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インク アライブ  作者: おーひょい
アディジェ川の畔
25/27

花の香りと揺れる影-2

 ある夏の日、夜のバールはいつもと同じ匂いだった。古いタバコ、焦げたコーヒー、古いエスプレッソマシンのあるカウンターに染み込んだワイン。誰にも気付かれないよう、裸電気の光も届かないような暗がりでデザインを描いていた。スケッチブックをめくり、鉛筆を走らせる。

 鋭い狼の目、波の線、薔薇の棘。

 タトゥーを辞めて一年経つが、針の代わりに鉛筆を握る指は震えていた。


「また描いてるね」


 小さな声が降ってくる。

 カウンターの向こうから、店主の娘、エレナがグラスを拭きながら覗き込んでいる。同じくらいの年だろうか。黒髪をポニーテールにまとめ、腕を動かすたびに束が揺れている。白いエプロンは少し黄ばみ、赤いリボンが腰の辺りに付いている。


「……見るなよ」


 俺はスケッチブックを閉じようとするが、エレナはすでにテーブルにやってきて腰掛けていた。


「狼、かっこいいね……タトゥー彫ってるんでしょ? お客さんに彫ってあげたら?」

「もう彫らねぇ」

「なんで? 上手なのに」


 エレナは首を傾げた。純粋すぎる目で、俺の傷だらけになった手を見つめていた。

 その目にどこか罪悪感を感じて、思わず目を伏せた。


「……お前に関係ねぇだろ」

「関係あるよ。だってここ、私の家だもん」


 そう言ってエレナは笑って、俺の前にエスプレッソを置いた。砂糖は入れていない。俺の好みはもう知っているようだった。


 それから数週間、俺が来るたびにエレナは何かしら理由をつけて話しかけてきた。


「コーヒー冷めてるよ」

「灰皿変えるね」

「今日の絵、素敵な景色ね」


 俺は変わらずぶっきらぼうに返すだけだったが、バールに来てスケッチブックを開くタイミングが少しずつ早くなっていった。


 雨の夜、客は帰り店仕舞いの時間。仕事が遅くまで掛かったが、この日も俺は隅のテーブルで酒を飲んでいた。最近割り振られる量が増え、スケッチブックを開いたままうとうとと頬杖をつき、そのまま寝てしまった。

 ふと起きた時、そばに置いてあったグラスはいつの間にかエスプレッソに変わっていた。周りの客のざわめきが消え、店内は静かで遠くの汽笛が響いていた。エレナは扉に閉店の札を掛けながら俺のテーブルにやってくる。俺は慌てて革ジャンの袖で頬を拭きながら顔を上げるが、エレナは気にもせず覗き込んだ。こんな隅の方で絵を書いてる知らない男に、よくもまぁ飽きないもんだ。


「……まだ描いてる」

「あぁ」

「見せて」

「……ダメだ」


 ダメだと言っているのに、エレナは黙って俺の隣に座り、肩が触れる距離で覗き込んだ。彼女の揺れた髪から花の香りと、服からは洗剤とコーヒーの混じった匂いがする。

 スケッチブックのページにはアディジェ川から見た景色や、太陽と雲、小さな狼の絵が描かれている。


「ねぇ、この狼、誰の目なの?」


 エレナは無邪気な声でページの上の狼を指差した。思わず俺の鉛筆を持つ指が止まる。


「誰でもない」

「あなたみたいに寂しそうな目してる」

「寂しくなんてない」

「あ、やっぱりあなたなんだ」

「違う、俺じゃねぇ」


 エレナは笑って、スケッチブックの端に手を伸ばし、そっと引っ張った。俺は反射的に手で払い除けようとしたが、指先が止まった。何であの時止めたのか、俺にもわからない。でも、少しだけ肩から伝わる熱を感じていたかったのかもしれない。


「誰かに見せたりしないの?」

「しねぇよ」


 エレナは黙って、俺の手に自分の手を重ねた。冷たい鉛筆を持つ指に、エレナの温かな掌が触れる。


「だったら、私が見てもいいでしょ。私だけに」


 俺は言葉が出なかった。だが、スケッチブックを閉じることもできなかった。俺は鼻で笑い、タバコを咥える。


「お前、変わってるな」

「そう? あなたの絵を描く横顔が、好きなだけ」


 ストレートすぎる言葉に、火をつける手が止まる。ほんの一瞬、睫毛が揺れた気がする。だが、すぐに目を細め、火をつけて吐き捨てた。


「そう言われても、俺は何もやれねぇよ」

「知ってる」


 エレナは俺の隣にぴったりと寄り添い、彼女の肩が触れた。

 何も言えなかった。

 しばらく静寂がバールの中を満たし、時計のカチカチという音がやけにデカく聞こえる。やがてエレナは小さく息を吐いて、俺の手に自身の手を重ねた。

 傷だらけで、インクの跡が血のように残った手を、白く滑らかで細い指が覆い隠す。触れれば壊れそうな細い指。

 俺は手を引こうとするが、結局そのままにしておく。


「……寒い?」


 エレナが小さな声で呟く。


「……別に」

「嘘。手、冷たい」


 エレナは俺の手を両手に包み、自分の頬に押し当てた。柔らかく、温かい。

 俺は喉を小さく鳴らした。


「……何してんだよ」


 声は掠れていた。もう俺は彼女の温もりから離れられなくなっていた。心臓がうるさく、耳元で跳ねている。

 エレナはそんな俺の動揺を知ってか知らずか、ゆっくりと顔を近付けて頬に唇を寄せた。触れるか触れないかの距離。

 俺は目を閉じたまま、息を詰める。


「……部屋、行く?」


 エレナの声は震えていた。

 俺は答えなかった。ただゆっくりと立ち上がって、彼女の手を引いた。

 店の奥、両親が寝静まった二階への階段、裸電球の灯りが背後で小さく揺れて、俺たち二人の影が壁に重なった。


 小さな足音が二つ、遠ざかっていく。

 最後にドアが閉まる音がして、バールには誰もいなくなった。

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