ヴェローナの鼠-2
アンドレイとの出会いから数週間後。
今俺は新品の革ジャンを羽織って裏路地の汚い廃倉庫の中にいる。少し肩が張って窮屈だ。古びた油とゴミの生臭さに、俺は顔を歪ませながら辺りを見渡す。隣には俺をギャングへと誘ったアンドレイが、ジャケットに隠したナイフを弄んでいる。
アンジェリカやニーノ達は途中で俺たちを車で拾うため別行動だ。初めて手を取った日から、アンドレイから運び屋の仕草を教えてもらった。コカインの袋はジャケットの内側に、取引相手と対峙した時は腰のナイフに手を掛けて睨みつけるだけ。睨むのは得意だ。
この日は雨で、石畳が雨で黒く光っていた。錆びたシャッターが軋み、電灯の薄オレンジが濡れた地面に揺れている。俺はタバコを咥えるが、ジッポの火がチリチリと雨に消えていった。
「そろそろ時間だ。前に教えた通り、お前は隣で睨みつけてりゃいい。簡単だろ?」
「……あぁ」
「はは、緊張してんのかよ」
そう言って笑って俺の肩を叩いた。舌打ちして誤魔化したが緊張しているのは本当だった。口の中が乾いて、情けなく声が上擦った。
アンドレイ達のボス、アルトゥーロに条件付きの"仮入社"を許されてから数回目の運びの仕事。
数時間前、アルトゥーロから麻袋に入った数百万リラの薬物と密輸武器を手渡された。ずっしりと重く、支えていた腕が震えた。
アルトゥーロは灰皿にタバコを押し付け、
「今回はパドヴァと警察どもが嗅ぎつけてる。しくじれば殺す」
と低く唸った声がいまだに頭にこびりついて離れない。
運び屋は常に緊張を強いられ、警察に見つかれば逮捕、ライバルギャングに見つかれば暴行や殺害の危険があった。ナイフや小型拳銃を携帯することも多く、常に危険と隣り合わせの緊張感。
「今回は護衛役も兼ねてる。何かあっても、俺がいるから心配いらねぇよ」
「……そうだよな、お前がいれば、問題ない」
俺は祈るように呟き、肩にかけた麻袋を握り締めた。雨が顔を叩き、革ジャンが濡れて肩に重く張り付く。
「これが終わればお前も俺たちの仲間だ。早く終わらせて、帰りにアマローネでも買って帰ろうぜ」
ヴェローナの時計塔が遠くで鳴り、夜二時の静寂を裂いている。
通りを避けるように路地を抜け、警察や人目を警戒して進む。進むたび、石畳の濡れた匂いに、生臭い匂いが混じる。近くで酔っ払いが呻き、道端では浮浪者が雨を凌ぐように寝転ぶ。俺たちは廃工場の裏手まで走り、周りを警戒しながら静かな通りを歩く。
「ここまで来ればもう大丈夫だろ」
アンドレイは笑いながら軽口を叩き、ジャケットに手を突っ込んで肩を合わせる。
俺は周りを警戒していたが、その言葉に安堵の息をつき、肩の力を抜いた。
肩に食い込む重みに緊張は走るが、護衛役としてそばに居るアンドレイの存在に自然と口元が緩む。
路地を歩きながら、ふと奴に助けられた日のことを思い出した。別に感傷に浸ってたわけじゃないが、聞いてみたくなった。
「……あの時何で俺を助けた?」
「あ? ガキがリンチされてるの見たら、そりゃ行かねぇわけにはいかないだろ」
「リンチじゃねぇしガキじゃねぇ。それに俺から殴った」
「ははは、お前の負けず嫌いなとこ、俺は好きだぜ。それに、お前の目、俺と同じだ」
アンドレイは俺の肩を叩き、ジャケットからタバコの箱を探す。
「俺の目?」
「地獄を知ってる目だ。お前なら、俺と一緒に……」
奴が言いかけた時、後ろから突然ヘッドライトが追い、通りが明るく照らされた。その瞬間アンドレイは叫んだ。
「尾行だ! 路地に入れ!」
俺の肩を押して路地に押し込む。足元の泥濘に足を取られながら走り、アンドレイもその後ろを追った。
ヘッドライトが雨を照らし、革ジャンから水が滴る。アンドレイのバンダナは濡れて首に張り付き、灰色の目が鋭く光り、暗闇を睨んでいる。その先でヘッドライトが照らされ、バイクから鉄パイプを持った男が立ち塞がるように待ち構えていた。
後ろを振り返るとバンのライトが眩しく、ベレッタとナイフを持った二人の影が立っていた。
銃口がこちらを向き、その瞬間奴は俺を引き寄せてゴミ箱に身を隠した。
「……気付かなかったな」
「アルトゥーロの言ってた奴らか?」
「あぁ。野郎のケツ追いかけて来るなんて、いい趣味だぜ」
奴はこんな状況でも冗談を言って笑っていた。それが俺の震えを少しマシにした。ゴミ箱から様子を伺うが、威嚇するように直ぐに銃声が鳴り身を縮めた。目の前には鉄パイプを持った男が近付き、挟まれたまま動けない。俺は麻袋を握る手が震え、銃声がゴミ箱を貫く音に再び肩が跳ねる。アンドレイはナイフを抜き、鉄パイプの男に向かった。
「リカルド、お前は荷を守っとけ」
鉄パイプが壁を擦り、火花を散らしてアンドレイに振りかざすが、身をかがめて避けた。そのままナイフを手に男の懐へ飛び込む。
「クソガキ……がぁ!」
すぐにシャツが血で滲み、男は口から血を零しながら叫ぶがすぐにうつ伏せに倒れ込んだ。血溜まりが雨と混ざって広がっていく。
吐き気を催した。人の死を間近で見るのは初めてだった。
だがすぐに背後から銃声と「荷を渡せ!」という怒鳴り声が響き、奴は再びゴミ箱に戻ってきた。身を隠し、転がった鉄パイプを手に取った。すでにアンドレイによって目の前の道は開かれた。俺は男の血溜まりを避けながら叫んだ。
「アンドレイ、もういいだろ! 早く逃げるぞ!」
「いや、まだだ」
アンドレイの髪は汗と雨でべったりと顔に張り付き、目はアドレナリンで煌めいていた。火薬と血の匂いに、こいつの後ろに戦場が見えた気がした。
そうだ、こいつはこういう状況の中生き伸びてきた。これがこいつの日常だったのだと思わされる。
ギラついたまま奴はベレッタとナイフを持つ2人に向かっていった。前方に素早く鉄パイプを投げ、ベレッタを持つ男にぶつける。
俺は情けなくゴミ箱に縮まっていたが、倒れた男が「うぅ……」と呻きながら手をついた。俺は死んだと思ったその男に気が動転して咄嗟に頭を蹴った。
仰向けに転がった男の目が俺の目とぶつかる。男は目を見開いて何かを言いかけていたが、俺は男の顔に拳を沈めた。何度も何度も。そして男の首に手を掛けて体重を乗せた。もがく手を足で押さえ、指を食い込ませた。息をしようと喉仏が上下に動くのが指に伝わる。男の目から光が無くなる直前、
「お、狼……」
男はそう呟くと、最後に息を吐いて動かなくなった。血の混じった水溜りに映る俺の目は、街灯に反射して狼みたいに光っていた。
人を殺した。
その事実に俺は手が震え、思わずゴミ箱に背中をぶつけた。




