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インク アライブ  作者: おーひょい
ロザリア像の下で
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疼きと耳障りな目-1

 朝6時30分、シチリアの海辺の街はまだ薄闇に沈む。潮風が石畳を撫で、海鳥の声が遠く響く中、オリヴィエはペンション「カーサ・ローザ」を出て通りを歩く。麻袋が肩に食い込み、スケッチブックを握る手が汗で湿る。

 潮の匂いが薄金色の髪に絡み、不安に体を冷たく締め上げる。スタジオ「Inchiostro Vivo」への道を歩きながら心が揺れる。

 あの冷たい目、「俺じゃねぇ」と切り捨てた声にナポリの路上でチンピラに殴られた夜と重なり、胸を締め付けられる。

 あの目が「近付くな」と告げる一方で、なぜ僕を呼んだのだろう。


 時間よりも早く到着するが、スタジオ内の電気は付いていて微かな針音が漏れている。扉を叩く手が震え、鍵が回る音が静寂を裂く。扉が軋み、リカルドが顔を出し、金髪を掻き上げる腕からタトゥーが覗いている。タバコの残り香と微かな香水が漂い、バールの喧騒と女の笑い声が溶けた気配にオリヴィエは目を伏せた。


「早ぇな」


 リカルドが金属の甲高い音を響かせながら開けると錆びたシャッターが軋み、剥き出しの鉄骨と湿ったコンクリートにタバコとインクの匂いが混じる。中へ入ると、カラカラと換気扇が回り、微かに潮の匂いも漂っている。

 リカルドはスタジオの奥に行くと蜘蛛の巣を払い、古い箒を引っ張り出して放り投げた。受け止めた埃まみれの箒からはインクとタバコの匂いが立ち上り、リカルドの存在を強く感じさせる。


「掃除しろ。客が来る前に汚れを全部落とせ」


 ぶっきらぼうに言い放つと作業台に凭れ、タバコを咥えてライターの火を灯す。ちりちりと燃える音が響き、煙が朝日に白く揺れる。オリヴィエは小さく頷き、スタジオの隅へ向かった。窓から差し込む薄い光が床の汚れを浮かび上がらせ、埃とインクの匂いが鼻を刺す。


「埃が舞うだろ。もっと向こう行け」


 手で振り払うようにして端に追いやられながら、手の中の箒をザリザリと擦るがエスプレッソの香りが鼻に残る。冷たく否定した声が頭に過ぎり、箒を握り締めた。


「あの、何で、僕をここに置いてくれた、ですか?」


 タトゥーが鈍く光る腕とドライバーを動かすたびに小さく動く背中を見つめるが、リカルドは一瞥することもなく、コイルマシンを覗き込みながら答える。


「少なくとも話し相手が欲しかった訳じゃねぇ。手ぇ動かせ」


 判然としないまま疑問がぐるぐると頭の中を巡り、箒の音が一瞬途切れた。


 午前中に掃除を終えると、リカルドがタバコの灰を指で弾き、顎を上げる。


「市場へ行け。トマト、パン、オリーブオイル。祭りの後で品薄だ、早くしろ」


 50ユーロ札を放るように渡し、オリヴィエは両手で受け取る。数ユーロで足りるはず、とオリヴィエは戸惑うが、リカルドは急かすように「早く行け」と煙を吹きかける。


「Mercato…sì、行きます!」


 確認するように言うと外へ飛び出し、石畳を踏む音を響かせ市場へ向かった。

 陽射しが魚の鱗に光り、トマトの赤が波音と響く。子供の笑い声が陽射しに跳ね、品を値切る怒鳴り声が市場のあちらこちらで響いている。

 パン屋の呼び声が近づき、パニーニの焼けた匂い、トマトの赤が目に映る。オリヴィエが「P-pani」と呟くとまた笑われ、50ユーロ札を渡せば店主が眉をひそめ「外国人は算数も出来ねぇのか?」と焦げ臭い手で奪い取られる。パンと釣り銭を受け取り、「グラッツィ」と小さく笑うと、手のひらの中でコインが陽射しに光り、ナポリの夜が灼熱の太陽に溶けていく。ユーロ札とコインをポケットにしまい、麻袋に詰めながら汗で濡れた首筋を擦った。日に焼けた赤い実が眩しく、目を細めて麻袋に押し詰めた。


 スタジオに戻ると、作業台でリカルドはコイルマシンの調整を行っている。マシンを空打ちする音が響き、ニードルに陽射しが反射してキラリと光る。


「遅せぇな。そのまま戻って来ねぇかと思ったぜ」


 と一瞥され鼻で笑われるが、10ユーロ札数枚とコインを手渡すと、リカルドは値踏みするようにオリヴィエを見つめ、「へぇ」と低く呟き、そのままタバコを咥え直してポケットに突っ込んだ。


「掃除の前に備品確認しろ」


 と低く唸る。オリヴィエの目線は戸惑いながら、スタジオ内の古い木箱とスチール棚を彷徨う。ダンボールや瓶が雑多に置かれ、作業台にはタバコの箱に突っ込んだ領収書が潮風に揺れている。

 陽射しにインク瓶が光り、カーテンを揺らす波音に鼓動が重なる。


「あの、何から…?」


 小さく呟くと、リカルドは舌打ちして作業台へ向かう。タバコを咥え直し、散らばる領収書を手で払いのけ、中から1枚の紙を取り出してオリヴィエに叩きつける。


「ニードルパックとゴムバンド、手袋をチェックしろ。日付は8月1日以降だ」


「ニードル…?あの、日付って…」


「仕事が欲しいんだろ?やれよ」


 冷たい瞳と言葉に胸が締め付けられ、「わかりました」と返す以外どうしようも出来なかった。煙が目に染みる中、言われた通りに備品を確認していく。

 オリヴィエはスチール棚の箱からニードルパックを手に取った。滅菌された真空パックの裏側には、小さな文字で日付が印字されている。日付とはこのことだったのかと思い、目を凝らし確認するが見えずらい。


「あの…ルーペ、貸してくれますか?」


 椅子に凭れ、煙を漂わせるリカルドの背中に恐る恐る声を掛ける。ギシッと音を立てて顔を向け横目でチラリとこちらを一瞥すると、何も言わずに引き出しを漁ってルーペを放り投げる。


「1mmも見逃すなよ」


 冷たい言葉が背中に響き、翡翠色の瞳を震わせた。


 斜陽が木の床に影を作り、潮風がカーテンを揺らす。子供の笑い声や漁師の喚き声が遠くに響く中、パックを確認する。凝らした目と小さなルーペを持つ手が疲労で痛む。

 その間もリカルドは観光客に小さなタトゥーを彫り、地元の常連とシチリア語のスラングで冗談を交わしていた。オリヴィエに目をやることも無く、シチリア語や英語でやり取りするリカルドと客の声が刺さる。その度、ヴェローナやナポリの路地裏で、移民差別を受けて殴られた痛みが頭を過ぎる。

 あの太陽を追い求める自分が、彼にはただの邪魔者なのかもしれない。

 だがあの人に会うためにシチリアまで来た。

 ここで生きると決めた意思は本当なんだ…


 唇を噛んで目を凝らし、コイルマシンの唸る声、肌を穿つ針音に執念を刻んでいく。


 夕方、客が帰った後リカルドはゴム手袋と使い捨てニードルを雑にゴミ箱に放り投げる。タバコに火をつけながら立ち上がり、パックに目を凝らすオリヴィエを覗き込む。ちりちりと燃える音が鳴り、リカルドの舌打ちが耳に刺さる。


「まだ終わらねぇのか?使えねぇガキだな」


 と吐き捨てられ、オリヴィエは怯えに瞳を揺らしつつ、決意を固めて見上げる。


「明日も、やります」


 怯えながらも執念を宿す真剣な瞳に、リカルドは目を細めて見つめる。夕陽が腕に覆われた黒いインクを照らし、煙が潮風に溶けていく。


「…もう店仕舞いだ、帰れ」


 やがて目を逸らすと呟いて背を向けた。オリヴィエはぶっきらぼうな言葉に「グラッツィ」と小さく笑い、麻袋を肩に掛けてスタジオを後にした。

 潮風が首筋を冷たく撫で、遠くの海鳥の声に鼓動が呼応する。




………………




 翌朝、薄闇が薄れゆくシチリアの空に朝陽が滲む。オリヴィエは再び「Inchiostro Vivo」の扉の前に立つ。潮風が金髪を揺らし、石畳に散らばる祭りの花飾りの残骸が足元で小さく音を鳴らす。


 ワークブーツの重い足音が近付き、扉が軋ませリカルドが顔を出す。タバコの残り香が漂わせ「また来やがったか」と呟き、箒を投げた。煙が朝陽に白く揺れ、扉の軋む音が静寂を裂く。


「確認の前に掃除しろ」


 作業台に凭れ、タバコに火をつけるリカルドの声が低く響く。木の床にはタバコの吸殻やビール缶が新たに落ちている。


「(一日でまた汚れが…一人の時はどうしてたんだろう…?)」


 床の汚れを見つめ、落ちている空き缶を拾い上げてチラリとリカルドの横顔を伺う。箒でザリザリと床を擦り、灰色の吸殻が薄く滲む。埃とタバコの匂いが鼻を刺し、リカルドの背中を見つめる。肩の線、タトゥーが覗く腕が、ヴェローナの焼けた石畳で笑う影と重なる。ふと視線が交錯し、不愉快そうに眉を寄せるリカルドから目を逸らすが、胸が締まり手が震える。

 記憶の中、スケッチに描いた太陽、朝陽に照らされた黒いインクの下に浮かぶ気がして、目線が吸い寄せられ手が止まる。箒の音が時々途切れてはリカルドに「さぼるな」と怒られた。正午前、作業台でデザイン画の作成をしていた彼が、


「市場へ行け。トマトとパンだけでいい」


 と突然顔を上げ、ポケットの中から数ユーロを放った。飛んできたコインを慌てて受け止めた時、スケッチブックが両手からすり抜けた。床に落ち、ヴェローナの太陽が開かれる。リカルドの視線がスケッチに向くと、目を見開いて見つめた。逆光の陽射しの中、インク瓶に反射する青にリカルドの瞳が狼のように鋭く光る。


「…何のスケッチだ?」


 目線に気付き、慌ててオリヴィエが手を伸ばすと潮風にページが揺れて捲れた。

 「俺じゃねぇ」と吐き捨てた時と同じ目に、翡翠色の瞳を怯えに染める。


「シチリア…海、です」


 掠れた声で答えるオリヴィエを黙ったまま見つけた。タバコを咥えた口元から白い煙がゆっくりと揺れ、青い瞳を隠すと、やがて「早く行け」と吐き捨て背を向けた。

 握りしめたコインが手の中で滑り、落とさぬよう握り直して外へ飛び出した。

 陽射しが石畳に反射して目を焼き、潮風が冷たく背中を冷やしていく。

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