サンタ・ロザリアの夜-2
オリヴィエは祭りの余韻が残る広場へと向かった。石畳に散らばる紙吹雪と花飾り、地元民が箒を手に笑い合う中、静かにスケッチブックを開く。開かれたページには、あの日見た、太陽のスケッチが描かれている。
「……ヴェローナのあの人、どこにいるんだろう」
スケッチの線を指でなぞり、掠れた声で呟く。蹲る自分を見つめる瞳、腕に描かれた太陽のタトゥー。あの人を追いかけたヴェローナで、陽射しに照らされたあの人の後ろ姿が頭を過ぎる。
ふと見上げた掲示板に、ボランティア募集の紙を見つけた。何かの手がかりになればと、オリヴィエは正午まで広場の掃除を行った。
箒で紙吹雪を掃くオリヴィエは、途中マリアという女性に「Oi,tu!」とシチリア訛りで絡まれた。片言のイタリア語に「なんだその発音」と笑われたが、ジェスチャーを交えながら事情を話すと、魚臭い手で宿の地図を押し付けられた。オリヴィエは「グラッツェ」と遠慮がちな瞳を彷徨わせる。
「シチリアじゃ祭りの後が本番だ。楽しんでいきな」
マリアの粗野な態度と笑顔に、オリヴィエが小さく笑うと、肩を叩かれた。
それからオリヴィエはボランティアを終え、マリアから渡された地図を手に広場を後にする。汗でシャツが背中に張り付き、箒を持った手が少し赤くなっている。
石畳の道を進み、市場の喧騒が遠ざかる路地裏へ。路地を曲がると、色褪せたピンクの壁に「Casa Rosa」とペンキで書かれた小さな建物が現れる。
オリヴィエは扉の横に付いた古い呼び鈴を鳴らし、荷物を下ろす。白髪を束ねた老女が扉から現われ、トマトの汁の滲んだエプロンを着け、手を拭いながらシチリア語でぶっきらぼうに対応する。
「何だ?もう部屋はいっぱいだよ」
「でも、マリアさんがここならって……」
オリヴィエは手に持った地図を見せると、老女は紙に顔を目いっぱい近づけて目を細めると、「仕方ねぇ」と紙を奪い取り、ポケットに詰め込んでオリヴィエを中へと招き入れた。
中に入るとトマトスープの暖かな香りが鼻を刺し、空腹のオリヴィエの食欲を刺激する。そっとお腹を押さえて木の床を踏み鳴らす。階段は狭く、木が軋む音が響く。壁にはサンタ・ロザリアの絵画が掛けられ、テーブルの上には白い小さな花が雑に生けられた花瓶が置かれている。
老婆に二階を案内され、角部屋のドアを開けると、簡素な部屋が現れた。シングルベッドに、木の椅子とテーブル。窓からは路地の石畳と遠くの海が覗き、風がカーテンを揺らす。
「シャワーは共同だ。飯は自分でどうにかしな」
老女はぶっきらぼうに吐き捨て、放るようにして鍵を渡して去って行くと、オリヴィエは礼を言って狭い部屋に荷物を置いた。
ベッドに腰掛け、肩の荷物を下ろして深呼吸する。汗と埃で汚れた手を洗面所で洗い、冷たい水で顔を拭く。
「疲れた……でも、これでシチリアに残れる」
窓を開けて外を見る。
路地では、近所の子供がボールを蹴り、老人が椅子に座って昼寝をしている。遠くに海の青が光り、祭りの喧騒が消えた静けさが心地いい。ヴェローナの太陽とあの人の後ろ姿を思い出し、ペンションの軋む床や風の音に耳を傾ける。
「会えたら……ここで終わるのかな」
疲れが体を重くし、過酷な子供時代を思い出す。移民としてハンガリーからヴェローナに渡り、路上でスケッチを売りながら生きてきた。鐘の音に混ざる鉛筆の音、真っ暗な路地裏で微かな月明かりを頼りに太陽を描いた。あの頃はタトゥーとスケッチ以外何も無かった。
ベッドに横になり、目を閉じると、スタジオのインクと消毒液の匂いを思い出す。そういえば、助けられたのに彼の名前も聞けなかった。祭りの夜、路地裏で手を差し伸べられた時、朦朧とした意識の中であの人のことを思い出した。気の所為か、確信のない思いに体を起こしながら、荷物から水とパンを取り出す。
「明日、海を見に行こう。スケッチして、それで……」
と計画を立て、窓辺にスケッチブックを置いた。外から聞こえる波の音が、彼を穏やかな眠りに誘う。
◇
オリヴィエはペンション「カーサ・ローザ」で目を覚ます。夏の日差しがカーテンの隙間から差し込み、目を細めて外を見る。海の青に反射して砂浜を白く染めている。
テーブルに置いたパンと水、スケッチブックを手に身支度を済ませて扉を開けた。
シチリアに着いてからすでに3日が経った。
標準イタリア語しか分からないオリヴィエは、ジェスチャーを交えながら交流しつつ、変な発音だと揶揄われながらもボランティアを数日続けた。その間も相変わらず手がかりはなく、街中の店を巡るも、何も知らないと追い返された。もう一度あのスタジオにも行ってみたが、彼はまた不在だった。
「もう、この町にはいないのかな……」
疲れきった自分が鏡から見つめている。暗い予感を消し去るように顔を洗い、スケッチブックと鉛筆、水のボトルを手に再び海へと向かう。
朝日が水平線から昇り、海を金色に染める。オリヴィエは平らな岩に腰掛け、スケッチを始めた。時折あの日の彼の顔が過ぎりながら、太陽の輪郭や雲の影を丁寧に描いていく。
スケッチは彼の心の支えだった。五歳の時、両親が三十フォリントで買ったスケッチブックを貰ってから、手が真っ黒になるまで描き続けた。両親を失った後の孤独な孤児院生活の中でも、イタリアに渡って路上生活を送ってからも、あの人に救われてからも、ずっと自分の見てきたもの、忘れたくないものを描き続けた。
「ミラノの尖塔、アレーナ……あの人の太陽、全部ここに」
さざ波の音が彼の髪を撫でる。鉛筆が紙を擦る音が心地いい。
「また会えたら……スケッチを見せたいな」
波の線を指でなぞり、遠くの海鳥の声に顔を上げる。朝日を眺め、あの日の彼を思う。
◇
リカルドは早朝六時からスタジオでコイルマシンを調整していた。インク瓶を軽く振るとカチカチと音が鳴り、作業台に黒と青の瓶を並べる。静寂の中、窓からの波音と漁師の喚く声が耳に刺さる。
「祭りのあとで静かすぎる」
コンタクトスクリューをドライバーで回し、一度フットスイッチを踏んで音を確かめる。リカルドは舌打ちし、椅子に背を預けてタバコを咥える。
それから工具を作業台に投げ置き、立ち上がりズボンのポケットにタバコとライターを突っ込むと、海辺へ散歩に出掛けた。砂利を踏む靴音が響き、朝露で濡れた石畳にタバコの灰を落としていく。
昨日の夕方、常連客の一人が「片言の観光客が、誰かを探し回ってる」という噂をリカルドに話した。「へぇ」と軽く流したが、内心では祭りの夜、怪しい青年を気まぐれで助けた日のことを思い出していた。朝になったら叩き出すと決めていたのに、スタジオに戻ると書き置きのみを残して彼は消えていた。
「……わざわざ書き置きなんか残しやがって」
ゴミ箱の中に落ちたオリヴィエの手書きのメモを思い出し、リカルドは眉を寄せた。
二本目のタバコを口に咥え、ライターの火を近づける。不意に、視界の端で岩場で薄金色の髪が朝日に光った。後ろで束ねられた長い髪を揺らしながら、スケッチブックに鉛筆を走らせている姿に足が止まる。
「あのガキ。あんなとこで何してんだ?」
そのまま放っておこうかとも思ったが、灼熱の陽射しの中、時々海を眺めてはスケッチをする姿がリカルドの目には異様に映る。
だが、ほんの僅かな興味が湧き、変わらず不信感を抱きながらも岩場で海を見つめるオリヴィエに後ろから声をかけた。
「こんなとこで何してんだ?」
低く呼びかけ、ライターの火をタバコに当てて吸い込む。灰色の煙が鼻から漏れ、左手でTシャツの襟元を軽く引っ張る。
「あ、祭りの夜の……」
オリヴィエは翡翠色の瞳を揺らし、スケッチを手に弾かれたように振り返る。リカルドは破れたスケッチブックに一瞬目を奪われ、「ボロボロじゃねぇか」と内心で呟くが、そのページの間から覗く太陽が過去を思い出させ、煙で影を追い払う。
「この前は、ありがとう。ここでスケッチしてます。朝陽が綺麗だから」
「……お前、市場で噂になってるぞ。怪しいガキが彷徨いてるってな」
リカルドはスケッチから目を逸らし、指でタバコの灰を弾いた。その言葉に、オリヴィエは一瞬ピクリと鉛筆を動かす。
「ここ、残りたくて、広場で片付け、手伝って……マリアさんに、宿、教えてもらった」
訛りの混じる片言に、リカルドは忘れようとしていた過去の誰かを思い出させて心が粟立った。
波音に混じって、遠くの笑い声が、かつての笑いあった日々に重なる。煙を深く吸い込むと、タバコの火がちりちりと音を立てて落ちていく。
「言葉もまともに話せねぇくせにか」
煙を吹きかけて鼻で笑う。
「はい。でも、市場の人も、あなたも、みんな優しいから。シチリア、好きになりました」
朝陽に照らされる翡翠色の瞳が、リカルドをまっすぐ見つめる。純粋な目にリカルドは目をそらすと、「そうか」とだけ呟いた。吸い殻を砂に押しつけ、靴底で潰して背を向ける。
砂利を踏む音を響かせ、リカルドは手をポケットに突っ込んで去ろうとした。
「あの、名前は……」
オリヴィエの問いかけに、リカルドはそのまま拒絶するように背を向けた。下手くそなイタリア語で耳障りなはずが、純粋な瞳が頭にこびりつく。
「やっぱり、話しかけなきゃよかった」
朝露で濡れた石畳を踏み、どうでもいいだろ、と自分に言い聞かせるが、下手くそなイタリア語で自分の名前を呼ぶ誰かの声を思い出し、タバコの箱を静かに握り潰した。
オリヴィエは行き場を失った言葉とともに、リカルドの背中を見送る。Tシャツから覗く首元と両腕のタトゥーが朝陽に光り、オリヴィエはじっと見つめる。やがて潮風が煙を攫い、タトゥーを白く隠した。
「噂になってたなんて……あまり、目立たないようにしないと……」
オリヴィエは小さく呟き、鉛筆を握り締めた。警察の目を逃れた夜を思い出して手が震えるが、スケッチに波の線を加える。不安を掻き消すように朝日が空高く昇り、漁師の声とカモメの鳴き声が響く。
「でも……あの人にも、届いたかな」
オリヴィエは小さく微笑み、波のぶつかる音を聞く。潮風を髪に靡かせながら、登り始めた朝日を見つめた。




