必要な影、願いを描く-1
その日の夜からリカルドとの共同生活が始まった。二週間限りの仮住まいのつもりが、終わりの見えない同居へと変わった。その事実に、オリヴィエは足元が浮つくような困惑を抱えていた。
両親を亡くして以来、孤児院で共に過ごしたのは自分と同年代の子供たちばかりだった。大人、自分も充分大人と言われる年齢ではあるが、他人の、それもリカルドのような複雑な影を背負った男との生活に、どう振る舞えば正解なのかわからずにいた。
始めはオリヴィエも役に立とうと張り切って食事の準備を手伝おうとしたが、リカルドには強く制止された。パプリカパウダーの件で、よほど彼の信頼を損ねたのだろう。
それでも何かリカルドのために出来ることをしなければという焦りは、見事に空回った。皿を割ったり、洗剤の量を間違えて洗濯機の周りを泡だらけにしたり、湯を沸かせば噴きこぼす。そのたびにリカルドは頭を抱え「……座ってろ」とだけ言われた。
そうして今、オリヴィエは深夜のコインランドリーにいた。人工的な蛍光灯が、白く冷たい室内を照らし、ゴウンゴウンと規則正しく回り続ける洗濯物を眺めている。
丸い窓の向こうで、白波のように打ち寄せながら、荒波にリカルドの黒いTシャツとオリヴィエの薄汚れた服が溶け合っていく。
「あぁ〜……何かしないとと思ってるのに……何も上手くいかない……」
オリヴィエもまた、リカルドがよくやるように頭を抱えて項垂れた。
その時、小さなコインランドリーの扉の開く音がした。足音はオリヴィエを通り過ぎ、空いている洗濯機の中へ白いワイシャツを投げ入れた。
ピッという機械音ののち、足音はオリヴィエの腰掛けの隣に座った。直後にライターをカチンと開ける音が無機質に響き、タバコの苦い香りが鼻を刺した。
「……お前、この町を彷徨いてるガキだろ?」
男の声にオリヴィエは顔を上げた。四十代くらいだろうか。Tシャツに紺のズボン、ラフな装いだが、着ている服には不自然なほどシワ一つもない。吐き出された煙は彼の顔を覆い、蛍光灯の灯りが男の目を暗く光らせる。オリヴィエは男の顔に見覚えはなかった。初めて見る顔だ。
「そうです。……今は、リカルドさんのところに」
「へぇ」とだけ返事をして、男はタバコを指で弾いた。黄ばんだタイルの上に、灰が散っていく。
「……なんで、お前はシチリアにいるんだ? 何故シチリアを選んだ?」
「……それは」
突然の問いにオリヴィエは言葉が出なかった。問われた動揺よりも、なぜそんなことを聞くのか?と頭に疑問符を浮かばせる。だが、チラリとオリヴィエを見た男の目が、こちらを射抜くようで、隙間風が背中を冷たくさせる。
「この町が、好きだから。それに、海も、人も、僕を包んでくれて、ここにいてもいいと、肯定してくれる……ような気がする」
男は煙を深く吐き出し、ただ黙って横目で見つめた。オリヴィエの言葉を待っているかのように。
「最初は、人を探してここにきた。でも今は、僕の意思でここにいる。いろんな人に迷惑をかけた……だからこそ、ここで、何か恩返ししたいと、思ってるんです」
男はオリヴィエの言葉を聞くと、ため息のように煙を吐き出した。
「恩返し? お前に何ができる?」
「……まだ、わからないけど……」
「わからないのにここに残って、そいつに迷惑を掛け続けるのか」
「それは……今は確かに、リカルドさんがいないと、何もできない……それでも、彼の背負っているもの、少しでも軽くしたいんだ」
漂ってくる白い煙は、オリヴィエを嘲笑うかのようにまとわりついた。苦い香りが喉に絡みついて、言葉を奥に押し込める。
「……甘い見通しだな。それに、この町はお前が思っているよりもずっと薄汚い。いずれはお前も、そいつも、飲み込むかもしれない。それでも、ここに残るのか」
「それでもいい。その影も、街のみんなや、リカルドさんを太陽で照らすからできるもの。光が光であるために……必要な影、なんだと思う」
「必要な影、ね」
男は鼻で笑い、最後のひと吸いを深く肺に溜め込んだ。
「甘いな。なら、その影に飲み込まれないよう、せいぜい祈っておくんだな」
男は不穏な言葉を残し、その場を後にした。遠ざかっていくその足音は、あの日スタジオに来た、何者かの威圧的な足音に聞こえてならなかった。
◇
男はコインランドリーの白い光を背に、街灯が微かに石畳を照らす闇の中へと溶け込んでいった。
深夜の海辺の町は、町全体が深い眠りについたように静まり返っている。男の足音だけが、町の中で異様に響き渡っていた。
「甘いガキだ。決意だけは一丁前の」
男は鼻で笑い、再びライターの蓋を指で押し開けた。石畳の先、闇の中に二人の男が直立しているのを見つけ、紫煙を深く吸い込む。
「仰々しく出迎えか」
「こんな田舎でも、どこに鼠がいるかわからないですから」
二人のうち一人が、手に持ったコートを男の肩に恭しく掛けた。シワの一つも、埃の一つもない、闇に溶けるほど深い黒のカシミアコート。それが彼の日常を払い、夜の顔を露わにする。
「まるでマフィアのボスみたいじゃねぇか」
「みたいじゃないだろ、ドメニコ」
コートを掛けた男の隣で、注意深く声をかける男に、ドメニコと呼ばれた男は乾いた声で笑った。
「そういえば、マリオがコソコソしてる件、どうする」
「あぁ、それはもうどうでもいい」
ドメニコは心底興味なさそうに吐き捨てると、短くなったタバコを石畳に捨て、足底で執拗に踏み潰した。
「つまらねぇガキのお守りだった。ヴェローナを逃げた鼠が、足元で必死に噛みつこうと牙を剥いてるだけだ」
足元でぐしゃぐしゃに潰れたタバコの残骸を、まるで道端に転がる動物の死骸を見るように、冷めた温度で見つめた。
「それより、本土のやつが嗅ぎ回ってるのはどうなった?」
「まだアドリアーノが調べてる。なかなか尻尾を掴めねぇらしい。けど、確実に海峡工事の資金洗浄で動くだろう」
「……血の誓いに、土足で踏み込むつもりか」
ドメニコは遠く、漆黒の海に浮かぶエトナ山の向こうを見つめる。その視線は、カターニアを越え、遠くメッシーナ海峡の向こう側──イタリア本土を鋭く見据える。
「そうだ。海峡工事の件、あの鼠に少し踊ってもらおうか」




