狼みたいな目-2
昼間の灼熱が落ち着き、夕陽が石畳をオレンジに染める頃、オリヴィエはペンション「カーサ・ローザ」を出て、サンタ・ロザリアの像の下へ向かう。オリヴィエはその下で座り込むと、スケッチを広げて膝を抱えた。
数週間もシチリアにいるとペンション代が嵩み、毎日スケッチを売りにやってくる。
「ここなら、絵を破られない。誰にも殴られない」
オリヴィエはロザリア像に背中を預けると、いつまでも慣れないシチリアの陽射しに手で顔に影を作った。
見上げた遠くの空に海鳥が飛んでいる。鳴き声が高く響き、広場に反射する。
白く光る建物の窓にはプランターが置かれ、白い花が通りを覗き込んでいる。すぐそばには室外機が並び、洗濯物が潮風に靡いて花びらが散った。
広場の隅ではチルネコが地面を嗅ぎ回り、子供たちがサッカーをする笑い声が跳ねる。近くのバールからサッカー中継の歓声が流れ、ブラウン管を叩く男とそれを窘める老人。いつもここで見る光景だ。耳を傾け、シチリア語で落胆する男たちを小さく笑いながら見つめた。潮風とコーヒーの匂いが漂う穏やかな時間が流れている。
オリヴィエはこの時間が好きだった。シエスタのゆったりとした時間と、その中を過ごす地元の人々。それを観察するのが好きだった。
穏やかな時間の中、だが夢の余韻が未だ醒めずにいた。
狼のような目の彼。
頭にこびりついて離れない「Dimentica.」という言葉。
12年前、孤児院で教父を刺した男が囁いた。
血塗れの教父の傍で、ナイフを手に立ち尽くす。返り血に染まった革ジャンが肩からずり落ち、太陽のタトゥーが覗いていた。
血の滴る太陽が暖炉の火に輝き、悍ましいはずの姿はオリヴィエにとっては救いのように写った。
恐怖と救いの矛盾を胸に、2年後の夏の日、ヴェローナで再び太陽のタトゥーを見た。
すぐに彼だと気付いた。だが、同時に疑問が浮かぶ。
なぜあの日ハンガリーの孤児院にいたのか。
なぜ教父を殺したのか。
そして、なぜ自分を見逃したのか。
疑問は喉の奥につかえたまま心の底で燻り続け、シチリアに辿り着いた今、リカルドの元で再び熱を帯び始めた。
リカルドが彼であることを確かめる方法は直接問いただすしかない。だが、壁を叩きつける音が耳にこびりついて離れない。
不確かな期待と不安が頭をふらつかせ、シチリアの灼熱がそれを溶かしていく。潮風が涼しく吹き、束ねた薄金色の髪を揺らして再び広場の雑踏に耳を預けた。
………………
「ウーノ・ユーロ、ペル・ファボーレ」
しばらく広場でスケッチ売りを続けるが、観光客は素通りし、地元の子供たちが時々絵をせがみに立ち止まるだけ。サッカー中継も終わり、バールにも静けさが漂う。汗が首筋を伝い、張り付いた襟元を軽く引っ張ってスケッチブックを開く。波や市場の魚、夕陽の線が滲む中、リカルドの針を持つ手を描いたページに手が止まる。
あのスタジオで針音を聞くたび、12年前の路地が頭を過ぎる。インクの匂いがあの夏に引き戻す。
オリヴィエはそっとリカルドの癖を真似て左腕を撫でた。柔らかく笑う顔、血とインクを混ぜて線を描く様を思い描くと、スケッチの端に小さな波を描く。
「…鉛筆が針になれば、あの人の記憶に触れられるのか」
汗ばむ鉛筆と、線が滲むスケッチに目を落とした。
サンタ・ロザリアの像の影が落ち、ふと人影がスケッチの前で止まった。オリヴィエは左腕を撫でた手を慌てて止めて顔を上げる。
漁師が広げたスケッチの一つを見つめている。
「マリオさん、スケッチ買う、ですか?」
オリヴィエがマリオと呼んだ男は地元の漁師。使い走りで市場に来た際、魚屋と豪快に笑う様子を時々見かけた。60代くらいのゴツイ男で、日に焼けた顔に白い髭が混ざり、服には魚の血と汗が滲んで生臭さが漂う。
「波と魚か、よそ者のくせにいい絵を描くじゃねぇか。お前、リカルドの所で働いてる見習いなんだろ?」
マリオはくすんだタトゥーだらけの腕でスケッチを指さし、髭を揺らして笑うがシチリア訛りがキツく、オリヴィエは顔を顰める。
「いえ、手伝ってるだけ…」
小さな声で否定するが、マリオは聞かずにスケッチを掲げる。
「絵を描くならタトゥーもいけるだろ?祭りの魚、俺の腕に頼むぜ」
と自身の肩を叩いて笑うが、オリヴィエは首を傾げる。サンタ・ロザリア祭りの夜が頭に過ぎりつつ言葉を選びながら、
「祭り?魚のタトゥー…ですか?」
と返すと、マリオはまだタトゥーの無い自身の腕とオリヴィエのスケッチを交互に指す。
「そう、魚のタトゥー!サンタ・ロザリアの後夜祭さ。魚のタトゥーで漁の幸運を祈るんだ」
とマリオは髭を揺らして笑い、意味が掴めずに戸惑うオリヴィエの腕を掴む。
「リカルドに頼めよ。見習いならお前が彫ってもいい」
強引に引っ張り、オリヴィエは無理やり立たされる。
「え!?ちょっと待って…マリオさん!」
抵抗するが彼の力には敵わず、麻袋を急いで畳むとスタジオへ連れていかれた。潮と魚の生臭い服の匂い、石畳を踏む足音が市場の喧騒に混じる。
市場を抜ける間、地元民の目がオリヴィエに集まる。数週間前、オリヴィエが祭りの片付けを手伝い、スケッチを売る姿が噂になっていた。「リカルドのとこで働いてる」「金髪の変なガキ」と広まり、マリオの誤解に拍車をかけた。太陽がサンタ・ロザリアの像を赤く照らす中、オリヴィエは冷たいリカルドの目と声を思い出す。
「また、怒られる…」
胸が押し潰されるような思いがするが、ビクともしないマリオの腕に諦めその勢いに流された。
やがて市場の喧騒が遠ざかり、海辺に石畳と砂利を踏む足音が響く。スタジオが見えると、マリオは扉を軋ませて勢いよく開けた。
「リカルドー!お前の見習いを連れてきたぞ!」
大声で呼ぶのが耳に刺さる中、オリヴィエは麻袋を抱え、
「Mit tegyek…」
と思わずハンガリー語で呟くが、市場の噂とマリオの勢いが後戻りを許さない。陽射しが石畳に影を落とし、潮風が扉の隙間から吹き込んだ。




