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インク アライブ  作者: おーひょい
ロザリア像の下で
17/27

カポナータ-2

 市場の喧騒、トマト売りの老婆の声が響き、魚や肉を値切る声がざわめきに溶けていく。新鮮な野菜の瑞々しい光に、焼きあがったパンの香ばしい匂いや香辛料の香りが広場を満たす。

 すっかり常連となったトマト売りのアンナ婆さんが「オリー」と親しみを持って呼び、赤いトマト三つ追加で放り込まれる。

 オリヴィエは「グラッツィ」と笑顔で受け取りながら、いつものようにコインを握り締め市場を歩く。


 すると鼻の奥を焦がしバターとローズマリーの匂いがくすぐり、自然と足が赴いた。

 石畳の角、石造りの露店の前まで来ると、マルコが店の奥で串焼きを焼いている。


「よぉ、今日も使い走りかよ!」


 マルコは網を返しながら首筋から汗が流れ落ち、黒いTシャツの首元まで濡れている。串に刺さった豚肉がジュッと音を立てて脂を滴らせ、炭火に落ちるたび炎がチラチラと揺れている。

 オリヴィエは思わず喉を鳴らす。

 トマトとパンばかりの生活で、こんな匂いは拷問に近い。


「美味そうだろ、一口だけやるよ」


 マルコが串を一本抜いてオリヴィエの目の前に差し出す。断る理由が見つからず、恐る恐る口に運ぶ。

 熱く、だが肉汁が舌の上で弾けてローズマリーと塩の味が口いっぱいに広がる。

 オリヴィエは目を見開いた。


「……うわっ」

「美味いだろ! 親父の特製のタレだぜ」


 マルコが得意げに笑うと、その横から妹のソフィアが顔を出す。


「またお父さんに怒られるよ」

「オリヴィエだからいいんだよ。親父も許すって」


 口いっぱいに頬張るオリヴィエの姿に気付くと、ソフィアは少し恥ずかしそうに顔を伏せ、もう一度チラリと見る。


「あ、おはよう……」

「ん! おふぁよう、ソフィア」


 肉汁を指で拭いながら答えるとソフィアは真っ赤になって奥に引っ込んでしまった。不思議そうに首を傾げ、マルコは肩を竦める。


「こいつ、あの日からお前のこと気になってるみたいでさ。……っておい! 逃げんな! まだ終わってないぞ!」


 頬張った肉を飲み込みながら、オリヴィエは「ありがとう」と呟いて市場を後にした。

口の中にはまだローズマリーの匂いが残っている。



 スタジオに戻ると、リカルドは作業台でコイルマシンのスプリングを外し、ニッパーで幅を調整している。パチンと薄い金属を切断する甲高い音がスタジオに響く。

 腕を動かすたびに埃が午後の陽光に反射している。


 オリヴィエは麻袋を下ろし、いつものように買ってきた物をテーブルに置いた。

 リカルドは背中を丸めたまま、顔は上げない。だが、小さく鼻を動かす。


「……お前、肉食ったろ」

「え……?」


 リカルドの言葉に一瞬固まった。


「ルカのとこだろ。ローズマリーとバターの匂い、鼻につくんだよ」


 オリヴィエは慌てて口を覆って、手を振る。


「一口だけって……! 本当に一口だけ、もらったお金、使ってないです……」


 リカルドはニッパーを作業台に置き、スプリングをコイルマシンに嵌め戻していく。

 それだけ。特に言及することもなく、だが沈黙がやけに気まずい。

 オリヴィエは「……すみません」と小さく呟いて、人工の肌を手に準備を始める。


 それ以上は何も言わなかった。

 リカルドはフットスイッチを踏み、低い音を確かめると、視線を一瞬だけオリヴィエの麻袋に落とし、すぐに作業に戻った。



 秋のシチリアには観光客は少なく、この日スタジオを訪れた客はドイツ人の若者だけだった。リカルドは小さな波とよく分からない単語を彫り、オリヴィエはインクと彫り台の準備、最後に「Inchiostro Vivo」と書いた領収書を渡して送り出した。

 それ以外は特にすることもなく、リカルドは新聞を読みながら昼寝をしていた。オリヴィエはフットスイッチを踏む感覚を何度も足に覚えさせた。人工の肌へインクが浮かんでいく。


 寝息を立てるリカルドの横で、オリヴィエはスチール棚に置いてあるインク瓶を手に取る。

 持ち上げた時の軽さに、備品の入ったダンボールを見つめるがインク瓶はすでに無い。


「あれ。もう使っちゃったかな」

「……あ? 何だ?」

「わっ、ごめんなさい、起こしちゃって」


 寝起きの不機嫌そうな顔をしたリカルドが、小さな声に気付いて顔を上げた。


「また何かやらかしたのか?」

「違くて………インクが無くなっちゃったみたいで」


 手に持ったインク瓶が半分ほどの量になっている。


「無駄遣いしやがって。今度の休みまでもたねぇな」

「……それなら、僕が買ってきます。使ってるのは、確かにそうだから……」

「お前一人で行けんのか」

「うーん……あ! この間マルコがカターニアに行こうって言ってたから、誘ったら、来てくれるかも……」


 リカルドは膝の上に広がった新聞を畳み、ゆっくりとタバコに火をつける。


「……へぇ。マルコをお前の都合に合わせんのか。大層なお友達だな」


 嫌味っぽく笑うリカルドに、少しオリヴィエは口を尖らせる。だが、確かに自分の都合で誘うのは気が引けて、声がちいさくなる。


「誘うだけ、誘ってみます……」

「好きにしろ」


 リカルドはそれだけ言って、再び新聞をバサッと開いた。ページを捲る指がいつもより少しだけ強かった。



「カターニア? いいぜ! 誘ったのは俺だしな」

「本当!? ありがとう、マルコ」


 数日後の広場、マルコは嫌な顔一つせず、爽やかな笑顔で快諾した。親指で背後の店を示す。


「じゃ次の土曜日に、俺の店の前に十時でいいか?」

「うん。ありがとう」


 安堵の息をつきながら笑顔で頷くと、マルコが少し声を落とす。


「そういえばお前、パスポートとか大丈夫か?最近港の方で外国人の摘発がうるさいって噂でさ。メッシーナの工事を始めるとか言ってるから、そのせいかも」


 オリヴィエは一瞬笑顔を凍らせた。


「……え?」


「いや、別に。気にしないんだけどさ、カターニアの駅前とかたまに職質してるって聞いて。大丈夫だと思うけど、気をつけろよ」


 オリヴィエは「う、うん……」と曖昧に返事をして、マルコと別れた。

 生まれて初めての友人との外出、楽しみなはずなのに、潮風が妙に冷たく背中を撫でた。

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