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インク アライブ  作者: おーひょい
アディジェ川の畔
28/38

誰も知らない-1

 一九九三年、十月の終わり。

 アンドレイに失望され、エレナの妊娠が発覚したあの日、俺は選択を先延ばしにして過ごしていた。

 

 すでにエレナの腹は少しずつ隠しきれなくなっていた。白いワンピースの下で、小さな命が動いている。

 俺は選ばなければならない。打ち明けなければならない。ギャングであることを。

 エレナがそれを聞いて諦めるならそれまでだったってことだ。

 俺は最悪の卑怯者だ。

 打ち明けて彼女に拒絶されるなら、それはそれで仕方ない──そんな風に自らの罪を彼女に委ねることで、決断から逃れようとしていた。


「エレナ、聞かなきゃいけないことがある」


 言い出したのは自分なのに、喉の奥が焼けるように熱い。上擦って掠れそうな声を無理やり出す。


「……俺は、まともな人間じゃない。ギャングだ」


 エレナは動かず、言葉も発さない。どんな顔をしてるのか見るのが怖くて、情けなく下を向いたまま続けた。


「……薬を運び、脅して、コカインに溺れた。情けないと思ってる。お前にも相棒にも隠して。傲慢だった。結果を変えられるなら、今の選択は間違ってないって……それが自由だと勘違いして、お前に隠れて汚い仕事を続けて、それで……」


 溢れ出した言葉は止められなかった。

 相棒を欺いていること、コカインに溺れた夜のこと、自分がどれだけ薄汚れた世界で呼吸しているか。

 堰を切ったような懺悔を、彼女の足元にぶちまけた。彼女の軽蔑を、あるいは罵声を待っていた。


「知ってるよ」


 だが遮るように落ちてきた声は、驚くほど穏やかだった。彼女の指先が、頭を抱え、俺の強張る頬を両手に包み、それから目を合わせた。震える唇から掠れた声が出る。


「いつから……?」

「最初から。あなたの手から、いつも悲しい匂いがしていたから」


 情けなく声が上擦った俺にエレナは微笑み、静かに口付けた。裸電球が彼女の背後で滲み、聖女の光輪のように見えた。愚かにも俺は、その光に触れて「許された」と錯覚してしまった。


「それでも、あなたのこの右手で描く、優しい絵が好き。私はあなたの罪も、全てを受け入れる覚悟は出来てる」

「エレナ……」


 俺は頬を包む、彼女の柔らかな手を握る返した。


「二人で、遠い海へ行こう。この子と三人で、何にも縛られない場所へ」


 彼女の透き通った薄茶色の瞳は、揺るぎなく俺を見つめた。

 飲み込むべき嘘も、込み上げる罪悪感もない。俺は初めて、彼女の瞳を真っ直ぐ見つめた。俺は涙が出そうになりながら、声を振り絞った。


「……あぁ……逃げよう。海の見える場所へ」


 エレナは同じ目線で見つめ、優しく微笑んだ。

 彼女を壊れるほど強く抱きしめ、俺は静かに頷いた。

 腕から伝わる彼女の体温と、まだ見ぬ命の鼓動。必ず守らなければならない。それを守り抜くことだけが、俺の人生に残された唯一の正解だと信じたかった。


 だが、俺は気付かなかった。

 部屋の隅、埃を被った戸棚の裏で、小さな赤い光が明滅していたことに。

 俺たちの誓いも、逃亡の計画も、そして俺の裏切りも。

 全てが磁気テープに刻まれ、その先で「相棒」が静かに耳を傾けていることなど、微塵も疑わなかった。



 数日後、俺はハージムのアパートにいた。

 窓の外は晴れていて、カーテンの隙間からアディジェ川のせせらぎが微かに流れてくる。部屋は相変わらずタバコの煙で霞み、コカインとラム酒の甘い匂いが漂っていた。

 俺は椅子に座っているハージムのそばで壁に寄りかかり、タバコを吸っていた。

 俺たちはしばらく言葉を交わすことはなかった。遠くの汽笛が鳴り、静かな部屋に反響する。

 タバコを深く吸い込むが、言葉を紡ごうとするたびに煙が喉に絡みつく。不愉快な苦味に咳き込み、それでもハージムはこちらを見なかった。

 あの日、エレナとの誓いが頭にこびりつく。


──この子と三人で、遠くの海へ。


 俺は拳を握りしめ、意を決して口を開いた。


「ハージム、話がある」

「……何だよ」


 こちらを見ない。もう俺のことは見ない。それでも俺は言葉を続けた。


「……ここを抜けようと思う」


 ハージムの指先で、タバコの灰が音もなく散っていった。奴はゆっくりと上体を回し、俺を見た。その目は驚くほど穏やかで、まるで最初からそう言われるのをわかっているかのようだった。


「いいんじゃねぇの」

「……何も聞かねぇのか。理由とか、行き先とか」

「時々そういう奴はいる。お前もその一人だっただけだ。潮時ってやつだろ?」


 振り向いたアンドレイは笑っていた。ヴェローナの陽光に透ける灰色の瞳は、相棒の旅立ちを祝う男のそれに見えた。


「ありがとう」

「よせよ、柄じゃねぇ」


 ハージムは立ち上がり、俺の肩を軽く叩いた。その手の温かさが、俺の罪悪感を少しだけ和らげた。


「お前がいなくなると退屈になるが……自由ってのは誰かに許されるものじゃねぇ。自分で掴むもんだろ。アルトゥーロは俺から上手く言っといてやる」

「……助かるよ、本当に」

「……あぁ、けど最後に一つ。「自由への手切れ金」として、ハンガリーで金の回収を頼む。これで貸し借りなしだ」

「最後も仕事か。相変わらず人使い荒いな」

「三日後に取りに行くと伝えてる。お前は受け取って帰るだけでいい。簡単だろ?」


 ハージムは手を振って何でもないような素振りで笑い、目を伏せた。

 その表情に、俺は卑怯にも悲哀を感じた。俺の選択は、本当に間違えていなかったのか。


「……お前は俺が抜けても、変わらねぇのか?」


 ハージムは俺の言葉に、軽く笑って頬を叩いた。


「止めてほしいのか、出て行きたいのかどっちだよ。残念だがお前が抜けても変わらねぇ。俺はヴェローナの路地を駆け、必要なら殺す。いつも通りだ」


 いつもの戯けたような顔で肩を竦めるあいつに、俺は安堵して応えた。


「俺を縛る鎖は、お前が切ってくれた、本当に感謝してるよ」


 あいつは外を眺め、俺の言葉にしばらく黙った後、独り言のように呟いた。


「……あぁ、そうだな。全ての鎖を断ち切ったなら、それは良かったよ。全て、ね」

「ハージム?」

「……何でもねぇ。とにかく三日後だ、忘れるなよ」



 三日後、俺はハンガリーの北部、地図からも忘れ去られたような山間部の村にいた。

 冬に差し掛かった夜風はナイフのように冷たかった。転々と存在する家はボロく、隙間風が入りそうだ。

 ソビエト時代の残骸のような孤児院の古い建物、錆びついた十字架を背負い、闇の中に佇んでいる。

 俺は裏口に回って孤児院に忍び込む。扉の軋む音が教会の広間に響かぬよう、慎重に閉める。中は誰もいない代わりに、ひび割れたマリア像だけが俺を見下ろしていた。

 階段を上がり、教父の部屋へ向かう。


──金を受け取るだけでいい。簡単だろ?


 脳裏でハージムが笑う声が響く。

 その声を振り切るように扉を開けると、暖炉の熱気が頬を撫でる。テーブルを挟んで座っていた教父が、ゆっくりと俺を見上げる。その手元にあるのは、金の束ではなく、一丁の黒い拳銃だった。


「……来たな、お前が狼の目をした男か」


 狼。その単語が冷たい水のように背中を伝う。


「金を取りに来ただけだ」

「白々しい。お前を送り込んだ男から手紙が届いた。私を殺しに来たんだろう」


 少し震えた声で教父が言うと、机の下から何かを取り出し、俺へ突きつける。


「一週間前、「狼の目をした男が殺しに来る」と。そして、そいつを殺せば借金は帳消しだともな」


 手紙には確かにそう書いてあった。

 一週間前。ハージムが俺の肩を叩き、「自由への手切れ金」と穏やかに微笑んだ、あの日よりも前だ。

 奴は俺を許すつもりなどなかった。ハンガリーへ行かせたついでに異国で殺す腹積りだったのだ。怒りで爪が皮膚に食い込むのがわかる。


「あの野郎……!」


 だが、エレナの妊娠を知ったのが二週間前だ。何故、俺をハンガリーで殺すなんて回りくどいことをしたのか。答えは一つしかなかった。

 俺がいない間に、ヴェローナで「片付ける」ためだ。


「……っ、ふざけるな!」


 頭が真っ白になった。

 だが、次の瞬間、教父はテーブルの上の拳銃に手を伸ばし、俺へ銃口を向ける。

 火を吹く直前、俺は身を屈めて腰のナイフを抜く。そのまま突進し、喉元へ突きつけ、持っていた銃を奪い取ろうとした。だが俺の手は、いまだに動揺して上手く動かなかった。

 俺たちは銃口の向きを変えようと揉み合い、床に倒れ、その拍子にナイフが首に赤い線をつけた。血が吹き出し、奴の手が俺の革ジャンを掴んで離さなかった。

 血生臭い鉄の匂いが立ち込め、教父の手がやがて力なく解けた。ずり落ちた肩から、太陽のタトゥーが見える。暖炉の火に照らされ、返り血で真っ赤に染まっていた。


「はぁ、はぁ……クソ、が!」


 床に手をつき、肩で息をする。

 その時、血の海に手をつく俺の視界の端で何かが動いた。

 部屋の隅、毛布の塊の中から、小さな翡翠色の瞳が俺をじっと見ていた。


 子供だ。

 殺さなければ。証拠を消せ。相棒なら、「アンドレイ」ならそうするはずだ。


 俺はゆっくりと立ち上がり、ナイフを手に子供の元へ行く。

 だが、そいつは動かずに俺の目を見つめると、やがて皆既日食のように返り血を浴びた太陽のタトゥーをじっと見つめた。

 翡翠色の瞳が、俺の罪を見つめている。

 抗うわけでもなく、流されるまま生きてきた俺と同じ目。


 自由? 笑わせるな。

 俺は鎖を切ったんじゃねぇ。一番大切なものを、自分の手で「アンドレイ」に差し出したんだ。


「……Dimentica.(忘れろ)


 俺は掠れた声でそう吐き捨て、背後の闇へと逃げ出した。エレナの待つ、地獄のヴェローナへ。

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