狼みたいな目-1
シチリアの熱帯夜の中、オリヴィエはペンション「カーサ・ローザ」の狭い部屋、ベッドに突っ伏して眠る。
眼前にノーザン・ハンガリーの雪景色が広がる。
雪を踏みしめる2つ分の足音、叔父に手を引かれ、二度と帰ることのない生まれ育った家を見つめる。
──どこへ行くの?僕のおうちは?父さんと母さんは?
男は答えず、真っ直ぐに進む。
向かう先には雪に隠れた十字架と寂れた教会が見え、鐘の音と教父の祈る声が響く。
少年が足を踏み入れると、明かりのない孤児院の部屋にいた。寒々しい板の間で、子どもたちは薄い毛布に包まって震える。遠くで村の祭りのハンガリー民謡が響き、少年は結露したガラスに手で丸を描くと、部屋から外を眺める。木窓の隙間から冷たい風と、焚き火のオレンジの光が入り込む。
──お前は存在しない。家族のことなど忘れろ。
耳元で教父の声が響くと、突然教会の鐘が鳴り、いつの間にかヴェローナの路地裏に立っていた。
その先に、いるはずの無い血まみれの教父が少年を見下ろす。
石畳に散らばるスケッチの破片を、赤く悴んだ手で拾い集め、教父を見上げる。
冷たい雪を握り締め、冬の寒さと孤独の恐怖に震えるが、教父は血塗れの手で少年の首を絞める。床に倒れ、ギリギリと音を立てて力が強くなり、意識が朦朧として視界がチカチカと歪む中、後ろで一つの影が少年を見下ろす。
「| Dimentica.《忘れろ》」
息をしゃくり上げ、オリヴィエは目を覚ました。肩で息をしながら起き上がり、窓に目を向ける。シチリアの潮風がカーテンを揺らしている。月が海に沈みかけ、辺りはまだ薄暗い。
震える手を握り、締められた首元に手をやった。雪と孤独の記憶に震え、冷たい手で掴まれた首、悴んだ手の感覚が残るのに、汗で濡れた体が潮風に吹かれて心地いい。
オリヴィエは汗で張り付くシャツを軽く引っ張り、再び目を閉じた。
教父に重なる影が暗闇で鋭く光り、視線がオリヴィエを刺す。同時にリカルドの青い瞳と、壁に拳を叩きつける音が耳にこびりついて、手が震える。
「狼みたいな、目だったな」
………………
8月、シチリアの海辺の街は灼熱の太陽が照りつける。朝7時、潮風が石畳を撫で、海鳥の声が遠く響く中、リカルドは「Inchiostro Vivo」の作業台に凭れ、タバコに火をつける。ちりちりと燃える音が響き、煙が朝陽に白く揺れる。暑さで汗が首筋を伝い、黒いTシャツにインクのシミが滲む。襟足が首に張り付く不快感に、苛立ちで眉間に皺を寄せる。
あれから1週間経った。あの日「出ていけ」と言って逃げていったと思ったが、翌朝7時、扉を開けると目の前にあいつが立っていた。
「あの、おはようございます…」
「出ていけって言ったろ、どけ」
震える声でシャツの裾を握り、目を伏せるオリヴィエを睨みつけ、吐き捨てて通り過ぎた。朝から耳障りな目で見上げられ気分が悪い。
「スケッチブック…取りに来たんです…」
リカルドはその言葉に立ち止まる。
捨てるつもりのスケッチブックを、机に叩きつけたことを思い出す。
「勝手に取って帰れ」
横目で一瞥してタバコに火をつけ、背を向けて再び足を石畳に踏み出す。
「待って!」
振り返ると、オリヴィエがTシャツの裾を小さく握って引き止めている。目を細め、タバコを咋んでゆっくりと振り返るリカルドの顔を見て、慌てて手を離した。
「あの、昨日はごめんなさい。でも、まだ仕事も終わってないし、最後までやりたいから…」
シャツから浮かぶ細い肩が震え、俯きながら下手くそに呟く姿が子供のように小さく見え、余計に苛立ちが募って舌打ちする。
「もういい。後は俺がやる」
「ここで働きたいんです。もう、変なこと聞かない…から」
「ここじゃなくても、お前の好きな掃除はどこでも出来る」
「掃除は好きだけど…でも、ここじゃないと…」
涙を堪えながら頭を下げる姿を黙って見つめる。
ただの田舎のタトゥー屋で、過去にたった一度助けてもらっただけの男、それも疎ましく思って滅茶苦茶な仕事を振ってるのに、何故ここまでするのだろうか。
なんなんだ、こいつは?
必死さを惨めに思うと、追い出す言葉がこれ以上喉に引っかかって出てこなかった。
「…勝手にしろ」
疎ましく思ってるのに、過去を触れられたくないと思ってるのに、何度あしらっても食らいつく惨めさが妙に引っかかる。
なぜ、俺はこいつをスタジオに招いた?
放っておけばよかっただろ。
「ありがとうございます」と嬉しそうに顔を上げるこいつを見てると、どっちつかずな自分に嫌気がさしてくる。
「掃除の前にゴミ出し行け。溜まってる」
「分かりました!」
軽やかに足音を響かせながらゴミ箱から袋を集めると、裏口に向かって去っていった。
その日は一日、反省したのか余計な口も聞かずただ黙々と作業を進めていた。
朝7時に来ては掃除とゴミ出し、使い走りの毎日。時々市場の報告をしてはまた掃除に戻る。
──こいつの目的が分からない。
なぜ俺にここまで固執してる?
本当に俺に会いに来ただけなのか?
だが10年も前だぞ、今更…
言いかけたところで、強烈な頭痛が頭の奥で響いて止めた。無意識に左腕を撫でると、黒いインクで覆い隠した太陽がチクリと痛んだ。
「今更、消えるわけねぇか」
眉根を寄せ、背もたれに凭れてタバコを強く吸い込む。
だが、ダンボール箱に入ったニードルパックを手に、小さく丸まってルーペで確認するあいつを見てると余計な思考が馬鹿らしく思える。
ずっと無償で掃除させるわけにもいかず、何日か過ぎた頃、適当にポケットから数ユーロを放り投げた。
シチリアの陽射しがスタジオを焼き、潮風が煙を揺らす中、今日もあいつが扉を叩いた。
「おはようございます…Bóngiorno」
とぎこちなく笑うあいつに、「Buongiornoだろ、下手くそ」と内心で苛立つ。ザリザリと床を掃く音が響き、タバコを咥えたままパワーサプライのダイヤルを回して電圧を設定する。コンタクトスクリューをドライバーで微調整し、フットスイッチで低く唸る音を確かめる。
ブーンという音と共に腕を通して心臓に重く響く。こいつの音だけが俺に安らぎを与えてくれる。
窓から差し込む暑さが苛立ちを増す中、コイルをアルコールで拭いていると、
「海の絵、増やしたんです。ここの朝陽、綺麗だから」
とあいつは笑った。俺は「へぇ」と返して灰を弾き、「掃除しろ」とだけ返す。
相変わらず耳障りなイタリア語で話しかけるしつこさに、いい加減耳が慣れてきたが、純粋な瞳が刺さるたび、タバコを握りつぶしたくなる。
「勝手にしろ」と吐き捨てた俺が悪いのか、あいつのしつこさが悪いのか。
暑さで頭が重く、苛立ちが募る。
昼前、太陽が石畳を白く焼き、スタジオの中は蒸し暑い。汗でシャツが背中に張り付き、あいつも額を拭いながら、バカ真面目に言いつけを守って無意味なチューブの掃除をしている。客も来ない、針音も止まり、静けさが暑さを増していく。
「シエスタだ。帰れ」
クリップコードを手に取ったまま振り返り、数ユーロを放って背を向ける。いつもなら使い走りに向かわせるが、今日の暑さは異常で、また倒れられても面倒だった。あいつは不思議そうな顔で何かを言いかけたが、結局何も言わずにスタジオから出ていった。足音が遠ざかり、タバコを灰皿に押し潰す。
一人になれば耳障りな目と、しつこい報告を聞かなくて済む。再びタバコの火を付けるが、スタジオの静けさが、ぎこちない笑顔で絵を見せるあいつの姿を思い出させる。
昔、同じように笑って絵を見せてきたやつがいた。同じように「へぇ」とだけ返した気がする。
その時、俺は笑っていたか?もう忘れてしまった。
どうでもいいはずなのに、箒の音や市場の報告が無いと、過去を思い出す時間が増えてタバコを吸う間隔が短くなる。
「めんどくせぇ」
自虐のように呟き、タバコの灰を指で弾いて床に散らした。窓から見える海に目をやり、無意識に腕を撫でる。インクの下に隠した太陽がズキズキと痛む。
潮風がカーテンを揺らし、遠くで漁師の声が響く。




