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インク アライブ  作者: おーひょい
ロザリア像の下で
6/27

疼きと耳障りな目-2

 オリヴィエは逃げるようにスタジオを飛び出した。市場への道、視界の端でクリーム色の建物から洗濯物が揺れている。路地を抜け、魚屋の呼び声が波音に混じり出す。

 広場を見渡せる壁に背中を預け、息を整えて中央へ向かった。跳ねるような子供の笑い声や客を呼ぶ手を叩く音が遠くに聞こえる。


「どうして、そんな目で見るんですか?」


 スケッチを見る鋭い青い瞳が胸を刺し、否定する彼に疑念が渦巻く。パンを詰め込む手が一瞬止まり、市場の声が潮風に混ざって薄金色の髪を攫う。額に張り付く髪を払い除けて路地へ入るが、スタジオへ向かう足が重い。


 スタジオに戻ると、扉が開き、笑い声が漏れる。常連らしい中年男がタトゥーのデザインを手に笑い、リカルドが珍しく口角を上げる。シチリア語のスラングで冗談を交わし、タバコを咥えたまま軽く頷く。針を手に持つ姿に陽が差し、笑顔が柔らかく光る。

 オリヴィエは麻袋を置いたまま息を止めた。震える手でスケッチブックを握り潰し、紙の端が破れる音がする。

 ヴェローナの焼けた石畳で、太陽のタトゥーが笑顔と重なる。10年前の夏の熱が胸を刺し、心臓が高鳴って抱えたままのスケッチブックに手が汗で濡れる。


 客が去り、リカルドの瞳が先程の冷たさを取り戻す。タバコを咥えたまま煙を吐き出すと「遅ぇな」と一瞥され、オリヴィエは箒を手に黙々と動く。煙が目に染み、胸の疼きが収まらない。

 夕方、確認を終えてリストを渡し、ペンションへ戻った。手渡した際に触れた指が再び疼きを走らせるが、麻袋に握り潰してスタジオを後にした。石畳を踏む足音が潮風に溶け、市場の喧騒が遠ざかる。



 オリヴィエはペンション「カーサ・ローザ」の軋むベッドに腰を下ろし、スケッチブックを開く。窓から差し込む夕陽が紙を染め、海の音がカーテンを揺らす。

 胸の疼きが治まらず、鉛筆を握り潰してスケッチブックに描き殴る。


 頭の中、あの笑顔がヴェローナの焼けた石畳に立つ。だが、冷たい声と目が喉を焼き、孤児院や路地裏での孤独が頭を過ぎって息を詰まらせ、鉛筆の先が小さく軋んだ。

 あの日からずっとあの人を追いかけた。

 否定した彼の目が孤独だった日々を刺激する。

あの人じゃないなら、陽に光るタトゥーと笑顔が僕を刺すのはなんでだ?


 描き殴った波の線が滲み、汗で紙を湿らせた。スケッチブックを握り潰しそうになりテーブルの上へそっと置いた。

 ベッドへ横になり、窓から覗く星空を見つめる。穏やかな風が雲を運び、月明かりがカーテンに揺れる。

 ヴェローナの笑顔とリカルドの冷たい目が交錯し、疼きが眠りを奪う。




……………………




 数日後、シチリアの陽射しが石畳を白く焼く中、オリヴィエはサンタ・ロザリアの像の下に立つ。スケッチブックを開いて喧騒に耳を傾ける。シチリアの海が鉛筆で波立ち、市場の喧騒が線でざわめいて地元民の笑顔が紙に滲む。潮風が汗ばむ首筋を撫で、陽射しが目に刺さる。

 通り過ぎる地元民に「タトゥー野郎の所で働いてるガキ」と噂され、広場を走り回る子供たちがスケッチブックを覗き込んでは「絵を描いて!」とせがんでくる。


 何時間か経ち、市場の喧騒が薄れゆく中、箒の音が頭を過ぎる。リカルドの目が過ぎり、タバコの匂いが掠めた気がして手が震えた。笑顔が頭に焼き付き、鉛筆を紙に擦る音が止まる。

 広場に遠くの波音が響き、開いたままのスケッチブックに波の線を一本書き加えた。なぞったまま、押し付けた鉛筆の先が小さく欠ける。


「あ…新しいの、買わないと…」


 オリヴィエは街へ出て、画材屋の軋む扉を押した。2Bの鉛筆数本を購入し、麻袋に詰め込んで再び通りへ出る。傾いた夕陽が石畳を染める中、タバコの苦い香りが鼻をかすめて思わず足を止めた。顔を向けると無人のタバコ屋が佇んでいる。店主の姿はない。オリヴィエはガラス越しに並ぶ箱を見つめ、リカルドのタバコを咥える仕草を頭に描く。


──俺じゃねぇ。


 陽射しに燃えるように光る金髪、刺すような青い瞳、記憶がリカルドをあの人であることを確かにしているはずなのに、冷たい言葉が過去を覆い隠す。


「本当に?」


 疑問が疼きに変わり、ガラスのショーケースに映る翡翠が波に反射して青く重なる。


 彼の匂い、冷たい目の奥にあるもの、覆われたタトゥーの意味──全てを知りたい。


「あなたに会うために、僕はここまで生きてきた」


 銘柄が分からないままじっと見つめると、奥から店主が現れ、オリヴィエは慌てて目を伏せた。伸ばしかけた手を引っ込めて再び歩き出す。

 タバコの苦い香りが鼻にこびり付き、ヴェローナの焼けた石畳と太陽のタトゥーが薄く重なって疼きが止まらない。

 スケッチブックの波の線が汗で滲み、海鳥の影が紙に落ちる。顔を上げ、雲の流れる青空をしばらく眺めると、麻袋を肩に掛け直してスタジオへ向かった。



 夕暮れ、シチリアの空が赤く染まり、「Inchiostro Vivo」の窓に陽が落ちる。潮風がカーテンを揺らし、消毒液とコイルマシンの油臭と混じる。オリヴィエは彫り台を布で拭き、汗で湿った薄金色の髪が額に張り付く。リカルドは作業台に凭れ、ライターをカチカチと鳴らして手の中で弄んでいる。夕陽がタトゥーの覗く腕に影を刻み、手を動かすたびにインクの黒が鈍く光る。

 針が肌に刻む音、血とインクが滲む瞬間が頭に響く。針を持つ手がインクで微かに染まり、手を差し伸べたあの人と重なる。

 タバコ屋での疼きが衝動に変わり、言葉が口をついて出る。


「あの…タトゥーを彫る時、誰か、思い出しますか?」


 ライターを握らす手が止まり、タバコの火がちりちりと鳴る。鋭い青い瞳がオリヴィエを刺す。


「くだらねぇ質問だな」


 と低く吐き捨て、ライターをカチンと鳴らす。箒を握る手が汗ばみ、夕陽に翡翠色の瞳が揺れる。


「あなたの笑顔、誰か、似ています。…ヴェローナで見た、太陽のタトゥーの人…」


 リカルドはタバコを咥えたまま黙った。くすんだ金髪が目元にかかり、表情はよく見えない。ヴェローナの陽を思わせる夕陽に、シルエットで浮かぶ彼の横顔を眺める。リカルドは指でタバコを摘むと、灰皿に押し潰し立ち上がった。自分より10cm以上はありそうな体格が威圧感を放ち、オリヴィエに近づく。足音が床を軋ませ、タトゥーの腕が夕陽に光る。


「市場で気に入られたくらいで俺の過去を探る気か?」


 声に苛立ちが滲み、オリヴィエは後ずさる。背が壁に当たり、冷たい石の感触が背筋を冷やす。暗い海のような目に見下ろされ、孤児院の記憶が蘇る──お前は見捨てられた─と教父の声が響き、喉が締まって息ができない。


「次、同じこと聞いたら追い出すぞ」


 リカルドの拳が壁を叩き、鈍い音が耳を刺す。オリヴィエは咄嗟に「ごめんなさい…」と頭を抱え、肩が縮こまり、箒の柄が床を叩く音が響く。心臓が脈打ち無意識に涙が溢れそうになる。それなのに、汗とインク、タバコの匂いが鼻を刺し、恐怖の隣で胸が疼く。

 リカルドは一歩下がり、「出ていけ」と低く唸ると、オリヴィエは肩を震わせて一瞬躊躇うが、麻袋を握り扉を後にする。夕陽が石畳に影を伸ばし、海風が汗ばむ首筋を冷やす。踏み出す足が震えて小さく軋み、唇を噛み締めた。スタジオの扉は閉まり、潮風にタバコの煙が溶けていった。



 足音が遠くなり、漁師の喚き声と海鳥の声が遠く響く。

 リカルドはタバコを咥えたまましばらく立ち尽くすが、やがてパイプ椅子に浅く腰掛けた。鉄の軋む音が耳障りに鳴る。


「あのガキの目、どうしてこんなに苛立つ」


 呟いて無意識に左腕を撫で、オリヴィエが忘れていった床に落ちたスケッチブックに目が止まる。ボロボロの表紙が潮風に揺れ、太陽のデザインが覗く。


──ねぇ、リカルド。いつか…


──全てお前のせいだ。


 恋人が自分を呼ぶ声と相棒の声が重なり、乱暴に拾い上げ舌打ちして握り潰す。


「クソ!」


 リカルドは吼え、作業台の上へスケッチブックを叩きつけた。領収書の束が解かれ、床に散っていく。換気扇と扇風機の回る音だけがスタジオに静かに響いている。



………………





 ペンション「カーサ・ローザ」に戻り、窓辺で海を見つめる。波が黒く揺れ、遠くの漁船の灯りが滲む。リカルドの汗とインク、タバコの混ざる匂いが蘇り、喉が締まるような疼きが広がる。


 リカルドに詰め寄られた時の冷たい目が体を縮こまらせたのに、胸の奥が彼を知りたがっている。頭がぐちゃぐちゃになり、ベッドに体を沈ませた。寝返りをうって壁の染みをじっと見つめる。


 この感情の名前が分からない。彼があの人なら、12年の旅が終わるはずなのに、そうじゃないなら、この疼きは何だ?

 彼が気になる。そばにいたい。知りたい。孤児院の冷たい部屋、ヴェローナの焼けた石畳で僕を見つめたあの人と、彼の冷たい目が交錯する。あの太陽のタトゥーを追いかけてここまで来たのに、あの人じゃなくても、彼のタバコの匂いや笑う理由を知りたい衝動が抑えられない。


「あの人じゃなくても…知りたい」


 起き上がり、スケッチブックを開こうとテーブルに目を向けるが、スタジオに置いてきたことに気付き小さく「あっ」と呟く。壁を叩く鈍い音が頭に反響するが、打ち消すようにシーツを振り払う。


「明日、もう一度スタジオに行こう。少しずつ、あの人のこと、知りたい」


 スタジオに戻る決意を固めると、眠れないまま海の音と疼きに体を沈ませた。

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