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インク アライブ  作者: おーひょい
ロザリア像の下で
20/27

海の向こう側-3

「不法滞在の匿名通報があった。身分を証明できる物を」


 不法滞在という言葉にオリヴィエは喉をひゅっと鳴らした。

 いつかはバレていたことだ。

 だが、打ち明けようと思うたび喉が締まって言葉が出てこなかった。

 警官が二人、スタジオへ入り込むや否やがさがさと作業台を漁り始めた。オリヴィエは「やめてください」と言うが、声は虚しく響くだけだった。


「身分証は……ここにはありません」

「では、早く持ってこい」


 警官の鋭い視線が刺さる。その視線にリカルドの顔がチラついて、申し訳なさと焦りで拳を握り締める。


「ないのか? どっちなんだ?」

「……」


 痺れを切らした警官はオリヴィエへ近付き、拘束しようと肩へと手を伸ばす。

 だが、オリヴィエは手を振り解いて走り出した。警官を押し除け、スタジオを飛び出す。

 警官の「Fermati!(待て!)」という叫び声が背中に突き刺さる。


 路地を駆け抜ける間、黒い雲から雨粒が落ちてきた。石畳が雨を跳ね上げ、靴底が滑りそうになる。黒い雲が海から押し寄せ、一気に空が暗くなる。

 ポツポツと降り出した雨は直ぐに土砂降りの雨となり、走るたび顔に雨粒が当たり、湿気のこもる空気が息を吸い込むたびに肺を刺激して目を細める。


(ごめんなさい…ごめんなさい…)


 スケッチブックを抱え、路地を曲がり、またその先の路地を曲がるが警官の声は遠ざからない。

 広場へ向かう路地を曲がる時だった。後ろを振り返り、曲がり角に差し掛かったオリヴィエは誰かの影にぶつかった。


「うっ」

「うわっ、ごめんなさい! あ……」


 顔を上げれば、手で顔を覆ったリカルドが怪訝な顔でたっていた。「お前……」と言いかけた声は、後ろから迫ってくる警官の姿を見つけて途切れた。

 リカルドの青い瞳は、息を切らす警官と、唯ならぬ様子のオリヴィエに警戒の色を出し、自身の胸に飛び込んだオリヴィエを無意識に後ろへ誘導した。


「おい、何なんだよ」

「はぁ、はぁ、お前の後ろの奴に、不法滞在の容疑がかかってる……お前が雇用主か?」

「……不法滞在? なんの事だ?」


 リカルドは目を伏せ、背中で拳を握るオリヴィエを肩越しに見遣る。抱えたスケッチブックがかたかたと小さく震えている。


「お前まさか……」


 翡翠色の瞳は潤み、薄金色の髪が頬にへばりつき、雨粒が顔を滴って涙のように流れ落ちた。


「ごめんなさい」


 ただ一言、リカルドへ呟くと再び広場へ飛び出して横の路地へ消えていった。

 警察が「おい!待て!」と叫んで、ただ茫然と立ち尽くすリカルドを押し除けてオリヴィエの後を追った。突然の出来事に、リカルドは立ち尽くす。


「何がどうなってる……?」


 不法滞在と言ったか?聞き間違いか?

 いや、警察に追われるオリヴィエを見ればそれが事実であることはわかる。

 だが、何のために?なぜそんなリスクを負ってまであのスタジオにいた?


 そうまでして、お前がシチリアで生きる意味ってなんなんだよ。


「そこまでする価値が、俺にあるのかよ……」


 足元に落ちたオリヴィエの麻袋を手に取り、雨に打たれて握りしめた。



 オリヴィエはスケッチブックのみを手にひたすらに走り続けた。

 路地裏を左右に曲がり、ゴミ箱の裏に隠れながら警察をやり過ごした。走り続けていたせいで足の裏がジンジンと痛む。九月と言えど、土砂降りの雨と潮風の混じる風は冷たくなっていた。思わず飛び出したため、服も薄手のシャツのみで、雨で張り付いたシャツが体を冷たく締め上げる。


「寒い……」


 震える手を握りながら呟く。

 今までローマやナポリでも路上生活を送ってきた。これくらいは慣れているはずなのに……今日は違う。今回は、失うものがあまりにも大きすぎた。

 暗くなった雲から絶え間なく雨が降り注いでくる。オリヴィエはゴミ箱の裏で、スケッチブックを守るように背中を丸めた。


 これからどうするべきか。

 ペンションにも警察は来ているだろうから戻ることは出来ない。かと言ってスタジオに戻ればリカルドに迷惑を掛けてしまう。

 「まさか……」と言った時のリカルドの目が頭から離れない。

 きっと失望させた。過去を針で触れたいなんて、自分には最初から無理な話だったのだ。


「わかってたはずなのに……こうなること」


 雨に濡れた髪が頬に張り付き、耳に掛け直すが手が震えて上手く動かない。雨でぐしゃぐしゃになったスケッチブックを開こうとするが、水に濡れて張り付き叶わなかった。


──怖がりながらでも、針を刺したいと思ってるんでしょ。それって、すごく優しいことだよ。


 路地裏でソフィアが優しく言った言葉が頭に浮かぶが、雨がそれをすぐに流していく。

 針を刺す場所も、刺す相手も失った。

 オリヴィエはただ心の中で「ごめんなさい」と呟き、そのまま眠りについた。



 どれくらい時間が経ったのか。

 雨に濡れる体はすでに感覚を失い、意識が朦朧としていた。目を開けようとするが、相変わらず降り続く雨がまつげを叩き、視界がぼやける。

 だが、ふとタバコの匂いが鼻を刺した。


「リカルドさん……?」


 顔を上げると大きな影が煙を纏って立ち尽くしていた。傘もささず、革ジャンが雨を弾いて肩から水が滴る。タバコの火が、雨に濡れて短くなってゆく。


「こんなとこで何してんだよ」


 声は掠れ、低く唸るような声に少し安堵するが、すぐに目を伏せた。


「ごめんなさい。本当はここにいちゃいけないのに、リカルドさんの傍に……いたくて……」

「そんなことどうでもいい」

「ごめんなさい」

「意味もなく謝るな。俺が悪いみたいだろ」

「僕が、全部……」

「わかったから。戻るぞ」

「いやだ。迷惑……かける……」

「クソガキが」


 リカルドは唸るように言うと、蹲るオリヴィエを抱き抱えるようにして背負った。

 ふわりと体が浮かび、オリヴィエはただリカルドの肩に体重を預けることしか出来なかった。濡れた皮の匂いと、タバコの匂いに少し安心した自分に嫌気が差す。リカルドが歩くたび、肩に脇腹が刺さって痛いのに離れられない。

 土砂降りの雨が二人を叩き、街灯の光が滝のように降り注ぐ。石畳を叩くワークブーツの足音と、雨音だけが路地に響いている。


「不法滞在は本当なのか」


 唸るような声が聞こえる。


「それは……そうです……」

「……不法滞在のまま店に居続けられると迷惑だ」

「……」


──やっぱり。そりゃそうだよな。


 諦めと仕方がないという絶望感が混ざって、体が脱力していくのがわかった。

 このままあの人のことも分からず、シチリアで見つけた生きる意味を失って、再びハンガリーへ戻るのかと思うと、全てが無に帰すような絶望で涙が勝手に溢れてくる。


「分かっています。明日には、警察へ……」

「お前は、必死になって逃げた先がそれで本当にいいのか。俺に食らいついて、シチリアで生きるんじゃなかったのかよ」

「……それは、最初から無理な願いだった。それも忘れて…身の程知らずの願いだった……」

「そうかよ」


 リカルドはそう呟くと、突然抱えたオリヴィエを下ろし、路地のゴミ袋の山へと放り投げた。

 落ちた衝撃で生ゴミが溢れ、湿気を含んだ石畳と生臭さが混じる嫌な臭いが鼻を刺すが、オリヴィエは抵抗する力もなくゴミ袋に体を預ける。

 弱々しく見上げた先で、リカルドが見下ろす。降り続ける雨よりも冷たく感じた。


「てめぇの執着ってのはそんなもんだったのか。俺をその気にさせたのは、てめぇのしつこさが原因だろ」


 見上げた顔は、青い瞳が暗闇に浮かび、鋭い視線はオリヴィエの記憶にある″狼みたいな目″のようだった。


「選べ。諦めて帰るか、俺に頭下げてシチリアに残るか」


 ハンガリーへ強制送還されれば孤児院生活に戻り、二度とシチリアへ戻ることは叶わないだろう。ヴェローナの路地裏、冷たい雪の感触と兎の目に重なったリカルドの青い瞳。夢で見た景色が蘇る。

 オリヴィエの手が少し震え、それからぎゅっと両手を握りしめて首を弱々しく振った。


「もう、逃げたくない……! ここにいたい。リカルドさんのそばに……」


 オリヴィエの手が震えているのに気付き、リカルドは目を伏せると「そうか」とだけ一言呟いて黙った。



 スタジオに入るとインクと消毒液の匂いが迎え、オリヴィエは雨と風の冷たさから逃れて安堵の息をつく。雨に濡れた冷たさが、室内に入ると一気に感じられる。

 安心感からか、オリヴィエは雨の冷たさと疲労でリカルドに凭れるようにして倒れ込んだ。小さく何かを言いかけたが、そのまま意識を失った。


 倒れ込んだ細い体が、ほんのりと熱を持っていることに気づく。


「お前、また熱かよ」


 鼻で笑い、そのまま自室へ向かってベッドへ優しく降ろすと、オリヴィエを横にした。リカルドは黙ってジャケットをソファへ放り投げ、キッチンへ行ってモカポットに火をかけた。コポコポと沸騰する音がして、エスプレッソの暖かな匂いが部屋に満ちていく。


 コーヒーカップをテーブルに置くと、リカルドは椅子を引き寄せた。背もたれにどっしりと座り、ベッドで横になるオリヴィエを見つめる。

 コーヒーの匂いと雨がトタンの屋根に当たる音が静寂のスタジオに響く。

 静寂を割いたのはリカルドだった。


「初めて会った日も、お前は寝てたな」


 数ヶ月前のサンタ・ロザリア祭りの夜を思い出し、小さく鼻で笑った。

 リカルドは足を組み直し、タバコの灰を弾いて見下ろす。熱でうなされ、胸が細かく上下している。


「……父さん」


 オリヴィエのうわ言に、リカルドの指がぴくりと反応した。


「寒いよ……父さん……」


 オリヴィエの頬に涙が流れ、枕に小さな痕を残す。ゆっくりと恐る恐る手を伸ばし、額に張り付いた濡れた前髪を指でそっとどけると、額に手を当てた。


「……俺は、父親じゃねぇよ」


 声は震えていた。だが、手は離れなかった。

 細かく息をするオリヴィエの額をそっと撫でると、掌に熱が伝わる。冷えた手のひらの感触にオリヴィエは小さくみじろぎ、やがて穏やかな寝息を立てた。

 リカルドはタバコを口に咥えたまま、灰がちりちりと燃えて床へと散っていく。

 窓の外、雨はまだ降っている。

 何度か額を撫で、やがて左腕を撫でて遠くを見る。


──あの日もこんな雨だった。


 リカルドの青い瞳の奥、遠い記憶、誰かの小さな背中が浮かぶ。

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