ヴェローナの鼠-1
一九九一年、イタリア北部の街、トレント。
静寂の森の中、迷彩服に身を包んで月明かりを頼りに走る。昨夜の雨で地面はぬかるみ、ブーツに泥が跳ね踏み出す度に沈む。心臓が喉で跳ね、息が上がる。
「脱走兵だ! 金網を越えたぞ!」
上官の怒号が遠くで響き、警笛の甲高い音が耳に刺さる。
「規律なんざクソ喰らえだ!」
三ヶ月前、俺の元に徴兵の手紙が届いた。
すぐに健康診断が行われ、軍に徴兵された。トレントの兵舎に配属されたが、厳しい規律と上官の扱きという名の暴力に耐えられず衝動的に逃げ出した。
家族、学校、社会、規律。全てが俺を縛り付ける鎖だった。俺は俺のやりたいことをやる。学校をサボり出してから居座っていたタトゥースタジオでクソガキと罵られても、ひたすらに針とインクに向き合う方が俺にとっては自由だ。
俺は逃げたんじゃねぇ、自由を選んだだけだ。
ヴェローナまで戻り、俺は路地裏の小汚いバールに入って酒を飲み、隠し持っていたタバコを吸った。周りは地元の連中ばかりで、そいつらが俺の金髪に釘付けになっていたが、別に見惚れてるわけじゃねぇ。
この時の俺は十八歳で、母親譲りの金髪がまだキツく、ヴェローナじゃとにかく目立った。グラッパのグラスを煽っていると、太った髭の男が一人俺に近付いてくる。
「クソ移民が。何でてめぇみたいな奴がのんびり酒なんか飲んでんだ? 早くてめぇの国へ帰れ」
そいつが酒臭い手で俺の肩を押すが、周りはただ静観している。もうこんなのは慣れてる。俺はいつものように「うるせぇ、俺の勝手だろ」と言ってただそいつを睨み返す。碧眼で見られると睨まれてるように見えるらしいが、俺は睨んでるんだ。ほっといてくれってな。そいつも碧眼が気に入らなかったのか、胸ぐらを掴んで立ち上がらせた。ここまで来ればもう殴り合いだ。
俺はそいつの顔面に右ストレートをぶち込み、そいつは俺の腹に拳をぶち当てる。思わず咳き込んだが、周りの奴らも加勢してくるから今更後戻りなんか出来ねぇ。
囃し立てる声と俺を罵る声、店主が止めに入るが止められるわけがない。テーブルをなぎ倒し、酒瓶が床に散る。
これなら見惚れられてた方がマシだった。いや、気持ち悪いな。
「工場が潰れて仕事がねぇのはてめぇらのせいだ!」
「うるせぇ! 俺に関係ねぇだろ!」
威勢よく俺から殴りつけたが、この日は人数が多かった。床に転がった拍子にそのまま蹴られ、唾を吐きかけられた。工場がないだの仕事がないだと何かと俺に理由を押し付けるのは地元の失業者だ。
この時のイタリアは移民政策が推し進められたせいもあって、失業率は急激に増えた。こいつら失業者にとって、移民のように見えるこの金髪が憎いんだろう。
「俺はイタリア人だ! クソッタレ!」
血を吐き出しながら俺も意地になって吼えた。殴り殴られ、白いシャツがそいつらと俺の血で真っ赤に染まっていく。
「嘘で俺たちの仕事を奪う気か! クソガキ!」
殴られた拍子に椅子に手をつくが、息を整える暇もなく、俺の金髪を乱暴に引っ張り再び拳をぶち込まれる。ブチブチと髪が抜ける音がして、目の前を細い金髪が舞い落ちていく。
俺の髪は、小さい時にはもっと鮮やかな金色で、近所のチンピラや学校でも移民野郎だとよく殴られた。家でも同じだ。母親が死んでから父親は酔った勢いで俺の金髪碧眼がムカつくってくだらねぇ理由でベルトで何度も殴ってきた。
家と学校から飛び出し、タトゥースタジオに居座るようになってようやく居場所を見つけたってのに今度は徴兵だ。上官も同期も俺を本当にイタリア人なのか?と嘲笑い、睨まれたと難癖つけて何度も殴られた。だから俺はあそこから抜け出した。
やっとヴェローナまで戻ってきたってのにまた殴り合いだ。
どこにも俺の居場所なんかねぇ。
どこに行ってもよそ者扱いだ。この金髪を憎く思ったこともあるが、染めることは絶対にしなかった。俺は負けず嫌いなんだよ。俺は再び睨みつけ、掴まれた手を振り解いて拳を振り上げた。
その時だった。影が俺の前を遮るように飛んできて、目の前の男が飛んで行った。木の樽がボーリングのピンみたいに吹き飛んだ。
「ガキ一人に何集ってんだ! そんなに移民がムカつくってんなら俺を殴ってみろよ!」
肌は色黒で、黒髪に天然パーマがかった短髪の男が叫んだ。横には女一人と男一人が立っている。そいつらは怒鳴るなり、連中と殴りあった。怒号と瓶の割れる音がうるさく響いている。そのまま他の連中と殴り合い、その度にテーブルをなぎ倒してぶっ飛ばしている。いきなり現れたそいつが殴り飛ばしていくのは、見ていて爽快だった。
大方片付いたあと、俺はそいつらと逃げるように店を出た。店主が見かねて通報し、警察のサイレンが遠くから聞こえて来たからだ。黒髪の男に肩を支えられて走るが、ブーツが泥と血で重く感じた。
頬は腫れ上がり、唇が裂けて夏の空気が鋭く染みる。
「動けるか、ガキ!」
横にはさっきの鋭い目つきの女と、小枝みてぇに細い男が後ろを気にしながら並んで走っている。路地の壁には赤と青のサイレンが照らす。
「アンドレイ、右の路地だ!」
女が叫び、俺たちは細い路地に滑り込む。
遠くのサイレンと警察の声に耳を傾ける。流れで着いてきてしまったが、この状況は何だかよく分からなかった。
「どこ行くんだよ?!」
不愉快な血の味を噛み締め、俺は息を切らして叫んだ。
「黙ってついてこいよ! ヴェローナで安全な場所は俺らが知ってる!」
黒髪の男は天然パーマを汗で濡らし、俺に振り返って白い歯を見せた。
こいつの笑顔、乱闘をぶち壊した余裕に俺の鎖が砕ける気がした。殴られた顔、蹴られた肋骨の痛みが消え、足が軽く感じた。
◇
俺たちは逃げ切り、細い路地の奥にたどり着くと錆びた鉄扉が現れる。看板もない、煤けたバールだ。女がノックを三回、二回のリズムで叩くと、ドアが軋み、目つきの悪い顔面タトゥーだらけの男が顔を出す。
「アンドレイか。騒ぎか?」
「ガキを拾った。警察がうるせぇから入れてくれよ」
独特の訛りでアンドレイは笑い、嫌な音と共に扉が開かれると俺を中に押し込んだ。
店内はタバコの煙と安酒の匂いが漂い、思わず俺はむせ返った。木のカウンターは傷だらけで、壁には黄ばんだフェラーリや裸の女のポスターが貼ってある。奥のテーブルでは革ジャンを着たギャング風の男が4人でトランプを投げている。ラジオからはカンツォーネが流れ、裸電球がチラつく。
俺は壁に寄り、血まみれのTシャツの襟元を軽く引っ張ると、汗と血で張り付く金髪を手でかき上げて見渡す。ここが堅気の場所じゃないことくらい、学のない俺にも分かる。
アンドレイたちは空いていたテーブルに座り、店主にペローニを注文する。タトゥーだらけの店主がカウンターに瓶を四本叩きつける。
「で、何で一人であんな人数と喧嘩してた? あのバールでボコられてた理由、吐けよ」
アンドレイはテーブルにどかっと座り、薄い緑色の瓶を傾けながら、灰色の目を向けて舐めるように見る。
俺はアンドレイに顎で促されて椅子に座り、置かれた瓶を手に取る。
「……トレントの兵舎から逃げた。軍のクソみてぇな規律と暴力、全部クソ喰らえだった。必死こいてヴェローナまで戻ったが、あいつらが俺の金髪を見て移民呼ばわり。で、殴られた。いつも通りだ」
「ハッ! お前、脱走兵か! いい根性してんな」
アンドレイはマッチを擦り、タバコに火をつけながら笑った。硫黄臭とタバコの匂いが鼻を刺した。
「金髪でイタリア人? 珍しいね」
隣の女もタバコの煙を吐き出しながら鼻で笑った。こいつはアンジェリカという。
「金髪は母親譲りだ。親父には俺の金髪碧眼が気に入らねぇってんでベルトで殴られたよ。学校でも軍隊でもそうだ。俺の居場所はタトゥースタジオだけだ。インクと針だけが自由だった。徴兵でまた縛られたから、俺は逃げた」
俺は瓶を見つめながら呟いた。小枝みたいな細身の男、ニーノは「軍の規律なんてクソッタレだ。俺も逃げたかったぜ」と半分本気で冗談を言って笑ってた。
「自由、ね」
やがて話を聞いていたアンドレイが立ち上がり、革ジャンの襟を正した。バールの電灯が奴の天然パーマに影を落とし、灰色の目が燃えるように見えた。
「俺はレバノンの難民キャンプにいた。クソッタレな紛争で家族を殺され、十二歳で初めて人を殺したよ。その後キプロスで船に乗ってイタリアに逃げた。ヴェローナで移民扱い、殴られ、唾を吐かれた。てめぇの金髪と同じだ」
俺はグラスを握り、自分と同じ移民差別に遭いながらも、未だ光が消えぬアンドレイの瞳を碧眼で刺す。
「で、なんでてめぇはこんな連中と?」
アンドレイが笑い、浅黒い肌に白い歯が光る。
「ギャングだ、ガキ。アルトゥーロの組織、麻薬、金、この街も全部俺が掴む。規律? 家族? 警察? クソくらえだ。戦場で学んだ──自由は奪うモンだ。鎖は自分でぶち壊す。俺はヴェローナの路地で拳を握り、アルトゥーロの運び屋になった。ナイフも銃も、俺の意志だ。てめぇのインクと針と同じだろ?」
アンドレイの言葉を聞いて俺の胸は熱くなった。戦場を思わせる冷たい灰色の目は、俺の目を逸らせなくさせた。あいつの声は低く、戦場の硝煙とヴェローナの血を運ぶ。タトゥースタジオの針の振動、インクの匂いが脳裏に蘇った。社会、父親のベルト、上官の拳──居場所のない絶望が、こいつの「自由」に砕ける気がした。
「ヴェローナの道に精通してるなら、使えるんじゃない?」
アンジェリカがタバコを灰皿に押しつけて鋭い目でアンドレイを見遣り、ニーノはアンジェリカの肩を叩き、
「無責任にガキを担ぐなよ」
と言うとアンジェリカとニーノは言い争い、椅子から立ち上がって声を荒らげていた。だが、アンドレイは俺から目を逸らさなかった。声が遠く、時間が止まったみたいに感じた。奴の冷たい目から逸らせずにペローニを煽るが、血の味が喉に残る。
「てめぇの金髪碧眼、俺は嫌いじゃねぇ。負けず嫌いの目だ。アルトゥーロに会えよ。てめぇの鎖、全部ぶち壊せるぜ。運び屋は血じゃねぇ、金と麻薬を動かすだけだ。てめぇの針で彫るみたいに、自由に生きるんだ」
こいつの言葉に俺は碧眼を揺らした。ビールの熱が腹を焼き、タバコの煙が肺を満たす。バールの闇で、こいつの革ジャンが自由の匂いを放つ。レバノンの戦場、12歳で銃を握った男の言葉が俺の心を撃つ。トレントの森、父親のベルト、タトゥースタジオの針──全部がアンドレイの「奪う自由」に溶ける。
俺はグラスを置くが、血まみれの手が震え、金髪が電灯に光る。
「……その自由、俺でも見れるのか」
声は掠れ、だが碧眼に火が宿った。
奴は笑い、俺に手を差し出す。
「お前なら見れるさ。お前、名前は?」
「……リカルドだ」
「……自由を見に行こうぜ、リカルド」
俺はアンドレイを見つめ返し、その手を握り返した。
これが俺とかつての相棒、アンドレイとの出会いだった。




