誰も知らない-2
ヴェローナへ戻る道中の記憶はない。
気付けば俺は、裏口からエレナの部屋へ駆け込んでいた。ノックする余裕はない。湿った手でドアノブを回すと鍵は開いていた。心臓が耳元でうるさく喚き、俺は初めて神に祈った。
部屋には、残酷なほど鮮やかな西陽が差し込んでいた。
ベッドの傍らには、彼女が眠るように蹲っていた。お腹の子を守るように丸まった背中。眩しかった白いワンピースは、血を吸って赤黒く変色している。
彼女の好きなデイジーと、鉄錆の匂い。
俺の脳は理解を拒絶した。現実逃避のように場違いな思考を巡らせる。
(今度の夕食は何を食べようか。彼女の好きなポレンタを頼んで、奮発してアマローネを開けよう。彼女の好きなあの店へ行けばいい。それで……)
震える手で彼女の体を掴み、優しく抱きしめた。
その瞬間、全てが崩壊した。
「すまない……エレナ……俺が全て……」
俺のせいだ。
俺が彼女を見つけなければ、俺が彼女を愛さなければ。俺があの男を「相棒」と信じなければ。
彼女は今頃、バールのカウンターでエプロンを叩き、客と冗談を交わして幸せに暮らしていたはずだ。
真っ赤に染まった白いワンピースを握り、強く抱きしめ、何度も謝った。まだ体は微かに体温を残していた。その時、抱きしめた彼女の腹から、ぽこっと、胎動を感じた気がした。
二人分の命を抱え、俺は彼女の首元に顔を埋め、声を殺して泣いた。
「酷い面だな、リカルド」
低く、聞き覚えのある冷たい声。
振り返ると、部屋の入り口に「アンドレイ」が立っていた。逆光で顔は見えなかったが、その冷たい灰色の目だけが光って見えた。
奴はポケットから小さなレコーダーを取り出し、指でつまんで子供が玩具を自慢するように揺らして見せた。
そして、俺の反応を楽しむように再生ボタンを押した。
──二人で、遠い海へ行こう。
──何にも縛られない場所へ。
エレナと俺の声。
磁気テープが、俺たちの誓いを、酷く掠れた無機質な音で吐き出す。
「全部聞いてた」
奴は屈み、俺と目線を合わせると微笑んだ。奴の指が、エレナの血で汚れた俺の頬を愛撫するように優しくなぞる。
「金庫の鍵は二つある。お前が管理してると思ってた金、少しずつ抜いてた。合わせて五十億リラ。アルトゥーロには、お前が持ち逃げしたと伝えてある」
「最初から、信頼なんてしてなかったのかよ」
俺はナイフを握り、アンドレイを睨みつけた。
「違う、逆だ」
アンドレイの手が、突如として俺の首を締め上げるように掴んだ。
「俺はお前が、俺の隣で死ぬまでそばにいてくれれば、地獄を知るその目が、俺だけを写してくれればそれで……! なのに、お前はこの女を選んだ」
アンドレイは、動かなくなったエレナの腹を愛しむようにそっと手を置いた。
「俺が与えてやった「自由」だ。存分に味わえよ、相棒」
奴は俺の左腕を掴み、あの日自分で彫り上げた「太陽のタトゥー」を、親指の腹で力強く押し潰した。
「……あの日、何で俺を助けた」
俺は奴の手を振り解き、ナイフを握って立ち上がると、あの日と同じ質問を投げかけた。
アンドレイは満面の笑みを浮かべた。剥き出しの歯が、夕陽に照らされて白く光る。
「人はいつか壊れる。だがお前は壊れなかった。俺と同じ、地獄の匂いがした。だから、俺の「飼い犬」として、永遠に鎖を繋いでおけると思ったのさ」
立ち尽くす俺へ一歩、また一歩と近付く。
「俺だけの飼い犬だったのに、お前は自分で鎖を外しちまった」
奴の目の奥、戦場で生き抜いた光のない目が、俺の碧眼を射抜くように囁いた。
「なぁ、リカルド……お前もようやく、俺と同じになったな」
◇
ハージムの瞳の奥には、地獄の原風景があった。
一九七五年、レバノンのベイルート、「中東のパリ」とも呼ばれた美しい都だったが、ハージムが五歳の時に内戦が勃発した。庭で遊ぶ平和な家族を泥濘へと変えた。郊外に住むハージム一家は内戦の影響を受け、難民キャンプで生活することとなる。食糧は少なく、遠くから爆発音と銃声が響く毎日。
やがて内戦は激化し、ある日、過激化した民兵がハージム達のいる難民キャンプを襲撃した。十二歳の時だった。
目の前で母親と妹は殺され、道端を飾る血の花のように並べた遺体の一つにされた。
ハージム自身は、下水道で隠れて生き延びたが、三日間死体と腐臭の中で「助けて」と泣き叫ぶ弟の声を聞き続けた。少年兵の怒号と弟の悲鳴、ハージムは唇を噛み締め、血が滴り落ちるのも構わず、不快な臭いの中静かに涙を流して耳を澄ました。
やがて這い出た先、遺体の中から血塗れのライフルを手に取り、背を向けるファランジュの少年を撃ち殺した。復讐のため、弾いた引き金はあまりにも軽く、「自由」への祝砲に聞こえた。
邪魔するものはいなくなった。
その瞬間、初めて「人を殺すと楽になる」と知った。
それから九年。
逃げ延びた先のイタリアで、殺しと麻薬に明け暮れ、心は完全に凍りついていた。
もう誰も信じられない。誰も触れられない。触れたら壊れる。自分も、相手も。
そんなハージムが二十一歳の時、薄暗いバールで出会った十八歳のリカルドに、初めて「壊れずに触れられる存在」を見た。
金髪碧眼、傷だらけで狼みたいな目をしている。誰にも心を開かないくせに、スケッチブックだけは離さない。
自分と同じ匂いがする。何度殴られても壊れない。地獄を知ってる匂い。
ハージムは無意識に思った。
こいつは同じ穴の狢だ。こいつとなら、一緒に底まで堕ちていける。こいつだけは、裏切らない。
だから拾い、飼い慣らし、心の鍵を僅かに緩めた。
なのに、リカルドは選んだ。
ハージムが十二歳で永遠に失った「家族」という幻想を、あろうことか自分を捨ててまで手に入れようとした。
ハージムの中で何かが完全に壊れた。
唯一信じたお前まで、女と子供に縛られて俺を捨てるのか。
俺があのキャンプで失ったものを、お前は手に入れて俺を置いていくのか。
エレナと子供は、ハージムが二度と取り戻せなかった「家族」そのものだった。
だから殺した。
リカルドから奪い取って、粉々にして、「お前も俺と同じ穴の底に落としてやる」ために。
組織の乗っ取り? 金? コカイン?
そんなものどうでもいい。
本当に欲しかったのは、リカルドを「自分と同じ、永遠に救われない存在」にすること。
それがリカルドに対する愛であり、裏切りに対する復讐であった。
二人で地獄の底まで堕ちて、もう誰にも触れられない、誰にも裏切られない、凍りついたまま永遠に一緒にいること。
ハージムにとっての愛は、心中と同義だった。
だから、俺がお前に残す言葉はこうなる。
「なぁ、リカルド。お前もようやく、俺と同じになったな。もう縛り付ける奴は誰もいない。……俺とお前だけで、永遠に地獄にいようぜ」




