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インク アライブ  作者: おーひょい
アディジェ川の畔
30/42

あぁ、太陽よ昇れ


「俺とお前だけで、永遠に地獄にいようぜ」


 その言葉に、胃の底から迫り上がるような吐き気を催した。

 エレナの命も、まだ見ぬ子供の未来も、夢見た静かな朝も、全てはこいつの、反吐が出るほど身勝手な嫉妬の餌食となった。


「……クソッタレだ」


 絞り出した声が、血の匂いの充満する部屋に響く。


「……俺は本気で、お前みたいになりたかったんだ。誰にも縛られず、孤独すらも笑い飛ばす、自由な獣に」


 俺はナイフを握り直し、一歩、また一歩とハージムへと歩み寄る。


「だが、お前が欲しかったのは相棒じゃない。てめぇの欠落を埋めるための、意思のない人形だったんだな」


 ハージムは、まるで恋人から愛の告白を聞くような恍惚とした表情で俺を見つめている。灰色の瞳が、歪んだ歓喜に濡れた。


「俺に「自由」を教えたくせに、本当は俺が「自由」になることを恐れたんだろ。だから、俺が愛したものを、未来を、てめぇが粉々に壊しやがった!」


 ハージムはゆっくりと両手を広げた。無防備な胸元を晒し、聖者のような、死神のような笑みを浮かべる。


「そうだ。お前をあの地獄から引き上げたのは、いつか一緒に、もっと深い地獄へ落ちるためだ」


 奴はその身を差し出すよう、自らナイフの先へ近付いた。


「殺せよ、リカルド。お前のその手で、一生消えない「人殺し」の刻印を魂に刻め。そうすればお前は、死ぬまで俺を思い出す。死んでも俺からは逃げられない」


 奴の喉笛が、いざなうように動いた。


「殺して「俺たち」を完成させろ。……永遠に俺のものになれ」


 俺は叫んだ。ナイフを振り上げ、だが奴の言葉への抵抗か、それとも情か、どうしても心臓は貫けなかった。刃はわずかに逸れ、奴の鎖骨の辺りを深く裂いた。

 吹き出した熱い血が俺の顔を汚すが、それでもハージムは、至福の時を迎えたような歪な笑顔を貼り付けたまま膝をついた。


「……負けず嫌いめ。だが、これで……お前は一生、俺から逃れられない」


 その瞬間、扉が開き、アルトゥーロの部下たちが雪崩れ込んできた。

 ハージムは口端から血を流しながら、振り返り、俺を指さして叫んだ。


「こいつが裏切った! 金も、女も、仲間も殺し、「相棒」の俺さえも殺そうとした!」


 もはや俺には抵抗すら出来なかった。

 呆然とする俺は男たちに殴られ、力なく引きずられていく。その最中、肩を押さえるハージムが俺を見て笑った。


「全部、お前のせいだ」



 廃倉庫の中、椅子に縛りつけられる紐が手首に食い込む。冷たい夜風が頬に当たり、殴られた傷に染みる。どれほど殴られたか、もう覚えていない。欠けた奥歯が、食い縛るたび肉に食い込んで鉄の味がした。


「金はどこにある」

「誰に情報を売った」


 質問はもはや意味をなさない。俺が答えようが答えまいが殴られる。

 頬に当たる拳も、流れていく血も、悲しみも、怒りも、何も感じない。全てを失った。俺の心はもうここにはない。

 あのヴェローナの焼けた石畳を、白いワンピースを揺らして歩く彼女の後を追いかけていた。


 割れた窓の隙間から、遠く地響きのような歓声が聞こえる。

 そういえば、今日はポルトガル戦だ。国中の人間が、自分たちの勝利を信じて熱狂している。

 俺もその中の一人、勝利を信じ、彼女と見るはずだった。


──遠い海へ行こう、この子と三人で。


 彼女の声が、歓声の中に紛れて小さく聞こえた気がした。彼女の柔らかな幻聴に、俺は鼻で笑った。


「もう、俺にそんな気力はねぇよ」


──あなたの描く優しい絵が好き。

 

 俺は彼女の幻聴に耳を傾け、黙ったまま俯いた。

 彼女の声、デイジーの甘い香り、インクの無機質な匂いとコーヒー。コイルマシンの低い唸り声が、頭の中で響いた。


 そうだ。俺にはまだ、やるべきことがある。

 彼女の好きな絵を、彼女の好きな海で。

 俺の選択は、まだ間違えにはならないだろうか。


 俺は監視の目を盗み、縛られていた縄を力任せに引きちぎって抜け出した。

 監視は俺の姿がないことに気付き、背後から叫び声が聞こえる。直後に銃声がして、銃弾が俺の横を掠めた。


裏切り者(トラディトーレ)! 止まれ!」

「クソ喰らえだ!」


 俺は必死になってアディジェ川沿いに走った。街中を目指し、人混みに紛れ追っ手を躱すつもりだった。通い慣れた路地を左右に抜け、広場へと向かう。アレーナの近くに差し掛かった時、歓声が一際大きく上がった。


Campione(王者だ!)! Campione(王者だ!)!」


 イタリアは勝ったのだ。

 本出場への切符を掴んだ歓喜が、街を緑、白、赤のトリコローレで覆い尽くす。

 街中に溢れる人々は、誰もが隣の人間と抱き合っている。

 こんなおめでたい日に、泥と血に塗れた俺が横を通り過ぎたところで、誰も見向きもしない。靴の裏についた血が石畳を汚すが、すぐにトリコローレが上塗りしていく。


 アレーナ近くのバール、エレナが行きたがった場所で思わず足が止まった。イタリアの勝利を祝うブラウン管の前、青いユニフォームを着たカップルがキスをしていた。


──青いユニフォームを着て、二人で応援するの。約束だよ。


 エレナの声が、若者たちの放つロケット花火の破裂音に掻き消される。

 ヴェローナに俺の居場所はない。エレナとの思い出も、俺の選択出来なかった未来も。

 俺は彼女の愛した「優しい絵」を描く右手をポケットに隠し、人混みを逆走した。

 目指すは南。彼女と夢見た、遠い海の見える場所、シチリア。

 そこに救いはない。あるのは一生消えない太陽のタトゥーと、果たせなかった約束の残骸だけ。

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