希望と墓標-1
リカルドがバールから戻ると、待ち構えていたオリヴィエの心配そうな翡翠の瞳を乱暴に押し除け、自室へと籠った。
オリヴィエはしばらくスタジオでハンドポークの針を動かしていたが、やがて静まり返ったリカルドの自室へ、吸い寄せられるように足を踏み入れた。
ソファーに凭れ、天井を凝視するリカルドにそっと近付く。
「何を、話しましたか」
「何でもねぇ。少し疲れただけだ。……出てけ」
「……」
オリヴィエはじっと見つめて動かなかった。痛々しいほどに純粋な視線が、耳障りに室内を彷徨っている。
リカルドは耐えかねたように首を鳴らして起き上がると、オリヴィエへ言い放つ。
「……ナスとパプリカ、リコッタチーズ買ってこい。夕飯だ」
「え」
「いいから。さっさと行け」
困惑するオリヴィエを半ば強引に部屋から押し出し、市場へと向かわせた。一人になった部屋に、冷たい潮風が流れ込む。
リカルドは自室のソファーへ深く腰掛け、遠く、夕闇に沈みゆくエトナ山を眺めた。
左腕の太陽が焼けるように疼き、ドメニコに叩かれた頬が今も熱を持って脈打っている。
ヴェローナの闇から逃れ、灼熱の太陽の下で自由を得たつもりが、結局は再び闇の底へ引き摺り込まれようとしている。
この太陽のタトゥーは、いつまでも消えない呪いだ。
地獄の底へ引き摺り込もうと、俺にかけられた鎖を握って、ハージムがニヤついて手薬煉を引いている気がする。
リカルドは自らの掌を見つめた。
血とインクの染みで汚れた手。エレナが好き「優しい」と言い、そして、オリヴィエがこのシチリアの光とともに描いた手。
これ以上、オリヴィエを巻き込むわけにはいかない。そのためには、自分がドメニコの望むままに踊るしかないのだ。
タバコを吸う気力すら沸かず、リカルドは再び天井の染みを見つめた
それから、重い鉛を動かすような手つきで、Nokiaの携帯を手に取り、タトゥーショップの店主ヴィットリオへ、短いメッセージを送った。
『コンペへ出場する。話を進めておけ』
◇
オリヴィエが戻ってからも、リカルドは拍子抜けするほど「いつも通り」の表情を崩さなかった。
それからの日常は、薄く強引に引き延ばされるようにして続いていった。リカルドの沈黙の意味を測りかねながらも、オリヴィエは必死にデザインを練り上げた。リカルドの容赦ない修正指示に何度も打ちのめされ、描き直し、ようやく彼が短く「……まぁいい」と納得したのは、十一月の半ばだった。
秋の深まりとともに潮風が冷たさを増した、アンナが来訪日。
「来たな、婆さん。途中で死ぬなよ」
「アンタはいつも一言余計なんだよ! あら、オリー。あんたはそのままでいいからね」
「は、はい……」
アンナはリカルドに対して悪態をつき、オリヴィエには慈母のような笑みを向ける。コロコロと表情を変えながら、リカルドに前回の金が少なかったと指摘されれば、「強欲な男だよ!」と文句を言いながらも、しわくちゃの紙幣を丁寧に手渡した。
作業台に、アンナが古びた革のような背中を曝け出し、リカルドは静かにステンシルを貼り付ける。オリヴィエも固唾を飲んでその光景を見守った。
紫のインクが肌に写り、アンナの祈りが線となって浮かび上がる。まだ陰影も色もない。だが、確かにそこにはアンナの人生と、オリヴィエの願いが形作られていた。
アンナが手鏡で確認すると、感極まったようにオリヴィエに微笑みかけた。
「ありがとう、オリー。あんたに話してよかった。あたしにとっての願い、ちゃんと形になってるじゃないか」
「僕の方こそ、ありがとう。話してくれたから、リカルドさんも……その、厳しく見てくれたし」
「奴は関係ないさ。これは、あんたの意地だよ」
吐き捨てるように言い放つアンナに、リカルドは不機嫌そうに鼻を鳴らした。だが、すぐにオリヴィエが引いた線の「芯」をじっと捉える。
「……もういいか? 彫るぞ」
「情緒ってもんがないのか、アンタには」
「知らねぇな。あるなら、ぜひ教えてもらいたいね」
リカルドがパワーサプライのスイッチを押すと、スタジオに「あの子」の低く、規則正しい音が響き渡る。
リカルドは迷いのない動作で、ステンシルのラインをなぞり始める。
オリヴィエの描いた紫色の「願い」が、確かな重みを持った黒いインクで縁取られていく。針が肌を叩くたび、アンナの背中にある家族への想いが、消えることのない誓いへと変わっていった。
数時間の格闘の末、細かな縁取りがすべて完了した。リカルドは仕上げに、ワセリンをアンナの深い皺の一つ一つまで丁寧に塗り込んでいく。その手つきは、先ほどまでの毒舌とは裏腹に、細かな慈しみを感じさせる。
「今日はここまでだ。残りは一ヶ月後。これ以上続けると負担がでかいからな」
「あら、あんた。あたしのこと、心配してくれんのか」
「勘違いすんな。死なれたらうちの評判が下がるだろ」
「本当に嫌な男だよ、アンタは!」
アンナは唾を飛ばしながら吼えたが、鏡で背中に刻まれた黒い祈りを確認すると、愛おしそうにその場所を手で押さえた。オリヴィエにとってその姿は、長い航海を終えてようやく港に辿り着いた船乗りのような、どこか安堵のような表情に見えた。




