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インク アライブ  作者: おーひょい
ロザリア像の下で
3/34

潮風とコーヒー-1

 早朝の海、昨日と同じ岩場でオリヴィエは海を眺めていた。あの日のタトゥーを思い出しながらスケッチに没頭するうち、風が髪を乱し、汗が首筋を伝う。波の音に耳を傾け、一時間ほど描き、ページを閉じた。

 オリヴィエは「もっとシチリアを知りたい」と街へ散策に出る決意を固める。麻袋を肩に掛け、海辺の砂に足跡を残す。


 オリヴィエは市場の喧騒の中、パンを求めて歩き出す。新鮮な野菜の匂いと魚の生臭い匂いが混じっている。香ばしいパンの焼けた匂いに引き寄せられるように、パン屋の前で立ち止まった。


「pànパン、お願いします」


 だが、店主の老人は訛りの混ざった言葉に顔を顰める。


Paniパーニのことか?! どこの出身だ、ガキ?!」


 怒鳴るように答えると、オリヴィエへパンを放り投げた。両手で受け取りながらも、


「子供の頃、ヴェローナで……」


 たどたどしく答えれば、店主の老人は「あぁ、なるほどね」と笑って手を振った。


「ここに住んでる奴で、Panなんて言ってんのは観光客ぐらいだぜ。今度からはPaniって言えよ」


 老人はオリヴィエの手から一ユーロを奪うと、笑って肩を叩いた。

 オリヴィエは、手に持ったパンを齧りながら市場で聞き込みを続ける。立ち寄ったトマト売りの老婆にも発音を笑われた。トマトを受け取りながら、太陽のタトゥーの男を知らないかと聞き込む。


「タトゥーならあの頑固野郎のことだろ」


 老婆の指さした先に目を向けると、日に焼けた金髪の男が人混みの中に消えていった。


「あいつ、トマト買う時いつも文句しか言わねぇのさ」


 オリヴィエは老婆の男の愚痴を背中に聴きながら、海辺で再開した彼だ、と鼓動が高鳴る。追いかけたい衝動に駆られ、スケッチブックを握り締める。オリヴィエは彼が消えた人混みを見つめながら急いで一ユーロを渡すと、老婆にトマトを押し付けられた。


「あれ? 僕、一ユーロしか……」

「最近ずっと彷徨いてるだろ。孫と同じくらいの奴を見ると、ついオマケしたくなるだけさ」


 ずっと孤独に路上生活を送っていたオリヴィエに、老婆の優しさが柔らかく胸を温めた。オリヴィエが「グラッツェ」と言うと、


「ここじゃ"グラッツィ"って言うんだよ」


 と老婆はウインクをして見せ、オリヴィエは瞳を潤ませてトマトを二つ胸に抱え、軽く会釈をしてその場を後にした。

 人混みを掻き分け、彼の消えた場所へ向かう。昼間の喧騒や呼び声が響く中を進むが、人並みを超えた先に、既にその姿は消えていた。

 掴みかけた確信に肩を落とし、オリヴィエは立ち尽くす。シチリア訛りと魚の生臭い匂いが混じり合う市場の喧騒が遠くに聞こえる。


「……助けてくれた人、あの人が……?」


 呟いた言葉は、シチリアの太陽の熱に溶け、彼の姿と共に消えていった。

 そのままトマトとパンを入れた麻袋を肩に街を歩きだし、陽射しと文化、言葉の違いに疲労が溜まる。

 目を細め、抜けるような青空に反射する建物を見上げた。石畳に陽射しが照り、汗で視界が滲む中、路地裏のバール「Bar del Sole」の看板が目に入った。木製のドアに錆びた太陽の飾りが揺れ、窓からコーヒーの香りが漂っている。

 喉の乾きを刺激して、足が自然と赴いてオリヴィエは扉を押した。


 店内は狭く、カウンターには古いエスプレッソマシンが置かれ、壁にサンタ・ロザリアの絵と古い写真が並ぶ。

 オリヴィエは端のテーブルに麻袋を置き、「ウン・エスプレッソ、ぺルファボーレ」(エスプレッソ、お願いします)と注文した。短い黒髪に赤いエプロンを巻き、首に青いスカーフを巻いた四十代ぐらいの店主の女が「すぐ淹れるよ」と言い、エスプレッソマシンにポルタフィルターを取り付けた。直ぐにマシンの低い唸り声が響き、香ばしい匂いが漂う。白いカップに濃いコーヒーが滴っていく。彼女は注ぐ間、左手でリズミカルにタバコを叩き、カウンターに肘をつく。


「はいよ」


 オリヴィエはエスプレッソを受け取ると、テーブルに座った。熱いカップを指先でそっと持ち、スプーンで泡を掬って飲むと、苦味が舌に広がる。

 ホッと一息をつくと、麻袋からスケッチブックと2Bの鉛筆を取り出し、エスプレッソマシンの丸いノブ、店主のタバコを持つ手を軽く描き始めた。鉛筆の音が、バールのざわめきに溶け込んでいく。


 店主はカウンターでグラスを拭き、タバコをくわえてスケッチに目を落とすオリヴィエの様子を見つめる。

 薄金色の髪と麻袋、常連たちが「変な喋りのガキがスケッチブック持ってうろついてる」と笑っていたのを思い出す。タバコを灰皿に置き、エプロンを叩いて近づく。


「お前、初めて見る顔だな。何描いてるんだ?」


 少しハスキーな声で話しかけ、彼女はスケッチブックを覗いた。オリヴィエは「えっ?」と驚きつつ、少し縮こまり、チラと横目に見てスケッチを膝に下ろす。


「スケッチが趣味で……店の中、素敵だったから」

「ここのボロマシンまで描くなんて物好きだな。お前、噂になってんだよ。片言の変な奴がスケッチブック持ってうろついてるってさ」


 彼女は笑い、汗で濡れた赤いエプロンを叩いた。椅子を引き寄せて座ると、スカーフを首から外してテーブルに置く。コーヒーの焦げ臭い匂いが漂い、窓から市場の魚の臭いが混じってくる。「噂になってる」という言葉にオリヴィエは少し動揺し、スケッチブックの端を握りしめる。


「私はカルラ。あんた名前は?」

「オリヴィエです。……ヴェローナから、人を探しに」


 オリヴィエは一瞬躊躇ったが、故郷の名を隠し、目を伏せてカップを持ち上げて笑う。


「珍しい名前、この辺じゃないね。誰を探してるんだ?」


 カルラは興味を含んだ目で見つめると、オリヴィエは窓からの波音に耳を傾け、窓際で揺れる太陽の飾りを見遣る。ヴェローナの太陽を重ね、市場のトマトやマリアの笑顔を描いたページをなぞっていく。


「太陽のタトゥーの人。昔、助けてくれた……」


 カルラはタバコに火をつけて煙を強く吸い込む。灰皿に叩く音がリズミカルに響く。


「別にタトゥーのある奴は珍しくないが、ヴェネト訛りはリカルドくらいしか知らないな。……そいつが助けたなんて、信じられないけど」

「知って、ますか?」

「知ってるも何も、よく酒飲みにここへ来てるよ。他の連中と大喧嘩して騒いでるような奴だ。アイツのせいでいくつグラスを買い足したか……」


 肩を竦めて見せ、カルラは呆れたように笑った。


「そうなんですか。でも市場以外の人、わからないって」

「ここは田舎だ。未だによそ者ってだけで警戒する奴も多いのさ。その癖、噂が回るのだけは速ぇ。お前も、あんまり目立ちすぎないようにしろよ。……もう噂になっちまってるけど」


 オリヴィエは「よそ者」という言葉に一瞬目を伏せるが、先程のカルラの言葉に淡い期待が胸を締め、翡翠色の瞳を上げて見つめる。


「ここなら、リカルドさん、会えますか?」


「さぁな、気まぐれだから。お前は奴に会ってどうするつもりなんだ?」


 カルラはオリヴィエの執着への関心に、多少の疑念を混ぜながら更に質問を投げかける。オリヴィエは目を伏せ、スケッチブックに視線を落とす。


「……わからない。けど、スケッチを見せたい。あの人が、僕をここに、連れてきてくれた。僕の生きる意味。僕が生きてきた証、このスケッチしかない……から」


 泥で汚れ、所々破れたスケッチブックの表紙にオリヴィエの執念と苦労を伺わせる。カルラはタバコを深く吸い込むと、指で数回灰を弾いた。


「あいつにそんな熱心なファンがいるなんてな。冷てぇ野郎だけど、悪い奴じゃない。シチリアにいるなら必ず会えるさ」


 カルラはウィンクをして優しく微笑むと、灰色の煙を吐き出す。

 乱暴な物言いの中にある優しさに、微かに胸が温かくなり、オリヴィエは「グラッツィ」と微笑んでカルラの瞳を見つめた。


「あ、あいつに会ったらツケを払えって言っとけよ」


 カルラは軽い冗談を言って手を挙げて立ち上ると、カウンターへと戻っていった。

 オリヴィエは空のカップを見つめる。端が折れて、影が伸びるスケッチブックの表紙にそっと触れた。


 不器用ながらも、数日間の市場での交流、カルラの言葉と人々の優しさに触れ、オリヴィエは「ここで生きる」決意を固めた。

 麻袋を肩に掛け、バールを後にする。外では、午後の陽射しが石畳を照らし、遠くで子供の笑い声が響く。


「まずは言葉を覚えて、仕事を探さないと」


 スケッチブックを握り、決意と淡い期待を胸に街へ歩き出した。

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