ヴェローナの鼠-3
だが考える暇も無く銃声が響き、アンドレイを捉え損なった銃弾が空瓶を吹き飛ばした。破片が石畳に散り、雨に混じる。俺は肩が跳ね、「クソッ!」と叫び、ゴミ箱に身を縮めた。雨が首筋に冷たく流れ、死の予感に頭を振るが、アンドレイの声で我に返った。
「リカルド、今だ! 行け!」
すぐさま震える手で麻袋を握り、俺は走った。横目で確認すると、ナイフを振りかざして男に突っ込む姿が写る。
(あいつなら大丈夫だ。すぐに追いかけてくる……)
情けなく、祈るように内心で呟く。
刃は男の腕を切り、血が石畳に落ちていった。男は痛みと怒りで顔を歪ませるが、アンドレイの腹にナイフを沈ませた。路地に鈍い音が響き、泥濘に倒れてうずくまり、震えるアンドレイの背中に足が止まる。
「嘘だろ……アンドレイ! ……おい、こっちだ!」
奴の元へ走るが、街灯に光る銃口がこちらを向き、恐怖で足が動かなくなる。何とか震えを誤魔化し、ゴミ箱からレンガを拾うが、焦りと雨、手の震えにレンガを滑らせて石畳に落とした。
「クソッ!」
拾い直して男目掛けて投げると、放物線を描いて頭に直撃し、膝をついた。男は血と雨に濡れた頭を押さえ、ふらつきながら再びベレッタを構える。男が倒れる直前、放たれた銃弾は俺の左腕を掠めて肉を抉った。革ジャンが裂けて血がシャツに滲み、荷物が石畳に転がる。俺は歯を食いしばり、初めての痛みに堪えた。
「ぐぁ……いてぇ……!」
「荷物を寄越せ!」
もう一人のナイフを持った男が俺に向かう足元を、アンドレイは力を振り絞り、足の甲にナイフを突き立てた。男は膝を付き、呻きながら倒れ込んだ。
泥濘んだ地面には三人の男が倒れ、路地は再び雨が石畳を叩く音だけを響かせている。
俺は左腕を押さえながら奴の元へ行き、肩を支えて立ち上がらせる。
「無茶しやがって……」
「はは、いけると思ったんだけどな」
こいつは軽く笑って泥濘に足をつくが、アドレナリンが切れたのか腹の痛みに呻いた。雨が血を洗い流し、石畳が赤黒く光る。
「よくもブルーノとマッテオを……逃がさねぇ」
背後から声がし、振り返ると頭から血を流した男がベレッタを構えている。
「もう無理だ、逃げるぞ!」
俺たちは走り出した。路地裏に置かれたバイクにアンドレイを押し込み、エンジンを吹かす。銃声が二発聞こえたが、弾切れを起こしてバンのライトが再び路地を照らした。俺はバイクを走らせ、ヴェローナの薄闇へと消えていった。
◇
アディジェ川の橋の下、雨が川面を叩き、黒い波が街灯を映す。
俺の腕から血が滴り、ジャケットが雨で重く、握ったハンドルが震える。アンドレイは後ろにしがみつき、腹を押さえて喘いでいる。背後からはバンが追い、俺の呼吸は荒く、焦りと恐怖で乱れる。
古いドゥカティを全開にし、橋の下の細道に突っ込むが、痛みと雨でタイヤが石畳で滑り、ハンドルを誤ってコンクリートの柱に擦った。しかし、バンのライトがすぐ後ろを追い、男が「止まれ!」と叫ぶ。
「クソくらえだ!」
俺は唸り、細道の曲がり角でバイクを傾けた。ヘッドライトがコンクリートの柱を切り、雨粒が光に散っていた。バンは細道に入れず、クラクションと喚き声が遠ざかっていくと、しがみついていたアンドレイは俺の肩を叩く。
「最高だ! 死んだかと思ったぜ!」
「馬鹿野郎! 生きてんだろ!」
俺は叫び、雨の中笑い合った。エンジン音を響かせて走る最中、不思議と痛みは消えていた。
血と汗が混じる中、バイクを指定場所へと走らせる。川の黒い波が遠くで揺れ、ヴェローナの闇が後ろに消えていった。
◇
川沿いの廃倉庫に着くと、黒いセダンが止まっている。中で待っていた取引相手には、俺たちのボロボロの姿を見て驚かれたが、一千万近くする麻袋を渡して無事に終えた。その後アンジェリカとニーノとの合流場所へ向かい、俺たちはアディジェ川沿いのアパートへ向かった。もちろん、アンドレイはアマローネを手に。
「それにしても酷い怪我だな」
「問題ねぇ。中身は逸れてるから消毒して寝りゃ治る」
「相変わらずタフなことで」
ハンドルを切りながらニーノが笑った。アディジェ川を渡る橋を走り、遠くの街灯が川面に反射していた。
「バイクなんてあった?」
「パドヴァのバイクだ。鍵かけてあったからそのまま使った」
「へぇ、さすが脱走兵。逃げ足は早いね」
「うるせぇな」
アンジェリカが冗談ぽく笑い、だが俺のちっぽけなプライドが邪魔して吠えた。アンドレイは横でつられて笑ってたが、時々脇腹を押さえて呻いていた。
「こいつのおかげで死なずに済んだんだ。……俺は護衛役なのに、情けねぇな」
「俺は……ゴミ箱で震えてただけだ。情けねぇのは俺の方だよ」
「感謝くらい素直に受け取れよ。ありがとな、相棒」
ふいにアンドレイから「相棒」と呼ばれ、俺は面食らって見つめた。奴もしばらく見つめ返してたが、やがて目を細め、
「俺が変なこと言ったみてぇで恥ずかしいだろ」
と頬を軽く叩かれた。
ニーノはバックミラーから俺たちの様子をチラ見して「喧嘩なら賭けようぜ」と笑う。助手席のアンジェリカは「私はアンドレイね」と言うから俺は思わず座席を蹴った。後でアンジェリカから渡された取り分は少なかった。
車内ではどんな会話をしたか覚えていない。だが、他愛のないことでずっと笑ってた気がする。
とにかく、これが終われば認められる。腕の痛みは笑い声にかき消されていった。アパートへの路地を窓から見つめ、反射する自分と目が合った。笑い声が遠くに聞こえる。
初めて人を殺した感触はずっと残り続けていた。指先から伝わる熱と、必死にもがく喉元。窓から目を逸らしたが、肩に当たる奴の笑い声で前を向いた。
エンジン音が止み、俺たちは時々うめきながら降り立ち、必死になってアパートの三階を登った。
◇
一年後の一九九二年の初夏。
ヴェローナの夏は蒸し風呂みたいに湿っぽく、夜になっても石畳が熱を放っている。
俺はすでにこいつらの仲間になっていた。相棒のアンドレイ、アンジェリカ、ニーノ。四人で共に麻薬や武器を運び、街の裏通りを走り回った。
アディジェ川沿いの古いアパートの三階が俺たちの溜まり場で、窓を開けると川の腐った匂いとディーゼルの排気ガスが流れ込んでくる。
三ヶ月が経った頃、夜の仕事を終えて集まっていた時だった。丸いテーブルに札束を山盛りにして、奴が俺に銀の鍵を放り投げた。
「金庫はお前が管理しろよ」
「俺が?」
「信用してるからな。アルトゥーロも期待してるぜ」
鍵は冷たく、掌に重かった。
「信用」、「期待」、今までの人生そんな言葉言われたことなんてなかった。単純な俺は胸が熱くなって、鍵をポケットにしまい込んだ。
アンジェリカは赤髪のショートヘアで、いつも赤い口紅を塗っていた。アレーナの裏路地で金を受け取り、タバコを咥えながら指先だけで金をパラパラとめくる。
タバコについた真っ赤な口紅と、石畳に落ちる夕陽が彼女の髪を燃えるように照らして、俺はつい見とれた。
「ほら、アンタの分だよ」
そう言って、いつも俺の分を少し多めにくれた。
ニーノは年長で細身の男だ。ヘラヘラとしてるが、ハージムを引き入れたのはこいつらしい。ふざけた男で、いつだったかこいつが酔って、ピアンサ・ブラ広場で俺を的にナイフ投げをした時、脇腹を掠めて喧嘩になったことがある。
「よかったな、ガキ! 傷が増えるのもギャングの証みたいで」
「身内にやられたんじゃ格好がつかねぇだろ!」
そう言って胸ぐらを掴んだが、ヘラヘラと笑っていて俺も呆れてつられた。今でも腹に薄くかすり傷が残ってる。
仕事が終わると、アンドレイのアパートへ集まる。窓から見ればアディジェ川が黒く光って、遠くで列車の汽笛が鳴る。
タバコの煙が天井を這い、コカインを吸ってハイになりながらスコーパで金かけて笑い合った。孤独な十八年で失った青春を取り戻したみたいだった。
金を受け取った後、アルトゥーロのバールでも良く騒ぎまくった。俺とアンドレイはよく他のメンバーとスコーパで金を賭け、総ざらいして荒らしまくった。あいつのブラフは最強で、俺たちが組めば負けることなんてなかった。
仕事もそうだ。
俺たちが運べば絶対に失敗なんてしねぇ。アルトゥーロも俺たちのことを信頼し、次第にデカイ仕事も任されるようになった。
ディーラーから金を受け取る時、渋る取引相手を睨みつけてナイフで脅す時、あいつが好きだと言ったこの碧眼は役に立った。震えるほど睨みつけた後、再び誰かが「狼だ」と呟いた。
あの路地裏で、死ぬ直前に呟いた男の顔が過ぎった。
いつしか俺は、「狼」と呼ばれるようになっていた。




