必要な影、願いを描く-2
翌朝も静かな朝だった。
二人のブルスケッタを食べる音だけがやけに大きく響いている。トマトの酸味もオリーブの香りも、今朝のオリヴィエの下には砂を噛むような無機質な味しかしなかった。
いつものようにリカルドは早々に食べ終え、コーヒーの最後の一滴を飲み干すと、新聞をソファーへ放った。
「今日は備品の買い出しにいく」
「お店は……?」
「お前一人に任せるわけねぇだろ。今日は店仕舞いの札を掛けてある。大人しく練習でもしてろ。ただし、マシンは使うなよ」
リカルドは新しいタバコの箱に指先で弾き開け、火をつけず一本を咥えたまま、テーブルの鍵をひったくるように手に取る。そのまま振り向きもせずに、リカルドは裏口へと向かった。
残されたオリヴィエは、食べかけのブルスケッタを手に、重苦しい静寂の中に放置された。しばらくして、バイクの重低音が響き、潮風に溶けるように遠くへ行ってしまった。
一人になると、昨夜のコインランドリーでのやり取りが頭に反芻する。
──影に飲み込まれないよう、せいぜい祈っておくんだな。
あの男、ドメニコの言葉は、自分たちのささやかな生活も、針を動かす指先も、この先の不確かな未来さえも把握しているという絶対的な支配に聞こえてならない。
二度と近付くなというリカルドの忠告を胸に抱えながら、オリヴィエは冷え切ったブルスケッタを無理矢理喉の奥へ押し込んだ。
開け放たれた窓から吹き込む十月の潮風が、オリヴィエの背中を冷たく撫でていった。
◇
オリヴィエは二人分の食器を再び割らないよう慎重に片付け、作業台に向かった。リカルドがいつも使用している椅子は、まだ彼の残り香がするようで、少しだけ背筋が伸びる。
机の上には小さなインクカップがあり、半分ほどの黒いインクが波紋を作っていた。オリヴィエは簡素な木の針を手に取り、時々インクに浸しながら、人工肌に写したステンシルの上をなぞり始めた。
トン、トンと、小気味良いリズミカルな音が、窓から入り込む波音と混ざり合う。
「軽く……三十度。深く刺しすぎない……」
静寂の中で、自分の独り言だけがやけに鮮明に響く。
リカルドの無駄のない手際を繰り返し再生し、震える手でシンプルな円を描いていった。
その時、スタジオの扉がバタン!と勢いよく開け放たれた。その衝撃に針を持つ手が跳ねた。小さな針音と波の音が掻き消されるほどの足音とともに、その扉を開けた人物はズカズカとスタジオに侵入してきた。
「なんだい。あの無愛想な男はいないのか?」
オリヴィエが慌てて声の方を向くと、そこにはトマト売りのマリアが立っていた。エプロンの裾には相変わらず赤い汁が滲んでいる。以前、リカルドにトマトを投げていた時の険しい皺を刻んだまま、白髪を振り乱してスタジオ内を見渡している。
「きょ、今日は、休みで……リカルドさん、いない。表に貼り紙も……」
「関係ないね。あたしにとって扉は開けるためにあるもんさ」
「えぇ……」
圧倒的な理屈にオリヴィエは困惑しながら、アンナを椅子に座らせた。
アンナはスタジオに自分とオリヴィエしかいないことに気付くと、ようやく眉間の力を抜いた。トマトを一つおまけするときのような、不器用な穏やかさに戻っている。
「アンナおばあちゃん、今日は一体? まさか、タトゥーを彫るとか……?」
「その通り。あたしの背中にでけぇロザリア様を彫ってほしいのさ!」
耳が遠いのか、それともここを市場の真ん中だと勘違いしているのか。アンナは「マンマミーヤ」と笑い飛ばすような、震えるほど大きなシチリア語で叫んだ。
「背中に? でも、痛いんじゃ」
「だからこそだ。痛みも受け入れないといけないことがあるのさ。とにかく! あの文句ばかりの頑固男を早く連れて来な!」
「だから、今いなくて……ちょっと、落ち着いて……!」
オリヴィエはあわあわと手を振りながら、立ちあがろうとするとアンナをどうにか落ち着かせる。何度も椅子から立ち上がる彼女の肩を必死になって押し戻した。
アンナは、嵐の後の海のように静かに語り出した。
若くして海に消えた夫のこと。街を出て、遠い異郷で所帯を持った息子のこと。夫の肩には、荒れ狂う海から家族を守るための古びたロザリア様のタトゥーがあったこと。
「あの人は、最期まで彫り物を誇りにしていたよ。……今では、あの人の守った家族に、孫まで産まれた。あたしが死ぬ前に、家族を守ってくれた夫と、新しい命の未来を、この背中のロザリア様に預けたいのさ」
オリヴィエはアンナの節榑だった手を見つめながら、その思いを静かに聞いた。
タトゥーはただの模様ではない。誰かにとっての祈りであり、生きるための覚悟なのだ。ドメニコに言われた「お前に何が出来る?」という言葉が、アンナの言葉によって静かに上書きされていく。
「僕も……あるタトゥーを背負った人に救われて、ここまで生きてこられた。今、ここにいるのは、その人のおかげ」
震える声で、オリヴィエは自身の胸の内を明かした。
「故郷では、家族もいなくて。ずっと一人だった。でも、その人が僕の希望になってくれた。……そのタトゥーが僕の希望、なら、今度は僕も、誰かの希望になれるなら、願いを形にしたい」
オリヴィエはまっすぐにアンナの目を見つめ、決意を込めて言った。
「だから、ロザリア様のデザイン、僕に描かせて、もらえませんか。まだ、彫ることは出来ない。けど、デザインなら、形に出来る」
アンナは少し驚いたように目を見開いたが、やがて孫を見つめるような慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「やっぱり、あんたは優しいね。あんな無愛想な男の元で働かせておくのが、勿体無いくらいだよ」
アンナはトマトの匂いのする腕で、オリヴィエをそっと抱きしめた。
「あんたも、辛い道を歩いたんだね。でもここで踏ん張るのはあんたの意地だ。いつかそれが、誰かにとって……私にとっても、希望になるさ」
オリヴィエはアンナの皺だらけの腕をそっと抱き返し、トマトの匂いのする温もりに顔を埋めた。
「……Grazzi」
◇
オリヴィエがアンナの隣で必死に鉛筆を動かしていると、表で重低音が止まった。
扉が開き、カターニアの埃と大きな荷物を手にしたリカルドが戻ってきた。リカルドは、涙の跡を残しながらデザインに没頭するオリヴィエと、その横で我が物顔で座る老婆を一瞥し、あからさまに怪訝な顔を向けた。
「……なんでアンナ婆さんがここにいる?」
「あの、実は……」
オリヴィエがしどろもどろに事情を説明すると、リカルドは自身の顔の前で窄ませた指先を激しく振り、しかし黙ったまま「面倒な客引き受けやがって」とオリヴィエを鋭く睨みつけた。
ドメニコとオリヴィエの接触の一件で、焦燥した思いを吐き出すようにため息をつき、抱えた荷物を床に置いてアンナへ向き直った。
「本気か、婆さん? 背中全体なんて、完成する前に寿命が来ちまうぞ」
鼻で笑うリカルドに対し、アンナは負けじとエプロンを叩いた。
「あんたみたいな文句ばかりのガサツな男に彫ってもらうのは癪だけどね、仕方ない。家族の想いを乗せたロザリア様を背に寿命を迎えるなら、それも本望だよ!」
二人の間にしばらく火花が散る。リカルドは咥えタバコのまま、アンナの決意を測るように見つめていたが、灰が落ちるのと同時に短く吐き捨てた。
「……痛くても手加減しねぇ、覚悟しとけよ婆さん」
「上等だよ。あんたの針なんて、蜂に刺されたようなもんさ!」
アンナは言い放つと、数十ユーロの紙幣を机に叩きつけ、嵐のように去っていった。
リカルドはテーブルの上の到底足りないはずの紙幣を一瞥し、舌打ちをする。
「……おい、全然足りねぇぞ、あのクソババア」
文句を言いながらも、くしゃくしゃの紙幣を無造作にポケットへねじ込んだ。そして、その様子をあわあわと見つめていたオリヴィエの膝に置かれた、スケッチブックへと視線を落とした。
「すみません。でも、アンナおばあちゃんの家族の話聞いたら……どうしても、描いてあげたくて……」
俯くオリヴィエの言葉を鼻で笑って受け流した。だが、リカルドの手は迷いなく、オリヴィエの膝の上に広がったスケッチブックを掴んだ。
「引き受けたもんは仕方ねぇ。どんなデザインだ?」
リカルドの鋭い視線が、紙の上に並んだロザリアと船、そして波間に揺れる星と太陽の意匠をなぞる。一瞬、リカルドの目が止まった。そこには技術を超えた、描いたものの「祈り」が込められていたからだ。
そして、リカルドは乱暴に髪を掻き回すと、空いている椅子を引き寄せて腰掛けた。
「いいか。ここ、船のラインが甘い。それから、ロザリアの影、これはもっと影を深く落とせ。あの婆さんの人生は、お前の描くような明るいだけのものじゃねぇはずだろ」
細かな指示が飛び、オリヴィエは一言も漏らさぬよう、リカルドの指差す場所を必死に書き留めた。
「お前が引き受けたんだ。婆さんの背中にはお前のデザインを彫る。だが半端なもん描いたら、俺の顔に泥塗るってこと、忘れんなよ」
「……はい! アンナおばあちゃんの祈りのためにも、絶対に手は抜きません」
それから、数時間は波の音さえ聞こえなくなるほどの集中に支配された。
数日間、オリヴィエは掃除や備品の整理をこなしながら、時折、客の肌に針を滑らせるリカルドの横顔を覗き見た。リカルドの指先が作るリズム、インクを拭いとる迷いのない動作。
オリヴィエは空中で自分の指を動かし、その軌跡をなぞった。




