太陽のタトゥー-1
それから俺は仕事が終わると、バールへ寄ってエレナの部屋へ行くようになった。奥の部屋で二人でグラッパを飲みながら、彼女は俺の描いたデザインを覗き込んでいた。
時々エレナは、好きだったデイジーの絵を描いては「見て」と得意げに見せるから、そのたび俺は「下手くそ」と鼻で笑った。
窓から街並みが遠くに見える小さな部屋で、エレナと笑い合うと血に染まった手が薄れていくような気がして心地良かった。
アンドレイの語った「奪う自由」が、エレナの前では「与えることの喜び」に変わっていった。
麻薬を運び、人を殺した俺に、本当はそんなものあるわけがないのに。
だからこそ、この逢瀬を「ハージム」に感づかれるわけには行かなかった。
エレナの部屋を出る前、俺はわざと強いグラッパを喉に流し込み、服にタバコの匂いをこれでもかと染み込ませる。彼女のシーツの匂い、石鹸の香り、デイジーの温もり。
俺の革ジャンにこびりついた平穏を、ギャングの悪臭で塗りつぶした。夜の闇に紛れてコカインと硝煙、血の匂いの漂う裏路地を駆け抜ける。
アンジェリカからリラの札束を受け取り、ニーノと冗談を交わし、ハージムと俺たちのバールでスコーパを。
この年の夏もヴェローナの石畳が、吸い込んだ陽光を吐き出している。
逃げ場のない熱気の中、エレナの白いワンピースだけが目に眩しい。彼女は俺の素性を知らないまま、子どものように手を引き、観光客で溢れるアレーナの広場へ向かっていく。
俺の視線は彼女の横顔ではなく、常に群衆の中に紛れる聞き覚えのある足音や、見覚えのある革ジャンを探していた。
遠くで聞こえる鐘の音は、俺にとっては死を告げる合図のように聴こえて仕方がなかった。
「ねぇ、リカルド。あのバールへ行ってみようよ」
彼女の弾むような声とは裏腹に、俺の指先はジャケットの裏にあるナイフの感触を確かめていた。
「あぁ、一杯だけなら」
手を引かれるままアレーナ近くのテラス席を覗いた。その瞬間、俺の心臓が不快な音を立てて跳ねた。
数十メートル先、見慣れた天然パーマ掛かった黒髪の影。ハージムが、ニーノや他の連中とテーブルを囲んで笑っている。奴の灰色の目が、獲物を探すようにこちらに向きかけた気がした。
「リカルド?」
怪訝な顔で見るエレナの細い手首を、俺は力強く掴んだ。
「こっちだ」
驚く彼女を半ば強引に引き寄せ、死角となる路地裏へ滑り込む。煤けた煉瓦の壁に彼女の背中を押し付け、言葉を許さないように唇を奪った。
「ん、急に……どうしたの?」
彼女の甘い吐息が耳元で漏れる。俺は肩越しにバールの喧騒を覗き見た。アンドレイ達が立ち上がり、談笑しながら去っていく。奴の顔が街灯の影に隠れるまで、俺は心臓の鼓動がエレナに伝わらないよう、彼女を壊れるほど抱きしめ、キスの振りをし続けた。
彼女はそれを「激しい愛情」だと勘違いし、首に腕を回してくる。
俺が味わっていたのは、熱い口付けの裏にある、身を切るような冷たい死の予感だった。
◇
「ねぇ、リカルド。来年の夏、私たち何してるかな」
エレナは下手くそなデイジーの絵の上に鉛筆を置き、傍にあった新聞のスポーツ面を指さした。そこには、一九九三年のアメリカ、ワールドカップ予選の記事が躍っていた。
「さぁな。今と変わらず、お前の下手な絵を笑ってるだろ」
「ひどい! ……あのね、もしイタリアが本大会に行けたら、一緒に見たいなって。アメリカに行くのは無理だけど、あの日キスしたアレーナの近くのバールで、大きな画面で、みんなで」
エレナは静かに呟くと、傷だらけで、インクと血の混ざる汚れた手をそっと握った。
「二人で青いユニフォーム着て、思いっきり応援するの。約束だよ」
俺は喉の奥に詰まった嘘を飲み込み、ただ短く「あぁ」とだけ答えた。
来年の夏。そんな当たり前で、穏やかな幸せに満ちた未来が、俺の手の中にあるのだろうか。それでも俺は、その小さな約束を、血に汚れた人生の唯一の光だと信じたかった。
◇
エレナとの逢瀬の後、俺はアパートへと戻った。深夜のアパートの部屋は静かだった。窓の外は湿気で結露し、曇っていてよく見えない。俺は扉の音を立てないよう、少し気を使って静かに開けた。
革ジャンの襟を正しながら部屋に入ると、タバコとラム酒の香りが部屋を満たしていた。部屋の中央、丸テーブルでハージムが一人酒を飲んでいて、灰色の目で真っ直ぐ俺を見た。
「……遅ぇな」
「仕事だよ」
「嘘つけ」
ハージムはグラスをテーブルに置き、首を反転させて俺を見た。その瞬間、俺は反射的に数センチ後ずさりした。奴の鼻が、目が、俺の首筋の辺りを獲物を吟味する獣のように嗅いだ気がした。
「お前、最近女出来たろ」
戦場を思わせる暗い灰色の目。笑っているのに、裸電球の灯りが瞳に映らない。俺は思わず目を伏せた。胃の奥から、エレナの部屋で飲んだアルコールが逆流し、苦い嘘となって喉を焼いた。
「別に。ただの遊びだ」
「熱心に通ってるみたいだけどな」
「それならとっくに出てるはずだろ。でも帰ってきてる。俺の相棒はお前だけだ」
「相棒?」
そう呟くと、奴はグラスをテーブルに叩き、椅子から立ち上がって俺の左腕を掴んだ。
目の前にいるのは、穏やかに未来を語り合った「ハージム」ではない。冷酷な目をしたギャング、「アンドレイ」だった。
力強く掴む奴の指が食い込み、俺は顔を歪ませた。
「なら、俺とお前、同じものを彫ろうぜ」
「……今かよ」
「今だからだ」
俺は黙って頷いた。
アンドレイは傍の棚に入った俺のコイルマシンを用意し、テーブルに置いた。
電源を入れると、低い唸り声が獣のように響いて部屋を震わせた。
「お前がやってくれよ。フリーハンドでいい」
「何を彫るんだよ」
「ヴェローナの街を見下ろす太陽。夜中にしか行動出来ないのに、皮肉だろ」
「……そりゃいいな、自由に憧れてるって感じだ」
「ピッタリだろ。信頼してるぜ、相棒」
アンドレイは袖を捲りながら冗談を言って笑うのに、俺は少し安堵した。だが声は低く、目は笑っていなかった。
俺は電圧を調整し、アンドレイの腕を掴む。静脈が青く浮かんでいる。アルコールは拭かないで、震える針を肌に添え、フリーハンドで彫り進めていく。
シンプルな円に鋭い光の線。太陽の線が皮膚に焼き付いていく。少し線が歪んでも、アンドレイは笑ったまま動かなかった。
歪な太陽を彫り終えると、アンドレイが立ち上がる。
「お前は自分で彫れ。俺が見ててやる」
「わかってるよ」
俺は苦笑いして、革ジャンを脱ぎ、左腕に針を当てた。針が皮膚を裂く。痛かったが、俺は慣れてる。
最後の線を入れる瞬間、そばで見ていたアンドレイが俺の右腕を掴んだ。冷たい指が、骨まで食い込むようだった。
「最後は俺に入れさせろよ」
「お前が? 出来んのかよ」
「相棒なんだから、信頼しろよ」
笑っていた。灰色の目が暗く笑っている。俺はその目に抵抗できなかった。
アンドレイは針を奪い取ると、等間隔に並んだ歪んだ線の隣に当てた。低く唸り、震える針が俺の肌に触れる瞬間、深く突き刺した。血が吹き出し、黒いインクが赤く染まっていく。
「っ……!」
思わずフットスイッチを離しそうになるが、アンドレイの足がそれを許さない。
俺は痛みに顔を歪ませながら、奴の顔を見た。笑っていた。俺は何も言えず、黙って歯を食いしばることしかできなかった。奴は針を抜かず、ゆっくりと線を引く。血が腕を伝い、テーブルに滴っていく。
血とインクが混ざって、太陽が赤く染まった。
「これで、俺たちは永遠に相棒だ。この太陽は、誰にも汚させない」
針を突き刺したまま、アンドレイは俺に
囁いた。俺は痛みに顔を歪ませ、「あぁ……」としか答えられなかった。
この太陽のタトゥーは、俺の呪いになった。




