海の向こう側-2
ソフィアに手を引かれ、路地を抜けた先でクーラーボックスを片手にマルコが手を振っていた。
「おーい! こっちだ! イチャついてないで早く!」
マルコに「グラッツィ」と笑うオリヴィエに、ソフィアは慌てて手を離して助手席へ滑り込んだ。
目を伏せて紙袋をギュッと握るソフィアの姿に、マルコは怪訝そうな顔を向けながらも再びフィアットへ乗り込む。
時刻は十五時、午後の陽射しが傾き始めた頃。
車は渋滞の中を進み、窓の外はごちゃごちゃとした街並みとクラクションを鳴らす車ばかり。途中マルコが「最後に寄るところがある」と言って、中々進まない渋滞を抜け出し、車は海沿いを走りラ・プライア海岸へと向かった。
白い砂浜に波が打ち寄せ、そのたびに砂がザラザラと鳴っている。遠くで子供たちが叫びながら泳ぎ、ビーチパラソルの赤や白が潮風にはためいている。
三人は海岸に腰を下ろし、言葉もなく海を見つめた。
水平線は太陽を写し、後ろを振り返ればカターニアの街並みにエトナ山の黒いシルエットが見渡せ、息を飲むほどに美しい。
マルコは車から持ってきたクーラーボックスを開くと、冷えたペローニを三本取り出した。
「この景色を見ながらのペローニ、最高なんだぜ。アランチーニもあればもっと最高なんだけどな」
「私アランチーニ持ってきてたんだけど、いる?」
「でかしたソフィア!」
「これ持ってきたんだから、明日の手伝いはなしでいいでしょ?」
「それはまた別問題」
ソフィアが「じゃあお兄ちゃんにはあげない!」と笑いながらマルコとふざけ合う声が波音に混ざって、笑い跳ねる声が溶けていった。
オリヴィエはその声を遠くに聞きながら、ペローニのプルタブを開けて一口飲む。炭酸が喉を通り、熱に火照った体を冷やしていく。
ソフィアから手渡された冷えたアランチーニを食べながら、欠けていく夕陽を見つめる。オリヴィエは見つめながら、今日一日の思い出を胸にしまった。
──怖くてもいい。きっとそれが、優しさになる。
砂混じりの風が頬を優しく撫でる。
誰も、何も言わない。
ただ波の音だけが、ゆっくりと時間を刻んでいった。
◇
しばらくして、夕陽が沈みきる前に三人は帰路へついた。
遠くのエトナ山は黒く浮かんでいる。ラジオからはイタリアンポップが流れていたが、マルコがチャンネルを回すとニュースへと切り替わった。
「……本日未明、ランペドゥーザ島に三十四人が乗ったボートが到着しました。うち子供が十二人、妊婦が三人。エンジンが破損した状態で漂着し、その後ボートに乗った全員の……」
ソフィアはニュースの内容に息を飲んだ。オリヴィエは抱えた麻袋を握りしめ、無言で窓の外を眺め続けた。
「……最近多いな。昨日もチュニジア沖で転覆したボートが見つかったって言ってた」
「メッシーナに橋を作るって言ってるけど、橋が完成したら移民の人達、もっと来るのかな」
アランチーニの入っていた袋を握り、ソフィアが小さく呟く。
「どうかな。そもそもマフィアも絡んでるって噂だし、工事自体やるのかどうか」
窓の外は暗くなり始め、エトナ山が黒く不気味に浮かび、沈み切る太陽が海に薄紫に反射して血のように見えた。
遠くのオリーブ畑は闇に呑まれ、ただ黒い波のように唸っている。海岸沿いに放置された古いボートが目に入る。
──あのボートに乗っていた子供達も、こんな夜の海を見ていたのだろうか。
波が船底を叩く音、エンジンが止まったあとの静寂、母親が啜り泣く声、海水で腫れ上がった唇。
もし今頃、海の上で彷徨っていたのが自分だったら……?
あの夜、たまたま撃たれなかっただけ、手に持ったライトに自分が映らなかっただけ。
マルコがラジオを切ると、再び沈黙が車の中を支配する。
オリヴィエは何も言えなかった。握りしめた指が氷のように固まって、ただじっと窓の外を見つめていた。だが、窓ガラスに映る自分の顔が別人のように見えて、思わず顔を伏せた。
快晴だった空に微かな雲が立ち込め、夕陽のオレンジは黒へと塗り潰されていく。
◇
海辺の街に到着した頃、辺りはすっかり暗くなっていた。マルコの露店に着いた時「スタジオまで送ろうか?」と言ってくれたが、オリヴィエは断り歩いてスタジオへと向かった。
いつもの散歩道も人がいなくなると少し不気味に見えた。
スタジオへ着いても明かりは消され、リカルドの自室も真っ暗だった。半開きのシャッターを押し開け、そっとスタジオのドアを開けると、嗅ぎ慣れた消毒液にタバコの匂いが強く漂っている。
先程までいたのだろう。
オリヴィエは麻袋をテーブルへ下ろし、インクと小さな紙袋を置いた。スチール棚にインクを丁寧に並べ、紙袋からカターニアで買ったピスタチオペーストを置く。
(好きな物、聞いておけばよかった。でも、これだけでも食べてくれるかな……)
隣室の暗くなった自室へ目を向けるが、やはりリカルドはおらず、それでもオリヴィエは口を開く。
「……ただいま戻りました」
誰もいないスタジオに声だけが響く。
作業台に置かれたピスタチオペーストをじっと見つめる。
マルコとソフィアの兄弟喧嘩が、いまだ遠くに聞こえる気がする。ラ・プライア海岸での夕陽、魚市場で食べた爽やかな牡蠣のレモン、アランチーニとペローニ……カターニアでの楽しかった一日の思い出が胸に広がる。
「本当に楽しかった。カターニア、凄く素敵な街で……リカルドさんのタトゥーコンペの話も、したかったな。また明日に……」
言葉を続けようとしたその時だった。
扉が勢いよく開かれ、警察がスタジオに乗り込んでくる。
「ルカーチ・オリヴィエ、お前に不法滞在の容疑がかけられている」
真っ暗になった海沿いの道に、溶けるような黒い制服を着た警察官が静かに放った。
オリヴィエの頭が一瞬で真っ白になる。
「身分を証明できる書類を見せろ」
作業台に置いたピスタチオペーストの缶が、転がり落ちて乾いた音を立てて床に落ちた。




