狼みたいな目-3
陽射しが「Inchiostro Vivo」の窓から差し込み、スタジオの木の床をオレンジに染める。リカルドは作業台に凭れ、タバコを咥えてライターの火を近づける。ちりちりと燃える音が響き、煙が潮風に揺れる中、扉が勢いよく軋む。
「リカルドー! お前の見習いを連れてきたぞ!」
とマリオが太い声で叫び、オリヴィエを引っ張り込んでくる。オリヴィエは麻袋を胸に抱え、申し訳なさそうな翡翠色の瞳で慌ててこちらを見る。目を細めて睨みつけると「見習いじゃねぇ」と舌打ちし、付けたばかりのタバコを灰皿に押し潰した。
「こいつは掃除と買い出ししかできねぇ。市場で何だ?また噂か」
市場の噂が頭を過ぎり低く唸る。マリオはリカルドの言葉を聞かずに続けた。
「お前んとこのガキがスケッチを売ってた。波と魚、後夜祭にピッタリだ。見習いなんだろ?タトゥーくらい彫らせろ」
とオリヴィエの背中を強く叩く。オリヴィエは咳き込みながら縮こまるが、マリオはスケッチブックを奪い、
「ほら、これだ!」
と文句を言いかけたリカルドに押し付ける。舌打ちしてスケッチを見ると、波に泳ぐ魚が鉛筆で描かれ、夕陽の線が滲んでいる。
「素人の落書きだ」
確かにタトゥーに映えるかもしれないが、波の線が不揃いで見栄えが悪い、と鼻で笑う。
「落書きじゃねぇ!確かにお前から見れば完璧じゃないだろうが、少し手直しすればいい!それから俺の腕に彫ってくれ。見習いならお前が教えりゃいい」
「何で俺がそこまでしなきゃいけねぇ」
「お前が面倒見てんだろ?」
「見てねぇ」
マリオは一歩も引かず、シチリア訛りを強めて捲し立てる。
リカルドも肩を竦め、タバコを手に持ったまま手を振って応戦する様子を、オリヴィエは大きな目を彷徨わせながら見つめる。
マリオは唾を飛ばしながら詰め寄り、リカルドもその熱量に押されながら目を細めて睨みつける。
「言葉も下手くそ、衛生も技術もねぇ、こんなガキに客の肌は預けられねぇ」
縮こまって目線を泳がせていたオリヴィエを横目に吐き捨てた。
「だったらお前が彫れよ!直すのが面倒ならそのまま使えばいい!」
とスケッチを作業台に叩きつける。 オリヴィエは睨みつけるリカルドに怯えつつ、「迷惑かけたくないです…」と小さく呟くが、
「迷惑なんかじゃねぇ!リカルドの技術は最高だ。こいつの見習いなら信用できる」
とマリオは大きな口を開けて笑う。
オリヴィエは信用出来るという言葉に微かに胸が震え、瞳を熱っぽく揺らす。
リカルドはスケッチを手に2人の様子を見ていたが、やがてタバコを強く吸い込み、ため息と共に煙を吐き出して灰皿に押し付けた。
「…文句は受け付けねえぞ」
と渋々ステンシルシートを手に取った。
オリヴィエが横で息を呑む中、リカルドはスケッチをステンシルに複写する。魚の鱗をなぞり、波や鱗の線を調整する手際をオリヴィエが見つめる。
「マリオ、腕出せ。…おいガキ!ロバみてぇにぼーっと突っ立ってねぇでインク持ってこい!黒と青!」
「わっ!S-sì!」
ラテックスの手袋をはめながら苛立ちの滲む声で吼えると、インク瓶の置いた棚を顎で示した。オリヴィエが慌てるのを横目に、消毒してマリオの二の腕にシートを貼る。ゆっくりと剥がすと紫色の線が浮かび、リカルドは壁にある小さな丸い鏡を指して確認する。
「ここでいいのか?」
「Bonu!」
ため息混じりに首を振りながら、オリヴィエが持ってきたインク瓶を奪い取ると、カチカチと音を鳴らして顔料を滑らかに混ぜ始める。横にあるスポイトを手に、インクカップをテープで固定してから黒と青を注いでいく。黒は輪郭、青は波と魚用。
慣れた手つきでインクを用意するリカルドをじっとオリヴィエは見つめる。
「(荒っぽい人なのに、タトゥー彫る時はちゃんとしてるんだよな…)」
いつもの彼の姿と、ゴミ箱に溜まった空き缶やタバコの吸殻を思い出しては、繊細な手つきでインクを用意するそのギャップに目線が釘付けになった。
リカルドはインクカップを用意し終えると、パワーサプライのダイヤルを回してコイルマシンの低い唸り声を響かせる。ニードルをチューブにセットし、針先を1.5mmに調整して黒のカップからインクを吸い取ると肌に刻んでいく。
紫色の線に沿って刻み、少し進むごとに拭くと魚の輪郭が浮かびあがる。
マリオが「痛ぇ!」と笑う中、リカルドは汗を首筋に伝わせ、「うるせぇ」と一蹴し肩を固定して線を引く。
集中した青い瞳が輪郭をなぞり終えると、続けてシェーダー用のマシンに切り替えて青いインクをカップから吸い上げた。
円を描くように針を動かし、グラデーションを作っていく。
「痛えな!花を扱うように優しくしろよ」
「誰が花だって?」
マリオとリカルドが冗談を交わす声を遠くに聞き、オリヴィエはスケッチブックを抱えながら、自分のデザインがマリオの肌に浮き上がる様子に息を飲む。
インクで線をなぞるようにスケッチに触れ、無意識に指を走らせる。針が肌を刻み、血とインクが混ざる光景がナイフの記憶と重なる。
僕の魚が誰かの肌に永遠に刻まれる──あの太陽のように。
針音が響く中、オリヴィエはスケッチブックを握り潰した。
「お前まで騒ぐな」
「弟子のデザインだろ、誇れよ」
マリオが肩を叩くが、否定する代わりにフットスイッチを音を立てて踏む。低いマシンの唸り声が止まり、インクと血をペーパータオルで拭くと、魚がシチリアの海を泳ぐように浮かんだ。青のグラデーションが日差しに反射して、鱗がキラキラと輝いている。
リカルドはワセリンを塗り、ラップを巻きながら、まぁ悪くはねぇ、と内心で呟くが、口には出さなかった。
「しばらくはちゃんと石鹸で洗えよ。前みたいに膿んでもしらねぇからな」
「おう!やっぱりお前は最高だ!Ciau!」
とマリオが笑いながらリカルドの髪をくしゃくしゃと豪快に撫でると「ふざけんな」と手で振りほどく。そのまま笑い声を響かせて数十ユーロを置いて出て行った。
マリオが去り、スタジオに再び静けさが戻る。夕陽が窓から差し込み、木の床に長い影を刻む。リカルドはラテックスの手袋を外してゴミ箱に捨てると、作業台に凭れタバコに火をつけた。咥えたままニードルを外し、空のインクカップと共に鉄のゴミ箱を足で開けて投げ入れた。
オリヴィエはスケッチブックを胸に抱え、マリオの腕に浮かぶデザインが頭にこびりつく。
「僕の絵…タトゥーになって、永遠に残るんだ」
未だ熱っぽく揺れる瞳でコイルマシンを見つめ、震える声で呟く。たどたどしい耳障りな言葉に目を細め、少し乱れた髪を掻き上げて黙ったままオリヴィエを見る。
純粋な翡翠色の瞳と目が合うと、過去を見つめるようなその目を避けるよう床に目を伏せた。左腕のインクが熱を持ち、雨に濡れたヴェローナの路地が蘇る。仲間たちと笑い合う声、太陽をなぞる相棒の指、裏切りと血の匂い。
タトゥーは俺にとって隠すべき墓標だが、こいつにとっては希望に見えるらしい。
くだらねぇな、と言い聞かせて煙を強く吸い込む。
「素人の絵が使えただけだ。運が良かったな」
吐き捨てるが、オリヴィエの瞳は台の上のインク跡を見つめ、ぼんやりと熱っぽいまま視線が揺れる。サンタ・ロザリア像の下、左腕を撫でて呟いた言葉を反芻する。鉛筆が針に、スケッチがタトゥーになれば…
描くだけじゃ届かない。あの人の過去に、針で触れたい。
太陽を頭に過ぎらせ、スケッチブックを握る手に力を込めた。
「マリオのせいで疲れた。さっさと帰れ」
ポケットから数ユーロを放り、オリヴィエは静かに受け取ると麻袋を肩に掛けた。石畳を踏む足音が潮風に溶け、夕陽がスケッチブックの波の線を染める。
ペンションに戻る道すがら、砂利の混じる道を歩きながら穏やかな波を見つめる。針が肌を穿ち、血と混ざって魚の線が浮かぶ様子を何度も繰り返す。
この先ずっと、マリオの腕には自分の描いたスケッチが残り続ける。願いを込めたタトゥーが消えずに残る。
救いになることもあるのだろうか。
僕が、あの太陽に救われたように。
「…誰かの光に、なれるのかな」
波の間、魚が遠くで跳ねて太陽が揺れる。潮風が髪を揺らし、静かな通りに鼓動の音が響く。




