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インク アライブ  作者: おーひょい
影には影のルールがある
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希望と墓標-2

 アンナが去った後のスタジオで、リカルドは片付けもせず、オリヴィエの描きあげたデザインをじっと見つめた。

 悪くはない、以前にも増して、迷いのない「芯」のある線だ。何より、このデザインを肌に乗せる自身のインクが、かつてないほど鮮やかに生きているのを、自分自身が一番理解していた。


(コンペに出れば……もしかしたら……)


 そんな予感が脳裏を掠める。だが、その賞賛はすぐにドメニコへの罪悪感に取って代わられた。オリヴィエを「光」という名の隠れ蓑にする。そのためにオリヴィエを誘い出そうとする自分の言葉が、毒のように喉の奥で澱んでいる。


 ふと視線を上げると、オリヴィエが熱っぽい瞳でリカルドの仕事道具を見つめていた。かつて、オリヴィエのデザインがマリオの腕に刻まれた時と同じ、憧れと高揚が混じったあの表情だ。

 リカルドは嫌な予感を感じつつも、無言でタバコに火をつけた。


「タトゥーって痛い、ですよね? リカルドさんの首や腕にあるもの、痛かったですか?」


 突拍子もない言葉に、リカルドはタバコを落としそうになるほど面食らった。


「何だ突然。痛えに決まってんだろ。肌を破って中に異物を入れてんだぞ」


 タバコを咥え直し、オリヴィエを見やる。


「アンナおばあちゃんの願いを描いたけど、その先の痛みを、僕は知らない。……だから、ちゃんと、知った方がいいかな、って」

「……それはお前、俺に彫れって言ってんのか?」

「そ、そうじゃないけど……」


 思わず視線を泳がせるオリヴィエを、リカルドは鼻で笑った。


「モジモジしやがって。どこ彫りてえのか言ってみろ」

「え!い、いや……その……手首……とか?」


 オリヴィエは恐る恐る、掌を上に、細い手首をリカルドの方へ差し出した。

 その場所を聞くと、リカルドは一瞬冷酷な光を宿し、ニヤリとイタズラっぽく笑った。


「……手首か。いいぜ、お望み通りタダで彫ってやるよ」

「ほ、本当に……?」


 あまりに気前のいいリカルドの返答に、オリヴィエは意外さよりも、本能的な恐怖が混じって聞き返した。

 だが、リカルドはすでにラテックスの手袋をパチンと嵌め、新品の針を袋から取り出している。カチカチとインク瓶の顔料を鳴らし、作業台に並べられたインクカップに数滴注ぐ。その手際があまりに鮮やかで、かえってオリヴィエの心臓の鼓動を早めた。


「ほ、本当に? 今? これからですか?」

「やると決めたらやんだよ。ほら、出せ」


 逃がさないというように、リカルドの大きな手がオリヴィエの手首を強く掴んだ。

 冷たい消毒液が肌をなぞり、先端が鋭く光る針が近付いてくる。


「何がいい」

「え、と……小さな、太陽とか……」

「……太陽ね」


 リカルドの声が一瞬だけ揺らぎ、低く沈んだ。

 針先をインクカップに吸わせ、フットスイッチを踏むと、振動とともに「あの子」の低い唸り声を上げ、オリヴィエの無垢な手首へと迫る。


「いいか、手首ってのは皮が薄いから直接振動が伝わる。少しでもブレれば、血管を傷つける恐れもある。……それと、彫るのは痛いかと聞いたな」

「はい……」

「俺が彫られた中で、二番目に痛かった場所は手首だ」


 細かく振動する針がオリヴィエの肌に到達すると、薄い皮膚に鮮烈な赤い血と黒いインクが混ざる。


「痛い……! うぅ……オレンジの皮と、違う……」

「動くな。よく見とけ。角度は三十度。深さは一ミリだ」


 滑らかな円の線を描く途中、リカルドの瞳は冷徹な師のそれに変わる。


「俺の動きならこれで済むが、お前の力加減だとこうなる」


 そう言うとリカルドはわざと針を二ミリの深さにまで刺してみせる。


「う、あぁ……!」


 オリヴィエはあまりの激痛に体を跳ねさせ、喉を詰まらせながら呻いた。だが、リカルドは掴んだ手首から目を離さず、その傷口を見つめて言い放つ。


「力加減を間違えれば深くなる。痛えだろ。皮膚はゴムじゃねぇ、覚えとけ。……痛みは客の覚悟だが、その痛みの責任は、彫る側のお前が背負うんだ」


 やがてマシンの音は止み、血を拭い去った後に描き出されたのは、シンプルで、どこか温かい小さな太陽。オリヴィエは涙を浮かべながらも、その焼けるような熱を持つ「初めての痛み」を、愛おしくそっと撫でた。


「うぅ、ありがとうございます……痛い。けど……こうやって、体に刻むんですね」


 それでもジンジンと脈打つ手首を押さえながら、リカルドの姿をあらためて見つめた。

 首元から覗く太い三本線と、複雑な幾何学模様の太陽と波。両腕には肩から指先まで、ポリネシアン風の意匠が隙間もないほどに埋め尽くされている。これほどの広範囲に、どれほど気が遠くなるな時間と痛み、そして覚悟を飲み込んできたのだろうか。


「リカルドさんの……一番痛かった場所、どこですか?」


 オリヴィエの問いに、リカルドの脳裏にハージムの冷え切った指先が蘇った。

『この太陽は、誰にも汚させない』

 耳元でそう囁き、リカルドの左腕に深く針を突き刺し、「呪い」を刻み込んだ男の顔が頭から離れない。


「……覚えてねぇよ」


 リカルドは左腕を一瞥し、吐き捨てるように呟いた。

 傾き始めた夕陽が、リカルドの端正な横顔を、削り取るように影を落とす。


「そう、なんですね」


 オリヴィエはそれ以上何も聞かなかった。リカルドの伏せた瞳の奥に、自分の触れてはいけない何かを悟ったようだった。



 その夜、リカルドはキッチンで一人、カポナータを作っていた。

 熱せられたフライパンから、跳ねたオリーブオイルがリカルドの左腕のタトゥーの上に落ちる。


「……あちぃな、クソ」


 呻きながら腕を拭うが、油が落ちた場所、黒い影を纏った太陽のタトゥーが、まるで生き物のように疼いた。


 同じモチーフ、同じ「太陽」。

 なのに、オリヴィエに彫った太陽は眩い「希望」で、自分の腕にあるのは、過去を葬るための「墓標」だ。

 天と地ほどの差がある残酷な事実に、リカルドは苦く舌打ちする。


 認めざるを得ない。あいつの描く線には、俺がとっくの昔に捨てちまった「祈り」が宿っている。


 その時、カウンターに置いたNokiaの携帯が震えた。手に取って、小さな液晶にヴィットリオの名前が光っている。コンペ出場に関するメールだ。


『コンペの件、了解した。ところで、この間のガキもついてくるのか? 見習い枠なら、まだ一つ出場可能枠が残っている』


 液晶を流れる無機質な文字。リカルドは一瞬、オリヴィエをこのまま「日常」側に置いておくべきではないかと躊躇した。

 だが、ドメニコの冷徹な笑みが脳裏をよぎる。


 俺一人で「光」になどなれない。あの純粋な才能という燃料があって初めて、ドメニコの影を隠すほどの眩い火が灯るのだ。


 リカルドは、冷えた心臓を無理やり動かすと、決意したように一気に返信を打ち込んだ。

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