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インク アライブ  作者: おーひょい
アディジェ川の畔
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太陽のタトゥー-2

 太陽のタトゥーを彫り合ったあの日から、ハージムは俺に執拗に仕事を振った。まるで仕事以外の時間を許さないかのような殺人的な仕事量に、俺は疲弊していた。

 金の管理と麻薬、密輸品の取引に借金の取り立て、正直汚い仕事を山ほどさせられた。アルバニアからの難民流入のおかげで警察の目が多くなり、何度も捕まりそうになったが、ハージムの機転で助けられたりもした。

 かと思えばいきなり、アンジェリカやニーノと二人で運ばせたり、俺一人で運ばせたり。


 この世界に入ったのも、俺が自由に憧れたのも、ハージムのおかげだ。じゃなきゃ、俺はどっかのチンピラと喧嘩するようなクズだ。殺されていたか、野垂れ死にしていたかもしれない。感謝はしている。

 だが俺は奴が何を考えているのかわからなくなってきていた。


 深夜、俺がアパートへ戻ると、アンジェリカがテーブルの上の札束を指で弾いていた。裸電球が一つだけチラついて、部屋はタバコの煙で霞んでいる。真っ赤な口紅が付いたタバコを咥え、リズミカルに札を数えていた。


「……アンドレイは?」

「さっき出てった。「一人になりたい」って」


 俺は黙って椅子を引いた。肩が重く、数日前に入れた太陽のタトゥーがズキズキと疼く。

 アンジェリカは数え終わった札束をテーブルに投げ、俺の前にグラスを滑らせた。氷はもう溶けている。


「また殺されそうな仕事だった?」

「あぁ」

「相棒ってのも楽じゃないね、便利屋とは違う」


 アンジェリカはタバコを灰皿に押し付け、真っ直ぐと俺の目を見た。

 俺はグラスを握ったまま、「相棒」という言葉に目を伏せた。


「最近、何を考えてるかわからねぇ」

「拗ねてるんでしょ。あんたが自分から離れそうで」


 その言葉に俺は特段驚きはしなかった。何となく察しはついてた。だがそれだけが理由とも思えず、ますます奴の考えがわからなくなる。


「何のことだか」

「隠す気ないくせに」


 赤い口紅の笑みが冷たく見え、俺は少し息を呑んだ。アンジェリカは目を細め、小さな声で続ける。


「あいつ、「俺の太陽を汚した」って呟いてた」


 急に部屋が狭く感じた。雨が窓を叩く音が耳障りに響く。


「そんなこと、言ってたのか」

「愛情って怖いわよね」


 アンジェリカは立ち上がって、俺の横を通り過ぎる。微かな甘い匂いが俺の鼻を刺す。


「私みたいに、金で繋がってる方がまだマシよ」


 その一言を残して、背後でドアが閉まる音が聞こえた。

 俺は一人残され、左腕の太陽を見つめる。血の滲んだ線が疼く。かさぶたになりかけた傷からは、時々血が流れて服を汚した。

 まだ痛みは消えなかった。



 九月の深夜。凍えるような雨が石畳を打ち付けるアディジェ川の水面に、街灯が反射して揺れている。

 久々の二人での仕事、フードを目深に被ったハージムが隣でタバコの煙を纏っている。打ち付ける雨が、擦り切れた革ジャンの隙間から滲んで寒かった。

 相手は裏切った移民系の運び屋。組織の金を持ってトンズラするつもりだったらしい。この時代、珍しくもない。

 ハージムは背後から忍び寄りナイフを突き立て、俺は銃を突きつけるだけ。いつもならすぐに終わる仕事だ。

 相手の家のアパート裏手から忍び込み、背後からハージムが相手の首を絞める。その顔に見覚えがあった。あの日、アレーナ近くのテラス席でハージムと談笑していた一人だった。男は俺たちの顔を見て目を見開いた。


「頼む……家族のためだったんだ。見逃してくれ、アンドレイ……」

「一億リラ。一生タダ働きでも稼げねぇ額だ」


 男は涙を滲ませて訴えた。「家族」のためと言う男の言葉に嘘はない。だが「アンドレイ」の目は一瞬たりとも曇らなかった。例え同じ移民でも、組織への裏切りには絶対的な死が付き物だ。


「頼むよ……同じ移民だろ。家族がいるんだ」

「……俺には家族なんてわからねぇ。「そんなもの」背負ってるから、弱くなるんだ、カイス」


 男の名を呼ぶハージムの声は冷たかった。家族を背負うことの弱さを語る言葉に、俺は銃を突きつけたまま固まる。

 奴の目が、裏切り者の死を促すように俺を刺した。だが、俺は引き金を引けなかった。

 エレナが笑って、俺の傷だらけの手を包んだあの温もりが、痛いくらいに指先に染み込んで指が震えてしまった。いつもなら躊躇いもなく引けた引き金が、俺には鉛のように固まったように感じた。

 あいつは立ち尽くす俺を一瞥すると、腰からナイフを抜いて男の首に赤い線を引いた。倒れた男の返り血で血まみれのまま、奴は俺の目を見た。

 フードの影に隠れた目元に、揺れる電球の光が差して暗く光っていた。


「……何で撃たなかった」


 低く、氷のように冷たい声。あいつの目は、あのアパートで未来を語ったハージムではなく、残虐な「アンドレイ」だった。


「………狼の目じゃなくなったな。リカルド」


 震えた銃口をゆっくりと下ろし、俺は目を伏せた。ベレッタの冷たさが指にやけに冷たく感じた。


「俺は……」

「もういい。もうわかった」


 俺は何も答えられず、立ち尽くした。

 その夜、俺はアパートに戻る気になれず、エレナの元へ自然と足が赴いた。

 誰もいない、薄暗いいつものバールに入る裏口、鍵は扉の横、デイジーのプランターの下にある。

 鍵を回して静かに店内に入ると、いつものコーヒーの匂いと酒の甘い匂いがまだ漂っている。俺はエスプレッソマシンの横を通り、二階のエレナの部屋へつながる階段を登る。木の床が俺の体重を乗せるたび、小さな悲鳴を上げている。廊下の奥、エレナのいる部屋へ。

 扉を開けると、エレナはベッドでうずくまっていた。真っ白な顔で震えている。俺は慌てて駆け寄った。


「どうした……何があった……?」

「ちょっとだけ、気持ち悪くて……でも、大丈夫」


 起き上がろうとするエレナの肩を抱き、俺は隣に腰掛けた。


「少し前から、生理が来なくて……だから、調べたの……」


 俺の心臓が再び不快な音を立てる。


「私、妊娠したみたい………」


 膝から崩れ落ちるような感覚が全身に広がる。

 俺はエレナを抱きしめた。彼女の腕が弱々しく背中を包む。熱い、だが胸の奥が凍りつく。

 俺は今どんな顔をしているのだろう。

 エレナと密会し、ハージムを失望させ、仕事もろくにこなせない。自由を手に入れるはずが、いつの間にか息苦しくなっていた。

 選ばなければならない。ハージムか、エレナか。

 その瞬間、左腕の太陽が燃えるように疼いた。

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