屋を囲む壁も土壁だった。
左右から僕を囲いこむ土壁は、僕の前の勉強机の付近で崩れ落ちていた。
ところどころ下地が露出している。
僕は近づく。
母の生前の言葉を思い出す。
上の階から水が漏れてきた。
なんでも上の住居人の水槽が落下して、中の水が漏れてきた……。
その時からおかしくなったのだろう。
不動産に電話すれば良かったのに。
そう考えて、しかし、それができないほど体調が悪かったのだろうと、僕は思い直した。
僕は再び罪悪感が上ってくるのを感じる。
と、その時、壁に何か穴が空いているのに気がついた。
勉強机に隠されて初めは気が付かなかったが、上から覗き込むと大きな穴が空いている。
僕はあまりにも大きな穴だったので、不動産に文句を言われるのではないかと思って、慌てて机をどかした。
それは僕の手のひら一個分ほどの穴だった。
その穴の中には何かが入っている。
奥の方だ。
僕は四つん這いになって、手を伸ばし入れる。
何か固いものが手に当たる。
小さい。
僕はそれを掴み、腕を穴から引き抜いた。
それはイヤホンだった。
先日会社からの帰り道でなくした僕のイヤホンだった。
僕はもう一度穴を覗き込む。
まだ奥の方に何かある。
僕は手を入れる。
また何かが手に当たる。
掴む。
見ると、それは半年前に紛失した僕の社員証だった。
まだある。
掴む。
僕の文庫本だ。
一年程前になくしたものだ。
手を穴に入れる。
何か柔らかいものが手に当たった。
それは僕の手を掴んできた。
僕はすぐに手を引っ込めた。
声にならない声が漏れた。
僕は立ち上がる。
体をあちこちにぶつけながら、急いで机で穴を塞いだ。
押された机が畳を傷つける。
ずりずりという摩擦音がいつまでも耳に残った。
しばらくすると不動産の担当者が家の様子を見にきた。
僕は穴のことを話さなかった。
担当者は崩れた土壁を見たが、これは経年劣化ですから心配しなくて良いですよ、と言った。
そうですか、なら良かったです。
僕はそう言って胸を撫で下ろした。
壁の中に塗り込めるように。
穴の中から僕を見る何かと目が合わないうちに、僕はそれにしっかりと蓋をした。




