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インク アライブ  作者: おーひょい
影には影のルールがある
39/50

光の中へ-1

 スタジオでは、インクの匂いと波の音だけが静かに満ちていた。

 コインランドリーでのドメニコとの遭遇は、二人の間に拭い去れない影を落としている。だが、今はその影に飲み込まれぬよう、互いに目の前のアンナの祈りを込めるデザイン画だけを盾にして、沈黙を繋ぎ止めている。

 オリヴィエが何度目かの修正を終え、鉛筆を置いた時だった。背後からリカルドが無言で覗き込む。


「……お前の絵、芯がねぇんだよ」

「芯、ですか?」

「絵の出来は悪くない。だが、見たものをそのまま形にしても意味がねぇ」


 リカルドの口から出た「悪くない」という言葉に一瞬胸が跳ねるが、以前リカルドが言った冷たい言葉を思い出した。


「……でもリカルドさん、前に、タトゥーは、絵が消えないだけ、と……」

「確かにタトゥーはただの絵だ。だが、それ以下になれば、ただの落書きに成り下がる」


 そう、俺の左腕にある太陽のように。


 リカルドは自身の袖の下にある、重く疼く、インクで覆われた太陽のタトゥーを思い出す。意味なんてない。あるのは呪いだけ。落書きにすらなれない、ただの無機質な染み。


「……試しにこの街でも描いてこい。お前にとってのこのクソ田舎が、どう映ってんのか。形にしてみろ」

「S-sì《は、はい》!」


 オリヴィエは、初めて与えられた「外の世界を描く」という課題に、不安と高揚が混ざったような声を上げた。



 オリヴィエは街を散策し、その輪郭をスケッチブックに写していった。

 初めて兎狩りに行った遠くのエトナ山、海を渡れなかった移民の、彼らの夢見た海。そして、眩しいシチリアの陽光が石畳の上に生み出す、底知れないほど濃く巨大な「町の影」。

 いつもの岩場に腰掛け、潮風を吸い込みながら、思いを馳せて鉛筆を走らせる。


 翌朝スタジオで、オリヴィエは完成したスケッチをリカルドに見せた。

 波の上で瞬く星と、潮風にそよぐオリーブの葉。そして、中心にそえられた柔らかな太陽を囲むようにして描かれていたのは、インクが滴る傷だらけの手だった。

 紛れもなく、それは願いを生み出すリカルドの手。


「この町は、僕にとっての救い。でも、それだけじゃない。悲しいことも、嬉しいことも、全てが詰まった場所。それでも……この潮風は僕たちに等しく吹く」


 リカルドは、しばらく言葉を失ってその絵を見つめた。

 この町に潜む「影」を突きつけられると想像していた。だが、そこに描かれていたのは、インクの匂いに染まった自分の手が、何よりも尊く、美しい救いの象徴として描かれた世界だった。

 傷だらけで、かつての血の匂いの染み込んだこの「呪い」の手が、オリヴィエにはこんな風に映っているのか。

 リカルドは胸の奥で、長年凍りついた何かが、音を立てて軋んだ。


「……悪くねぇ」


 掠れた声で、リカルドは短くつぶやいた。自分の価値を、再び他人の手によって再発見させられたような、奇妙な高揚と戸惑いがリカルドを支配する。


「だが、まだ線がブレてんな。情に流されすぎ。やり直し」

「あれ?」


 案の定の突き放した言葉に、オリヴィエは肩を落とす。だが、リカルドがスケッチブックを閉じる時、その指先が微かに震えていたことに、オリヴィエは気づかなかった。



 夜の自室、オリヴィエも、この狭くも静かな生活にようやく馴染んできた。今夜の晩飯は、リカルドが手早く作ったカポナータ。くたっと煮込まれたナスの甘味が、街中を歩き回り、疲れた体に染み渡る。


「どこかで、料理覚えたですか?」

「一人で長いこと暮らしてりゃ、いやでも自炊できんだよ」


 リカルドは赤ワインを喉に流し込みながら、ぶっきらぼうに応じた。


「お前こそ、十年以上どうやって暮らしてた」

「それは……教会に行ったり、日雇いの仕事をしたり、あとは駅のホームとかで寝てました」

「よく生きてたな」


 リカルドの言葉は呆れているようでもあり、どこか感心しているようでもあった。


「何度も警察に捕まりそうだった。それに、知らない人に殴られたり、襲われたり。でも……あの人に会うために、必死に逃げた」

「そんなに大事なやつなのか。命をかけるほどに」


 リカルドの問いに、オリヴィエはスプーンの手を止め、まっすぐ見つめ返した。


「大事です。僕を、暗い場所から照らす太陽のタトゥー。それだけが、生きる意味だったから」

「……今も、そいつはお前にとって、指針になれてるのか」


 リカルドの声がわずかに低くなる。


「もちろんです。あの人を追いかけたから、リカルドさんや、マルコ、ソフィア……この町の人にも会えた。それに、願いを彫るという僕の新しい道も見えた」

「……ならそいつも、大層喜んでんじゃねぇのか」


 リカルドは自分の左腕にある「呪い」を隠すように、無意識に袖をいじった。


「そうだと、いいな」


 オリヴィエは視線を落とし、小さく祈るように呟いた。

 そのまつ毛の下に、執着を超えた純粋な敬愛が宿っている。リカルドはその光から目を逸らすよう、残りのワインを飲み干した。



 翌日も、オリヴィエは机に齧り付くようにしてアンナのデザインと向き合っていた。

 アンナの祈り、船の位置や波のうねり、ロザリアの表情。リカルドから立体で描くなら船は大きい方がいいなど技術的な助言はもらうものの、描けば描くほど、正解が遠のいていく感覚に陥っていた。


 オリヴィエは頭を抱え、何度も描き直しの後で黒ずんだ紙を見つめていた。

 リカルドは手出しはせず、ただ背後からその苦闘を見つめていたが、やがて低く掠れた声を落とす。


「お前の理想を彫るな。婆さんの願いなんだろ。余計な感情は消せ」


 リカルドはオリヴィエの肩に手を置くこともなく、淡々と、抗いようのない響きで告げる。


「すべて捨てろ。……すべて、Dimentica(忘れろ)


 オリヴィエはその言葉を聞いた瞬間、持っていた鉛筆が止まった。

 視界の色が消え失せ、世界が反転するような錯覚を覚える。

 オリヴィエにとって、死よりも深い慈悲の言葉。

 耳の奥で鳴り続けるパチパチという薪の燃える音、教父の血で染まった太陽のタトゥー、自分を見下ろした「狼みたいな目」をした青い瞳。

 目の前のリカルドの、タバコで少し掠れた低い声が、十二年前の記憶の底に沈んだ男の声の残響に、ぴたりと重なった。


「リカルドさん……今の、その、言葉……」


 オリヴィエが縋るように顔を上げ、リカルドの青い瞳を覗き込もうとしたときだった。

 静寂を切り裂くような、激しいノックがスタジオの扉を震わせる。


「リカルド! いるか、リカルド!」


 扉の向こうから聞こえるマリオの声は、いつもの快活さは微塵もなく、焦燥と、隠しきれない恐怖が入り混じっていた。

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