海の向こう側-1
土曜日の九時五十分、広場は少しざわめきを残していた。オリヴィエはペンション「カーサ・ローサ」から広場へ向かう。昨日の市場の匂いがまだ残り、潮風に乗ってサンタ・ロザリア像のスカートを揺らす。
子供たちが走り回る横を通り、石造りの露店の前へと立つ。
横には古いフィアットが止まっている。エンジンは掛かっているようだが、排気がゴホゴホと咳き込んでいていつ止まってもおかしくない。
「おはよう、マルコ」
「ボンジョルノ! クーラーボックス積んだままだから狭いけど、後ろに座ってくれ」
運転席から顔を出し、片手を振るマルコに促され、オリヴィエは立て付けの悪くなった扉を少し強めに開ける。
助手席にはソフィアがすでに乗っていて、膝に小さな紙袋を恥ずかしそうに抱えている。
「ソフィアも来たんだ?」
「……うん、お兄ちゃんに無理やり」
「違ぇよ! お前が「オリヴィエがいるなら一緒に行きたい」って言ったんだろ!」
「言ってない!」
オリヴィエは苦笑いしながら後部座席へと滑り込んだ。シートにはまだ夜露の冷たさが残っていた。
車はカターニアへ向けて国道を走る。
窓から入る風はまだ夏の残り香を漂わせ、海沿いの道を走るたび潮の匂いが強くなる。兎狩りで一度通った道、オリーブ畑と紺碧の地中海を見渡せる草原。
ラジオからはイタリアンポップが流れ、マルコは音に合わせて歌を歌いながらハンドルを叩いている。ソフィアが時々「うるさい」と文句を言いながら、紙袋をぎゅっと握りしめていた。
オリヴィエは後部座席の窓から外を眺め、ふとリカルドの顔を思い出す。
──好きにしろ。
あの時の少し不機嫌な声色が、まだ頭に残っている。
カターニアへ着いたのは十二時前だった。
市内に近付くにつれ、渋滞が酷くなっていった。クラクションが怒号のように鳴り、スクーターやバイクが合間を縫って疾走する。サイドミラーを掠めるたび、マルコが「cazzo!」と吼えていた。
そうしてようやくドゥオーモ広場近くの駐車場に停め、三人は車から外へ出る。
港が近く、嗅ぎ慣れた潮の匂いに排気ガスの熱気が頬を撫でた。辺りは海辺の町よりも人が多い。
「やっと着いた! オリヴィエ腹減ってないか?」
「お疲れさま。うん、ちょっと空いたかも」
背伸びをするマルコに、オリヴィエはお腹を少し擦りながら答えると、白い歯を出してニヤッと笑う。
「じゃ、最初はあそこに行こうぜ」
オリヴィエは首を傾げるが、ソフィアは隣で「また?」と呆れた声を出していた。
マルコに促されるまま、広場の手前、路地を曲がるとアロンツォ・ディ・ベネデット広場へと出る。
広場を抜ける路地は色褪せたパラソルと洗濯物で空が細く切り取られていた。ニンニクとバジルの匂い、揚げ物の油、ジェラートの甘い匂いが層になって立ち込めている。
「カターニアに来たら、まずはここだ! 市場も店もあって、新鮮な魚も肉も美味いんだぜ」
路地の入口すぐのところ、階段を降りると一気に潮と魚の生臭い臭いが鼻を刺す。
立ち並ぶ露店には、氷の上に牛や豚の赤身肉、魚や赤エビ、牡蠣がレモンと共に添えられている。
一際大きな露店では、氷の上に横たわる巨大なカジキマグロがまだ生きているように、目玉がぎょろりと光っている。市場に止まるトラックの荷台には、子牛の半身がゆっくりと揺れていた。
「観光客は寄り付かないけど、ここがカターニアの心臓だぜ。ほら、このペッシェ・スパーダ、まだ生きてるみたいだろ」
「凄い……ちょっと怖いかも」
膝に手を乗せて見るオリヴィエの横で、ソフィアも身を乗り出し覗き込んで見ている。するとカジキが突然跳ねてソフィアは「うわっ」と思わず仰け反った。
オリヴィエは咄嗟に腕を受け止めると、ソフィアは顔を赤くして「ありがとう」と礼を言った。
魚市場で牡蠣を買い、すぐ近くの通りに戻ってアランチーニを食べた。熱々のライスコロッケを噛むと、チーズが糸を引いて舌を火傷しそうになる。マルコとソフィアは「あれも美味しいから」と色々なものをオリヴィエに食べさせた。少し困惑しながらも、二人がシチリアの味を勧めてくれることが何よりも嬉しく、オリヴィエは満腹感を隠しながら食べていった。
途中レモネードを1.5ユーロで買い、飲みながらインディリッツォ広場を歩く。路地で通り過ぎた教会には落書きが描かれ、少し不穏な雰囲気を醸し出している。
だがマルコとソフィアは目も向けず、次の目的地について話し合っていた。
「次はどうするかぁ」
「ウルシーノ城とかは? 私見たことないんだよね」
「城見ても面白くねぇ」
「お兄ちゃんに任せると食べ物しか行かないでしょ」
「いいじゃねぇか食いもんでも!」と二人が言い争う声に紛れ、ウルシーノ城へ向かう道すがら遠くのサンタ・アガタ教会の鐘が鳴り始めた。
ゴーン……ゴーン……という重い音が石畳に響いて、空気を揺らす。思わず足が止まり、オリヴィエは顔を上げた。
鐘の音が、凍てついたハンガリーの孤児院時代の朝を呼び覚ます。
毎朝六時、朝の鐘が鳴ると聖堂に集まって聖書を読まされた。灰色の石の床、教父の低い祈りの声、震える小さな手。
──お前は見捨てられた。
そう自分に吐き捨てた教父が、説教台の前で神は見捨てないと呟いた顔が忘れられない。
朝はいつも寒かった。
指先が小さく震え、視線を鐘楼の方角へ縫い付けられたまま動けない。
ソフィアが振り返ると、立ち止まるオリヴィエに気付いた。遠くを見る顔がどこか影があるのに、日に照らされて美しく、彼女は息を飲んだ。
「どうしたの?」
声を掛けられ、ハッとしてソフィアを見るが「何でもないよ」と顔を伏せ、再び城へと向かった。
残念ながらその日は臨時休業中で、外から溶岩石の壁を撫で、外観だけ眺めてすぐに移動した。
タトゥーショップへと向かう裏路地は、洗濯物が頭上を覆い、室外機が今にも落ちてきそうだった。
壁には剥げかけたグラフィティ、シャッターには下品な文字が並んでいた。
しばらくすると、ネオンが不健康そうにチカチカと明滅する「tatuaggio」の看板が書かれた店が現れる。
オリヴィエたちが中へ入ると、インクと油の匂いが漂っている。古いタバコの匂いが染み付いた黄ばんだ壁には、剥がれかけたドクロや裸の女のデザインのポスターが見下ろしている。
店主は仏頂面を崩さぬまま、入ってきたオリヴィエの姿を値踏みするように見つめる。おずおずと目線を泳がせるが、やがて「お前、リカルドのとこで働いてるガキか?」と聞き、「そうです」と答えると途端に笑顔を見せた。
「やっと来たか! リカルドからメール来てたぜ。ガキがインク買いに来るから用意しとけって」
店主の笑顔に安堵するのと同時に、リカルドが伝えていたことに意外な顔をする。
オリヴィエがインクを手配してもらっている間、マルコとソフィアは古い棚に並ぶコイルマシンやロータリーマシンを見ている。時々ソフィアが兄へ文句を言う声が聞こえる。
「リカルドが弟子なんて、信じられねぇな。今までそんな奴聞いたこともない」
「僕が何回もお願いして……最近、やっとタトゥーを教えてくれるようになったんです」
「あいつがお前に根負けしたのか。ナヨっちいのに意外と根性あるな」
はははと豪快に髭を揺らして笑う店主が、インクを麻袋に丁寧に詰める間、後ろに派手なポスターが貼ってあることに気が付く。カターニアタトゥーコンペの文字が蛍光色に光っている。
「タトゥーコンペ? 大会、あるんですね」
「ん?あぁ、これか。毎年カターニアでやってんだ。世界中から人が集まるんだ。お前の師匠も前に一度出たことがある」
「そうなんですか? そういうの、嫌いかと思った」
「はは、無理やり誘ったんだよ。そしたらあいつの苦手な即興デザインでぼろ負けしてな。負けず嫌いだろ? だからキレて帰ってったよ」
ふざけんなと舌打ちして目を細めるリカルドの姿を容易に想像出来、オリヴィエは小さく苦笑いする。
きっと一人で出場して、不貞腐れたような顔でタバコを吸って、時々客が来たらいつものようにぶっきらぼうに対応していたのだろう。でもその手先は繊細で、インクに向き合う彼の真剣な瞳は針のように鋭いんだろう。
「……見てみたいな、いつか。この舞台に立つリカルドさんを」
「おぉ、いいねぇ! 誘ってみろよ! まだ時間はあるし、またあいつを根負けさせてみろよ」
店主の笑い声を聞きながら、ポスターを見つめ、帰ったら話してみようと内心で小さく呟いた。支えることしか出来ないかもしれないけど、この舞台で戦ったリカルドの姿をもう一度見てみたい。
マルコとソフィアの元へ行き、店を後にする。マルコは買いたい物を思い出したようで、先に小走りで路地の先へと消えていった。ソフィアとオリヴィエが残され、二人で路地を歩く。少し気まずそうに目を伏せたソフィアが、
「ねぇ、何買ったの?」
と小さくオリヴィエへ問う。静かな路地に十六歳のかすかに幼さの残る声が響く。
「インク瓶だよ。それと練習に使う針も」
「凄いね。自分で彫れちゃうんだ」
「ううん、マシンはリカルドさんに調整してもらってる。それに、まだ針が震えて上手く刺せないんだ」
「いつか人の肌へ刺すんだもん、怖いよね」
オリヴィエは足を止め、麻袋を抱える手をぎゅっと握りしめた。
「……うん、怖いよ」
少し間を置いて、ぽつりと呟く。
「リカルドさんの心に、針を刺すのが……一番怖い」
「心に……?」
ソフィアはキョトンとして首を傾げる。
オリヴィエは苦笑いしながら、視線を落とした。
「僕が近付きすぎたら、きっと傷付ける。でも離れたら……もう二度と触れられないかもしれない。どっちにしても、痛いんだよ」
ソフィアはしばらく黙ってオリヴィエの横顔を見つめていた。やがて小さな声で、だがはっきりと、
「……怖いって思うってことは、それだけ大切だと思ってるんだよね」
オリヴィエは驚いたようにソフィアに見つめた。
「私は怖いって思ったことないよ。好きな人に近付くのが怖い、なんて思ったことない。だから……オリヴィエがそんなに真剣に怖がってるって、すごく羨ましい」
ソフィアは少し頬を赤らめながら、だが真っ直ぐに言った。
「怖がりながらでも、針を刺したいと思ってるんでしょ。それって、きっとすごく優しいことだよ」
風が吹き、路地の洗濯物がはためく。
オリヴィエは目を伏せ、小さく頷いた。
「それが僕の一方的な想いでも?それを、望まれていないかも」
「そうやって悩んでること、きっと伝わってるよ。望んでなくても、伝わればいつか受け入れてくれる」
「……そうかな、そうだといいな。ありがとう、ソフィア」
目を細めて笑ったオリヴィエの翡翠色の瞳に、路地から差し込んだ陽射しが反射して煌めいて、ソフィアは照れくさそうに笑って先に歩き出す。
「は、早く行こ! お兄ちゃんがまた怒るかも」
オリヴィエは麻袋を肩にかけ直し、ソフィアの後を追いかけた。
胸の奥にあった冷たい棘のような怖さが、ほんの少しだけ溶けたような気がした。




