花の香りと揺れる影-1
ある晴れた日のこと、この日は仕事も予定もなく、ただアンドレイのアパートでダラダラとしていた。俺は行く場所も無かったから、アンドレイの部屋で共に暮らしていた。
ニーノとアンジェリカはいない。二人だけの時間。アンドレイはTシャツに紺のジーパンというラフな格好で、ソファで横になってテレビを見ている。退屈なニュースが流れ、時折カンツォーネが響く。
ベッドに腰掛けて窓の外を眺めていた。昨日の夜は取引相手と失敗し、派手な喧嘩をしていたとは思えないほど穏やかな天気だった。アルトゥーロに殴られた顔は少し痛むが、タバコを吸って誤魔化す。
暖かい風が入ってきて、タバコの煙が外へ逃げていく。雲のない青空。鳥が羽ばたいて窓枠の外へ消えていく。
俺は鳥の行方を追いかけて、何となく窓の縁に手をかけて外を眺めた。遠くにアレーナの屋根が見える。
「何黄昏てんだよ」
テレビを見たまま、アンドレイはソファから声をかける。
「別に。ただ景色が綺麗だなって」
「ヴェローナに何年住んでんだよ」
アンドレイは鼻で笑ってたが、俺はタバコの灰を外に弾いて、そのまま外を眺め続けた。アンドレイはソファから起き上がると、テーブルのエスプレッソを飲み干した。しばらくしてテレビが消え、ぽつりとつぶやいた。
「こういうのも悪くねぇな」
「何が」
「仕事も金も、喧嘩もない日があって、こうやってゆっくり眺めるのも」
俺は鼻で笑った。
アルトゥーロに認められ、夜の街を駆け抜け続けた。必死だった毎日で街を眺める時間なんてなかった。子供の頃もそうだ。唯一穏やかだったのは、母親に連れられて行った教会の僅かな祈りの時間。それ以外は地獄だった。
「あの日お前と出会わなければ、あの景色のどこかで死んでたかもな」
「なんだそれ。大体お前、脱走兵だろ。死ぬならトレントのどっかだ」
「はは、そうだった」
煙を吐き出して、タバコを壁に押し付けて冗談を言って笑った。
今までの人生、逃げてばかりだった。だが、あの兵舎から逃げ出した先で、穏やかな時を過ごせるなら、それも悪く無い選択だったと思える。
「なぁ、ハージム」
俺はハージム、奴のレバノンでの本名を口にした。この名前を教えてもらったのはつい二ヶ月前だ。いつからか「アンドレイ」と呼ぶのは仕事や仲間の前だけになった。俺たち二人きりの、特別な呼び名。
「いつまでこの穏やかさが続くと思う。俺たち二人だけ、こうして同じ景色見て、くだらねぇことで笑って」
穏やかな太陽の光と、隣の温もりに閉ざしていた心が少し緩んでしまったのかもしれない。
「俺たちが望めば永遠に。この街を手に入れれば、好きにできる」
「あのバールで言ったこと、本気だったのかよ」
「いつでも俺は本気だぜ。永遠にお前と二人で、この景色を見るってのも」
「言っておくが、俺は男の趣味なんてねぇからな」
「そりゃ残念」
戯けるように肩をすくめて笑うのに、俺もつられて笑うと肩を小突いた。遠くの汽笛が暖かな風に乗って、少し伸びたTシャツを揺らす。
「お前は、どこまでも自由で、全部を最善の方法で奪い返す強さがある。俺はいつも、何が正しい選択か迷っちまう」
ソファの下に隠したスケッチブックをチラリと見て、俺は続けた。
「タトゥーもまだ捨てきれねぇ。あの針の音が、頭から離れないんだ」
初めて自らの手で奪い取った自由がタトゥーだった。コイルマシンの低い響き、指先から伝わる振動。あの古びたスタジオで、針音を聞きながら客とくだらない話をするのは好きだった。
あのタトゥースタジオからも逃げ出した今の俺の選択は、間違えていないだろうか。けど、そんなこと聞けるはずもなく、煙と一緒に飲み込んだ。
「……一年前の路地裏で人を殺した感覚も、血の匂いも、光が無くなるあの瞬間も。あれが俺の選択か、今でもわからねぇ」
あいつは黙って、俺の隣で同じ景色を見つめていた。だが、やがて静かに口を開いた。
「気に入らねぇ結果なら、お前が変えろ」
「どうやって」
「もっと奪え、もっと殺せ。その内、誰が誰かなんてわからなくなる」
めちゃくちゃな答えに俺は苦笑いした。
「それが、お前の正しい選択か?」
「知らねぇ。でも俺はそうやって生きてきた。正しさなんて生きてる人間にしか証明出来ねえ。死人に口無しだ。正しくないなら殺してでも奪え。お前は、俺の狼だろ」
俺の肩を小突き、白い歯を見せて笑った。笑っていたが、目の奥が凍りついているように見えたのを覚えている。
俺は「……あぁ」と低く掠れた声で呟いて、窓の外を見た。青い空が急に遠くに感じた。奴はすぐにいつもの調子で「キスでもしてやろうか?」と言うので、俺は「気持ち悪ぃな」と目を伏せて笑った。
アンドレイの選択に疑問を持つことはないが、心のどこかに微かな不安が芽生えた。この穏やかさが、いつか終わるのではないかと。この男がいる限り、俺は自由になれると思っていた。だが、本当の自由がどんな代償を払うことになるのか、ガキの俺は理解していなかった。
そんな微かな不安を見ないようにして、いつの間にか俺はギャングにのめり込んでいった。溜まり続ける金とコカイン、金庫の札束を数えるのも様になってきた。もうすっかり、ギャングのチンピラという感じだ。だが一度だけタトゥースタジオに戻ったことがある。六十過ぎたジジイがやってる古いスタジオ。外観はノンナの古いワンピースみてぇにボロくて、壁紙が所々欠けている。薄汚れた木目の、見慣れた扉を開けると、インクと消毒液の匂いが鼻を刺した。懐かしさで目眩がしたが、ジジイは俺を見た瞬間に出ていけと一言言われた。
俺の自由は終わった。
だが、それでもあのタトゥーのインクと針は忘れられなかった。余るほどの金でコイルマシンを買い、一人で針音を聞いた。部屋に響く低い音、電圧を調整するコイルの金属音が心地良かった。
ジジイに追い出されても、俺の手はタトゥーを捨てられなかった。唯一の救いがこいつだ。誰かに彫るつもりもないのに、スケッチブックにデザインを書くことがいつの間にか日課になっていた。
ハージム達と出会ったあの小汚いバールで、時々酒を飲みに行ってはこっそり絵を描いていた。




