光の中へ-2
「どうした」
リカルドの声は、先ほどまでの静謐な指導の声とは打って変わって、氷のように冷たく鋭かった。
「ドメニコにガキのことがバレた。……今お前を呼んでる」
その言葉に、リカルドは忌々しげに焦燥感と苛立ちでタバコを噛んだ。
だが、コインランドリーで目をつけられていたあの一件から、この事態は覚悟していた。だが、あまりに早すぎる。
「……わかった。今からか」
「あぁ。カルラのバール、人を払って待ってる」
「用意のいいことで」
鼻で笑い、リカルドはソファーに掛けられた革ジャンをひったくるように羽織った。その背中は、先ほどオリヴィエが感じた「あの人」の影をさらに色濃く纏っている。
「リカルドさん。僕も一緒に……」
「お前がいったとこで邪魔なだけだ。そこで待ってろ」
「でも……」
食い下がるオリヴィエを、リカルドは鋭く目を細めて制止した。だが、瞳の奥、この泥沼の中にオリヴィエを引き摺り込みたくないという悲壮な決意が滲む。
「お前まで足を突っ込むな必要はねぇ。寂しいなら、その辺でマリオとでも遊んでろ」
「おい、俺かよ」とマリオが引き攣った顔で苦笑いするのを見て、オリヴィエはほんの少しだけ肩の力を抜いた。リカルドぎ冗談を言う内は、きっと大丈夫だ、と言い聞かせる。
だが、リカルドがスタジオから出ていく瞬間に見せた、一度も振り返らないその背中に、オリヴィエは言いようもない焦燥を募らせた。
◇
バールの扉を開けた時、リカルドは肌を刺すような違和感に違和感に足を止める。
いつも窓辺で新聞を読んでいた老人も、カウンターで無駄口を叩きながらグラスを拭くカルラの姿もない。不気味なほど静まり返った店内の奥、影が溜まるテーブルに、ドメニコが一人で座っていた。
リカルドは重い足取りで歩み寄り、ドメニコの目の前へ腰をおろした。
「最近、ガキに執着してるみたいだな」
唐突に投げられた低い声に、リカルドは言葉に詰まった。否定しようにも、喉の奥が砂を噛んだように渇いている。
「……執着してんのは、あいつの方だ」
「それにしては、随分手をかけてやってるみたいじゃないか」
ドメニコの燻らせるタバコの煙が、ゆっくりとリカルドの顔に這い寄り、暗い影をつくる。リカルドは何も言わず、ただ冷徹なドメニコの顔を正面から見据える。
「マリオに頼んで、コソコソ動き回ってるのはわかってる。……よそ者のお前を、保護料だけで見逃してやってんのに、今度は不法滞在のガキをこの町に招き入れるつもりか?」
リカルドは奥歯を噛み締めた。余計なことを言えば、それが命取りになりかねない。かつて自分の無力さゆえに失ったものたちの記憶が、嫌な汗となって背中を伝う。
「……俺は慈善家じゃない。だがな、町の秩序を守る義務がある。不法滞在のガキを匿ってることがバレれば、俺の顔に泥を塗ることになるんだ。最近移民も増えてるから、ピリついてんだ。……わかるよな?」
ドメニコは言葉のすべてを、紫煙とともにリカルドの顔へ吹きかけた。
沈黙がバールを支配する。お互いの出方を伺う静寂の中で、リカルドは自分の心音が激しく、重く拍動するのを感じていた。
「……何が望みだ。ガキは関係ねぇ。俺が勝手にやってることだ」
ドメニコはふっと、温度のない笑みを浮かべた。そのまま目の前のテーブルへ、数枚の書類が入った封筒を無造作に投げ置く。
「関係あるかどうかは俺が決める。お前じゃない、俺だ。……安心しろ、リカルド。俺だって未来あるガキを見殺しにするような悪魔じゃない。そのガキの「正式な名前」を用意してやる。シチリアの太陽の下を堂々と歩けるような、汚れ一つない身分証をな」
「……代償は」
低く地を這うようなリカルドの問いに、ドメニコは満足げに目を細めた。
「お前みたいな奴は、話が早くて助かるよ。……近々、メッシーナ海峡で工事が始まる。この島には、かつてないほどの巨額の金が流れ込んでくる。だが、本土の鼠どもがそれを意地汚く狙ってやがる。だからこそ、その金に俺たちは「正当な理由」をつけなきゃならん」
ドメニコは指先でタバコの灰を弾き、オリヴィエの「正式な名前」が記されているであろう書類の上に、無慈悲に落とした。
「そこで、お前だ。お前の彫り師としての名は、数年前のカターニアのコンペでも一目置かれたらしいじゃないか。大手の引き抜きも、鼻で笑って断ったとか。優勝しろとは言わない。ただ、この町の象徴として、再び表舞台に名を挙げろ。お前が脚光を浴びれば、俺たちの運営する「アート文化振興基金」の最高の隠れ蓑になる」
リカルドは、テーブルの下で静かに拳を握りしめた。
「……俺を看板にするつもりか」
「看板じゃない、光になるんだ」
ドメニコは、慈悲深い神父のような笑みを浮かべて身を乗り出した。
「光が眩しければ眩しいほど、その裏の影は誰にも見えなくなる。……ガキの命と未来、お前の針一本で買え。安い買い物だろ?」
リカルドは、ドメニコの蛇のような瞳から目を逸らすことが出来なかった。
その言葉の真意も、自分の拒絶など無意味であることも、すべて理解していた。だが、タトゥーという自らの魂を売る行為に、奥歯が軋むほど強く噛み締める。
テーブルの下で握りしめた拳。肉に食い込む爪の痛みが、今の自分に許された唯一の自由だった。
「……端から、拒否権なんてないだろ」
絞り出すようなリカルドの声に、ドメニコは満足げに立ち上がった。そして、愛犬を撫でるような手つきで、リカルドの頬を軽く二度叩いた。
「看板娘として、せいぜい華麗に踊ってくれよ」
乾いた笑い声を残し、ドメニコはバールを後にした。重い扉が閉まり、再び訪れる不気味な静寂。リカルドは、言いようのない悔しさと、それ以上に「今度こそは、何を引き換えにしても守り抜く」という悲壮な覚悟を胸に刻んだ。
リカルドは背もたれに体重を乗せ、白く、冷たい天井を仰ぎながら、ゆっくりと拳を解く。掌に残った四つの三日月形の爪跡が、新しく背負った鎖の重さを物語っていた。




