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インク アライブ  作者: おーひょい
アディジェ川の畔
23/27

ヴェローナの鼠-3

 だが考える暇も無く銃声が響き、アンドレイを捉え損なった銃弾が空瓶を吹き飛ばした。破片が石畳に散り、雨に混じる。俺は肩が跳ね、「クソッ!」と叫び、ゴミ箱に身を縮めた。雨が首筋に冷たく流れ、死の予感に頭を振るが、アンドレイの声で我に返った。


「リカルド、今だ! 行け!」


 すぐさま震える手で麻袋を握り、俺は走った。横目で確認すると、ナイフを振りかざして男に突っ込む姿が写る。


(あいつなら大丈夫だ。すぐに追いかけてくる……)


 情けなく、祈るように内心で呟く。

 刃は男の腕を切り、血が石畳に落ちていった。男は痛みと怒りで顔を歪ませるが、アンドレイの腹にナイフを沈ませた。路地に鈍い音が響き、泥濘に倒れてうずくまり、震えるアンドレイの背中に足が止まる。


「嘘だろ……アンドレイ! ……おい、こっちだ!」


 奴の元へ走るが、街灯に光る銃口がこちらを向き、恐怖で足が動かなくなる。何とか震えを誤魔化し、ゴミ箱からレンガを拾うが、焦りと雨、手の震えにレンガを滑らせて石畳に落とした。


「クソッ!」


 拾い直して男目掛けて投げると、放物線を描いて頭に直撃し、膝をついた。男は血と雨に濡れた頭を押さえ、ふらつきながら再びベレッタを構える。男が倒れる直前、放たれた銃弾は俺の左腕を掠めて肉を抉った。革ジャンが裂けて血がシャツに滲み、荷物が石畳に転がる。俺は歯を食いしばり、初めての痛みに堪えた。


「ぐぁ……いてぇ……!」

「荷物を寄越せ!」


 もう一人のナイフを持った男が俺に向かう足元を、アンドレイは力を振り絞り、足の甲にナイフを突き立てた。男は膝を付き、呻きながら倒れ込んだ。

 泥濘んだ地面には三人の男が倒れ、路地は再び雨が石畳を叩く音だけを響かせている。

 俺は左腕を押さえながら奴の元へ行き、肩を支えて立ち上がらせる。


「無茶しやがって……」

「はは、いけると思ったんだけどな」


 こいつは軽く笑って泥濘に足をつくが、アドレナリンが切れたのか腹の痛みに呻いた。雨が血を洗い流し、石畳が赤黒く光る。


「よくもブルーノとマッテオを……逃がさねぇ」


 背後から声がし、振り返ると頭から血を流した男がベレッタを構えている。


「もう無理だ、逃げるぞ!」


 俺たちは走り出した。路地裏に置かれたバイクにアンドレイを押し込み、エンジンを吹かす。銃声が二発聞こえたが、弾切れを起こしてバンのライトが再び路地を照らした。俺はバイクを走らせ、ヴェローナの薄闇へと消えていった。



 アディジェ川の橋の下、雨が川面を叩き、黒い波が街灯を映す。

 俺の腕から血が滴り、ジャケットが雨で重く、握ったハンドルが震える。アンドレイは後ろにしがみつき、腹を押さえて喘いでいる。背後からはバンが追い、俺の呼吸は荒く、焦りと恐怖で乱れる。

 古いドゥカティを全開にし、橋の下の細道に突っ込むが、痛みと雨でタイヤが石畳で滑り、ハンドルを誤ってコンクリートの柱に擦った。しかし、バンのライトがすぐ後ろを追い、男が「止まれ!」と叫ぶ。


「クソくらえだ!」


 俺は唸り、細道の曲がり角でバイクを傾けた。ヘッドライトがコンクリートの柱を切り、雨粒が光に散っていた。バンは細道に入れず、クラクションと喚き声が遠ざかっていくと、しがみついていたアンドレイは俺の肩を叩く。


「最高だ! 死んだかと思ったぜ!」

「馬鹿野郎! 生きてんだろ!」


 俺は叫び、雨の中笑い合った。エンジン音を響かせて走る最中、不思議と痛みは消えていた。

 血と汗が混じる中、バイクを指定場所へと走らせる。川の黒い波が遠くで揺れ、ヴェローナの闇が後ろに消えていった。



 川沿いの廃倉庫に着くと、黒いセダンが止まっている。中で待っていた取引相手には、俺たちのボロボロの姿を見て驚かれたが、一千万近くする麻袋を渡して無事に終えた。その後アンジェリカとニーノとの合流場所へ向かい、俺たちはアディジェ川沿いのアパートへ向かった。もちろん、アンドレイはアマローネを手に。


「それにしても酷い怪我だな」

「問題ねぇ。中身は逸れてるから消毒して寝りゃ治る」

「相変わらずタフなことで」


 ハンドルを切りながらニーノが笑った。アディジェ川を渡る橋を走り、遠くの街灯が川面に反射していた。


「バイクなんてあった?」

「パドヴァのバイクだ。鍵かけてあったからそのまま使った」

「へぇ、さすが脱走兵。逃げ足は早いね」

「うるせぇな」


 アンジェリカが冗談ぽく笑い、だが俺のちっぽけなプライドが邪魔して吠えた。アンドレイは横でつられて笑ってたが、時々脇腹を押さえて呻いていた。


「こいつのおかげで死なずに済んだんだ。……俺は護衛役なのに、情けねぇな」

「俺は……ゴミ箱で震えてただけだ。情けねぇのは俺の方だよ」

「感謝くらい素直に受け取れよ。ありがとな、相棒」


 ふいにアンドレイから「相棒」と呼ばれ、俺は面食らって見つめた。奴もしばらく見つめ返してたが、やがて目を細め、


「俺が変なこと言ったみてぇで恥ずかしいだろ」


 と頬を軽く叩かれた。

 ニーノはバックミラーから俺たちの様子をチラ見して「喧嘩なら賭けようぜ」と笑う。助手席のアンジェリカは「私はアンドレイね」と言うから俺は思わず座席を蹴った。後でアンジェリカから渡された取り分は少なかった。

 車内ではどんな会話をしたか覚えていない。だが、他愛のないことでずっと笑ってた気がする。

 とにかく、これが終われば認められる。腕の痛みは笑い声にかき消されていった。アパートへの路地を窓から見つめ、反射する自分と目が合った。笑い声が遠くに聞こえる。

 初めて人を殺した感触はずっと残り続けていた。指先から伝わる熱と、必死にもがく喉元。窓から目を逸らしたが、肩に当たる奴の笑い声で前を向いた。

 エンジン音が止み、俺たちは時々うめきながら降り立ち、必死になってアパートの三階を登った。



 一年後の一九九二年の初夏。

 ヴェローナの夏は蒸し風呂みたいに湿っぽく、夜になっても石畳が熱を放っている。

 俺はすでにこいつらの仲間になっていた。相棒のアンドレイ、アンジェリカ、ニーノ。四人で共に麻薬や武器を運び、街の裏通りを走り回った。


 アディジェ川沿いの古いアパートの三階が俺たちの溜まり場で、窓を開けると川の腐った匂いとディーゼルの排気ガスが流れ込んでくる。

 三ヶ月が経った頃、夜の仕事を終えて集まっていた時だった。丸いテーブルに札束を山盛りにして、奴が俺に銀の鍵を放り投げた。


「金庫はお前が管理しろよ」

「俺が?」

「信用してるからな。アルトゥーロも期待してるぜ」


 鍵は冷たく、掌に重かった。

 「信用」、「期待」、今までの人生そんな言葉言われたことなんてなかった。単純な俺は胸が熱くなって、鍵をポケットにしまい込んだ。


 アンジェリカは赤髪のショートヘアで、いつも赤い口紅を塗っていた。アレーナの裏路地で金を受け取り、タバコを咥えながら指先だけで金をパラパラとめくる。

 タバコについた真っ赤な口紅と、石畳に落ちる夕陽が彼女の髪を燃えるように照らして、俺はつい見とれた。


「ほら、アンタの分だよ」


 そう言って、いつも俺の分を少し多めにくれた。


 ニーノは年長で細身の男だ。ヘラヘラとしてるが、ハージムを引き入れたのはこいつらしい。ふざけた男で、いつだったかこいつが酔って、ピアンサ・ブラ広場で俺を的にナイフ投げをした時、脇腹を掠めて喧嘩になったことがある。


「よかったな、ガキ! 傷が増えるのもギャングの証みたいで」

「身内にやられたんじゃ格好がつかねぇだろ!」


 そう言って胸ぐらを掴んだが、ヘラヘラと笑っていて俺も呆れてつられた。今でも腹に薄くかすり傷が残ってる。


 仕事が終わると、アンドレイのアパートへ集まる。窓から見ればアディジェ川が黒く光って、遠くで列車の汽笛が鳴る。

 タバコの煙が天井を這い、コカインを吸ってハイになりながらスコーパで金かけて笑い合った。孤独な十八年で失った青春を取り戻したみたいだった。


 金を受け取った後、アルトゥーロのバールでも良く騒ぎまくった。俺とアンドレイはよく他のメンバーとスコーパで金を賭け、総ざらいして荒らしまくった。あいつのブラフは最強で、俺たちが組めば負けることなんてなかった。

 仕事もそうだ。

 俺たちが運べば絶対に失敗なんてしねぇ。アルトゥーロも俺たちのことを信頼し、次第にデカイ仕事も任されるようになった。

 ディーラーから金を受け取る時、渋る取引相手を睨みつけてナイフで脅す時、あいつが好きだと言ったこの碧眼は役に立った。震えるほど睨みつけた後、再び誰かが「狼だ」と呟いた。

 あの路地裏で、死ぬ直前に呟いた男の顔が過ぎった。


 いつしか俺は、「狼」と呼ばれるようになっていた。

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