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インク アライブ  作者: おーひょい
ロザリア像の下で
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潮風とコーヒー-2

 オリヴィエは午後のカルラとの会話の後、もう一度街を散策しながら日雇いの仕事を探した。片言で必死にジェスチャーで話しかけるが、どこに行っても断られ続けた。

 夕陽が聖ロザリアの像を赤く染め、その下で子供たちがボールを蹴る笑い声が響く。ベンチに腰掛け、ぼんやりと眺めながら、「よそ者を警戒してる」というカルラの言葉を思い出す。


「どこに行っても、僕はよそ者だな……そりゃそうか、こっそり来たんだもんな」


 ハンガリー語で小さく呟くと、スケッチブックを握り締め、市場の喧騒を遠くに聞く。


 オリヴィエは、イタリアでの身分証明を持っていない、言わば「存在しない子供」として生きてきた。両親が死んだ後、孤児院に引き取られ敬虔な教父の元で育った。だが、その教父も後に死に、ソ連崩壊後の経済難で貧困に喘いだ少年の日のオリヴィエは、当時移民政策の進んでいたイタリアへと向かった。

 だが、正式なルートではなかった。大量の移民たちと共にトラックに詰め込まれ、夜中に国境を越えた。鬱蒼とした森の中、凍えながら警察のライトから逃れた夜を思い出す。

 それからの日々は、強制送還の恐怖に耐え、公共交通機関も碌に使えず、シチリアに辿り着くまで警察と移民への暴力から逃げ続けた。

 「存在しない子供」、そのことが十年の間、彼を苦しめた。正式な仕事に就けず、恩赦も逃し、彼は日雇いの仕事で毎日命を繋いだ。自分の生きる意味を、あの日の彼に会うことだけに見出して。


 再びこの地で彼に会えるかもしれないという淡い期待と、彼に会うという唯一の旅の目的を失う恐怖が混ざるが、シチリアの海のオレンジを見つめ、波の線を指でなぞる。


「……あの人に必ず会う。僕の旅の終わりは、ここじゃない、はず」


 オリヴィエは立ち上がると、決意を瞳に込め、石畳を踏み出してペンションに戻った。

 翌朝、海でスケッチを一時間ほどして、午後まで再び散策する。

 麻袋にスケッチブックと市場で買ったトマトとパンを入れ、肩に掛けて歩き出した。

 夕陽が石畳をオレンジに染め、海風が涼しく、汗ばんだ背中が冷たく感じる。路地では老婆が窓辺で編み物をし、子供たちの声や、市場の魚屋が店じまいを始める声が聞こえる。

 スケッチブックを開き、夕陽に映える海を軽く描く。鉛筆を握りしめ、石畳を歩いて再び「Bar del Sole」へ向かう。


 バールの前では夕方の賑わいが始まり、扉のガラスに灯りが反射する。オリヴィエはドアを押して中へ入ると、シチリア訛りの笑い声とグラスの音が響く。店内は午後より客が多く、テーブル席は地元民で埋まり、空いているのはカウンター席のみだった。オリヴィエは木製のスツールに腰掛け、麻袋を足元に置いた。カルラがカウンターで忙しく動き、エスプレッソを淹れながら客とシチリア語で冗談を交わしている。

 オリヴィエがカウンターに座ると、カルラが忙しい手を止めて気づく。赤いエプロンに汗が滲み、首の青いスカーフが少し乱れている。


「Oi,tu!また来たのか!」


 ハスキーな声で笑い、エスプレッソマシンの横からタバコを取り出す。

 「一杯飲む?」と聞くと、オリヴィエが「お願いします」と頷く。カルラがカップに濃いコーヒーを注ぎ、カウンターを叩く。


「昨日リカルドに伝えたよ。お前のファンが来てるって」


 と笑い、タバコに火をつける。オリヴィエの翡翠色の瞳が揺れ、カップを持つ手が一瞬止まる。


「ありがとう、カルラさん」


 エスプレッソを一口飲むが、苦味が口に広がって、喉を通らない。


「来るかはアイツの気分次第だ。頑固すぎて笑えるぜ」


 と煙を吐き、カウンターのグラスを拭く。

 抱えたスケッチブックが緊張で僅かに湿る。バールの喧騒の中、扉の鈴が鳴るのを待ちながら、震える手でカップを握った。



 リカルドはスタジオでコイルマシンを片付け、カルラの「お前のファンがいた」という言葉を思い出す。


「なんだよ、それ」


 夏の暑さに汗が滲み、黒いTシャツのインク跡が湿って濃くなっている。ポケットにタバコとライターを突っ込むと、汗で額に張り付く髪を掻き上げながらバールへと向かった。

 数日経っても、内心でオリヴィエの純粋な瞳とスケッチが頭にこびり付き、暑さとともに苛立ちが増していく。


「あいつの目、耳障りだ」


 夕陽が石畳をオレンジに染め、海風が涼しく吹く中、バールの扉を押し、鈴がチリンと鳴る。店内は客で賑わい、カウンターの奥で手を振るカルラの姿が目に入る。


「やっと来た! ほら、早く来いよ、リカルド!」


 カルラはエスプレッソマシンを叩きながら、カウンターに座る人物を指さす。リカルドはTシャツの裾を軽く引っ張り、「うるせぇな」と唸り、目を細めてタバコを口に咥える。店内には常連客が熱を持って立ち上がり、完全にはその姿が見えなかった。



 オリヴィエは鈴の音を聞いて鼓動が早まる。

 待ち望んでいたはずなのに、会えば自分の旅が終わってしまう気がして、恐怖と期待が胸を叩いて、鼓動が耳元でうるさく喚く。

 だが、ここで生きると決意を固めた夕陽の海の線をなぞり、スケッチブックを握り締めた。手が汗ばみ、握り直してはその度に紙が張り付く。


「なんだよ、またてめぇかよ」


 低く冷たい聞き覚えのある声に、オリヴィエは弾かれるように振り向いた。



 スケッチブックを膝に抱える姿を見て、リカルドは「またかよ」と呟き、ライターで火をつける。大きく吸い込んだ煙を吐き出し、目を細めてカルラを睨みつける。


「カルラ、グラッパ」


 リカルドぎぶっきらぼうに言うと、カルラはグラッパのグラスをカウンターに叩く。

 リカルドはタバコの煙を鼻から吐きながら、オリヴィエの方を見ずに空いていた隣へ座り、もう一度煙を吸い込む。


「祭りの夜、助けてくれた人、ですよね?」


 小さく聞くと、リカルドはタバコを指で摘み、耳障りな発音に顔を顰めながら「覚えてねぇ」と呟く。煙がカウンターに漂う。


「海辺でも会いました。お礼、言いたくて、僕はここまで生きてこられたって。十年前、ヴェローナで……」

「俺じゃねぇ」


 リカルドの目が一瞬鋭くなり、オリヴィエの言葉を遮り切り捨てた。タバコを灰皿に押し潰し、赤い火が消える。オリヴィエは「そう、ですか……」と言い聞かせるように呟くと、スケッチブックを握っていた手を緩めた。


「今、言葉覚えて、仕事、探してて……」


 オリヴィエはスケッチブックに目を落とし、静かに言う。鉛筆と握りしめた跡で滲んだ波を指でなぞる。リカルドは黙ったまま、タバコの残骸を指で弾いた。灰が床に散り、スケッチに映る太陽が過去を呼び起こし、耳障りな言葉と絡み合って苛立ちが胸を締める。


「お前、何企んでんだ?」


 新しくタバコを咥え、目を細めて睨みつける。


「企んでなんか……ただ、あの人に、会いたくて」


 スケッチに波の線を一本加える。鉛筆が紙を滑る音が小さく響く。

 リカルドは肩を竦めながら煙を吐き、「それだけでシチリアまで来るかよ」と疑いの目を向け、鼻で笑う。


「あの人が、僕の生きる意味。でも、ここに来れたのは、別の意味があったと思いたい……。だから、ここで生きる意味を探す、決めた……です」


 スケッチブックを膝に押し当てて目を伏せる。生きる意味を探すと言うオリヴィエに、リカルドは黙ったままタバコを強く吸い込んだ。カルラは他の常連客と冗談を交わしながら、二人の会話に耳を傾けていたが、リカルドの拒絶する態度と、威圧されるオリヴィエの前に立ち、カウンターに肘をついた。


「箒持ってうろついてるって他の連中が噂してる。掃除でもさせてみろよ、リカルド」


 リカルドはイタズラっぽく笑うカルラを睨みつけ、目を細めて再びタバコを深く吸い込んだ。故郷の名を聞き、過去の罪が喉につまり煙と一緒に吐き出す。耳障りなイタリア語を必死に話すオリヴィエの純粋さが苛立ちを掻き立てるが、スケッチの滲んだ跡が目を離せなくする。

 過去を隠し、生きる意味などとうの昔に無くした自分の前に現れた、純粋さと危うさの残る青年。

 全てから逃げ出した自分に、この青年は何を期待しているのか。

 ため息と共に煙を吐き出しながら、タバコを灰皿に強く押し潰し小さく鼻で笑った。


「朝七時にスタジオに来い。遅れたら、二度と俺の前に現れたくねぇようにしてやる」


 オリヴィエは顔を上げ、目を丸くすると、「え!?」と声を出して固まった。


「い、いいんですか……? 僕本当に、掃除しか出来なくて、でも、あの」


 リカルドはコインをカウンターに叩くように置くと、グラッパを飲み干して、何も言わずに席を立った。舌打ちして扉へ向かい、ポケットに入ったタバコの箱を静かに握り潰す。


 鈴がチリンと鳴り、扉が閉まると夕陽がカウンターに伸び、煙が薄く揺れた。

 オリヴィエはスケッチブックを膝に抱え、指で紙の角を擦る。胸の鼓動が収まらず、エスプレッソの苦味が喉に残る。リカルドの背中が扉の向こうに消え、店内の喧騒が再び耳に届くが、声が遠く感じる。


「七時……」


 と呟き、スケッチブックを開く。太陽と波が乱雑に描かれたページに目を落とし、鉛筆を握る。

 残されたタバコの煙が薄く揺れ、ヴェローナの風を思わせる。一瞬揺れたリカルドの瞳が頭を過るが、「俺じゃねぇ」と言う声が耳に残る。


「本当に……?」


 掠れた声で呟き、スケッチブックを握る力が強まる。紙の端がわずかに曲がり、夕陽がその影を長く伸ばす。

 オリヴィエはカップを手に取り、最後の一滴を飲んだ。苦味が舌に広がり、目を閉じる。


「明日行けば、リカルドさんも、あの人も、きっとわかるはずだ……」


 スケッチブックを麻袋に仕舞い、ハンガリー語で呟いて立ち上がった。夕陽がガラスに反射し、バールの喧騒が背中に響く。潮風が扉の隙間から吹き込み、彼の髪を揺らす。

 期待と困惑を胸に、海を見つめ、石畳に踏み込んで踵を鳴らした。

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