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インク アライブ  作者: おーひょい
ロザリア像の下で
16/27

カポナータ-1

 九月の終わり、太陽の陽射しが潮風に冷まされ、半開きの窓から涼しい空気が吹き込んでリネンカーテンを優しく押し上げる。

 スタジオ「Inchiostro Vivo」では、微かな甘酸っぱいシトラスの匂いに、外の潮風とインクの匂いが混じる。

 作業台の端には数個のオレンジが転がり、午後の光を受けて表面の凹凸に丸い円が浮かぶ。


 あれから数日、オリヴィエはオレンジの皮に震えることなく円を描けるようになり、リカルドが「悪くねぇ」と一言呟いた翌日から人工の肌へと移った。


 コイルマシンの調整はリカルドが行う。

 古びたパワーサプライのダイヤルを回す指先、クリップコードを軽く引っ張ってテンションを確かめる手つき、まるで楽器を調弦するかのように無言で進める。

 待ち望んだマシンへの移行に、オリヴィエは大きな瞳をキラキラと輝かせながらリカルドの動きを追っている。


「コードの長さとか、ニードルの日付、確認、するんですよね?」

「コード?」


 リカルドは目を丸くして聞き返したが、すぐにスタジオに招いた最初の数日を思い出した。オリヴィエの瞳が得意気に陽光に反射している。


「あぁ……確かに日付の確認は絶対だ。だがコードは別に長さを測る必要はない、ありゃただの嫌がらせだ」

「えぇ……やっぱり、嫌がらせだったんだ……」

「仕方ねぇだろ。いきなりファンだとか、警戒するだろうが」


 肩を落とし、口を尖らせたオリヴィエに少しの罪悪感を感じつつ、手に持ったニードルパックを開けた。ビニールを破る音が、静かなスタジオにやけに大きく響いた。


 初めてマシンの針に触れる瞬間。

 オリヴィエはフットスイッチに親指の付け根をそっと乗せ、ゆっくりと沈ませる。

 スプリングが跳ね、低い唸りが手のひらを伝って肘まで震えた。コンタクトスクリューもスプリングもリカルドによってすでに完璧に調整済みで、生き物の鼓動のように心地よいリズムで響いた。


「コイルマシンは耳で覚えろ。この音以外は全部クソだ」


 オリヴィエは軽く頷き、教わった通り針の角度を45度に傾け、息を吐きながら人工の肌へ刺した。

 オレンジとは違う、ゴムのような弾力と微かな抵抗が指先に返ってくる。力めばすぐに蛇行する。


 一度針を離し、息を整えてもう一度。

 インクを吸った針から肌へ、黒い線が少しずつ形になっていく。


 すぐ横でリカルドは腕を組んで見下ろしていた。タバコの匂いと大きな影が嫌でもリカルドを感じさせる。

 背後から感じる視線が重くのしかかり、オリヴィエの肩が小さく震えた。


「下手くそが」

「見られてると、緊張する……」

「見てねぇと何しでかすかわからねぇだろ」


 「そんなことない」と口を尖らせるオリヴィエだったが、スタジオの扉が開く音が二人の間を割って入った。


「お、弟子に教えてるところだったか」


 顔を向けると、パオロが手を挙げて入ってくる。今日は三度目のシェーディング工程の予約で来ていたのを、リカルドはすっかり忘れていた。だが、忘れていたと言うのも癪で、「おう」と返事をし、慌てて準備を行った。


 オリヴィエもマシンから一度手を離し、準備を行う。失敗することが多く、よくリカルドに怒られてはそのたびに落ち込んでいたが、今ではインクカップの準備、彫り台のアルコール拭き、ステンシルシートの貼り直しを完璧に行う。


 準備を終えたパオロは彫り台の上にうつ伏せに寝ている。背中にはロザリアと船、波の黒い線が浮かび、色を待っている。リカルドがシェーディング用のマシンを小刻みに踏みながら彫る間、相変わらずのお喋りでリカルドが無視する間も喋り続けた。


 最初と違うのは、リカルドがシェーディングをする間オリヴィエがそばで見つめ、針の角度や力加減を食い入るように見つめていること。


 フットスイッチを小刻みに踏みながら円を描くように針を動かし、背中のロザリア像が色付いて立体的になっていく。

 パオロは痛みに耐えながらも、オリヴィエにぶっきらぼうながら教えるリカルドの姿に楽しげに笑う。


「もしお前が許せば、弟子に彫らせても構わないよ」

「ダメだ」

「多少失敗したって、聖女様は笑って赦すぜ」

「そういう問題じゃない。俺のプライドの問題だ。中途半端なもん出すわけにはいかねぇ」


 パオロがその言葉に小さく吹き出す。


「へぇ、お前にも情があったのか」


 リカルドは黙って彫り進め、オリヴィエは二人のやり取りを見ていた。

 腰の辺りの波に色を載せると、痛みが強いのか顔を歪ませる。リカルドの針が青いインクを背中に乗せていく。

 午後の店じまいを過ぎてまで行い、パオロは腰を擦りながら「またな」と言い、夕暮れの町へと去っていった。


 集中の糸が切れたリカルドは鉄パイプの椅子にどっさりと凭れ、眼球を親指で強く押さえた。


「あぁ……疲れた。フルバックは長ぇからクソだ」

「四時間もお疲れさまです。コーヒー、入れますか?」

「おう」


 オリヴィエは隣室のリカルドの私室へ行き、モカポットを錆びたコンロに乗せる。

 コポコポと沸騰し、焦げたような濃厚なエスプレッソの匂いが部屋に満ちていく。


 窓の外では秋の太陽が水平線に沈みかけ、遠くのエトナ山が黒くシルエットで浮かび上がる。


 オリヴィエは湯気が立ち上るカップを両手に持ち、リカルドの前へ置いた。


「はい、エスプレッソです」

「……悪いな。もう暗いのに」

「いいえ。リカルドさんの仕事、見るの好きだから」

「…」


──彫る時のあなたの真剣な顔、私ずっと見てられるの。


 オリヴィエの素直な言葉に、恋人の声が過ぎって目を伏せた。

 オリヴィエは麻袋にスケッチブックやオレンジを詰め込み、帰り支度を進めている。


「……もう帰るのか」

「えぇ、暗くなったけど、少し海を見てから、帰ろうと思います」

「そうか。……飯はどうすんだ?」

「今日アンナおばあちゃんから貰ったトマトと、昨日のパンがあるから。オレンジもあるし」

「……それだけか」

「いつも、そうだから。大丈夫」

「……そうか」


 オリヴィエはリカルドのどこか曖昧な態度に首を傾げながら、作業台を拭き、片付けを終えて麻袋を抱える。


「……待て」

「はい。あ、お金ですか?」


 リカルドはポケットからコインを取り出した瞬間、手を止めた。握り潰すように拳を閉じる。


「……飯食いに行くぞ」

「え、いや、僕お金ないし……」

「俺が払えばいい」

「いや! それは、迷惑かけちゃうから……」

「……いいから、行くぞ」


 リカルドは革ジャンを羽織り、オリヴィエの手を引いてスタジオを出る。掴んだ腕の細さに少し驚くが、構わず引っ張り出す。

 スタジオのシャッターを閉め、二人で海辺を歩き、路地裏のバールへ向かう。


 バール「Bar del sole」はいつもより人が少なかった。カウンターの奥ではカルラがタバコを咥え、二人の姿を見つけては古いエスプレッソマシンを叩いた。


「oi! 今日は弟子も一緒か! いつものグラッパ?」

「いや、今日は飯食いに来た。カポナータとイワシのパスタを二つ。それと適当なデザートも」

「パスタ・コン・レ・サルデな。全くフルコースかよ、レストランじゃねぇんだぞ」

「あんたのは他のレストランより美味い。それに、金は払うからいいだろ」

「余計な一言さえなければお前に惚れてたかもな。今日は忙しくないから、特別だぞ」


 全く、と火のついたタバコを灰皿に置いて、カウンターの奥へと消えていく。

 二人は店の隅の空いているテーブルへ腰掛け、リカルドは同時にタバコに火をつけた。古い蛍光灯がチカチカと明滅し、壁のロザリア像の絵が影に揺れている。

 オリヴィエは突然の出来事に少し戸惑いながらも、タバコの煙に揺れるリカルドの顔を遠慮がちに見つめる。


「そんなに頼んだら、お金が……」

「気にすんなよ。あとお前、年はいくつだ?」

「えと……二十二です……」

「じゃ足りるな。食え」


 タバコの灰を弾きながら、オリヴィエが大きな瞳をバールの中で彷徨う様子を見る。


「あの、何で急に……ご飯行こうって、言ってくれたんですか?」

「別に。遅くまで付き合わせちまったのと、またぶっ倒れられても迷惑だからな」


 掴んだオリヴィエの腕の細さを思い出し、壁の絵を見ながら呟く。


「あなたの仕事を見るのが、僕の仕事だから……気にしなくても。……でも、ありがとう」


 リカルドの少しぶっきらぼうな言い方の中にある優しさに気づき、オリヴィエは照れ臭そうに目を伏せて礼を言った。相変わらずタバコの煙を吐いていたが、煙の中から見える彼の瞳に柔らかさがある気がして小さく笑った。


 少しの沈黙、カウンターからオリーブオイルとセロリ、トマトの豊かな香りが漂う。

 沈黙を割くようにオリヴィエが口を開く。


「リカルドさんは、どうしてタトゥー、始めたんですか?」

「ガキの頃、近所にジジイがやってるタトゥー屋があった。ムカつく野郎だったがタトゥーだけは凄かった。だから始めた」

「タトゥーに希望、持ってたんですね」

「そんなこと考えちゃいねぇ。ただ、彫ってる間は自由になれる」

「自由に、なりたいんですか?」


 オリヴィエの言葉に沈黙し、タバコを指で弾いて灰を散らす。


 全てからさ。

 社会も、規則も、約束も、罪も、全てが俺を縛り付ける鎖だ。


 だがリカルドは沈黙したままグラッパを煽ると「別に」とだけ言った。

 やがて若いウェイトレスがカウンターからカポナータを手に出てくる。見たことのない顔にリカルドは思わず声をかける。


「バイトでも雇ったのか?」

「そう! 新しいバイトのフランチェスカ。あの人の娘なの。今日だけね」


 フランチェスカは奥でフライパンを振るカルラを指さしながら答える。


「あぁ……そうかよ」


 リカルドの声に、ほんの一瞬残念そうな響きが混じる。オリヴィエはグラッパを飲むリカルドの顔を見て、アントニオ達の言っていた噂話が頭を過ぎって少し呆れた顔をする。


 だが、リカルドはそんなことはお構い無しで、目の前のカポナータを口に運び始めている。オリヴィエも甘酸っぱい香りの立ち上るカポナータをフォークで口に運ぶ。トマトとオリーブの酸味、白ワイン酢の芳醇な香りが口いっぱいに広がり、目を丸くした。


「美味しい。初めて食べました」

「シチリアに来たのにカポナータもなしか。お前、マジでトマトとパンだけか?」

「料理出来ないし、レストランは高いから…それでも、たまにお菓子は……」

「菓子かよ。よく生きてこられたな。腹減ってんならここで食わしてもらえ。金がなくてもお前ならツケてもらえるだろ」

「慈善事業じゃねぇんだよ。師匠やってんなら弟子のツケも払えよ」

「クソッタレだ、誰が毎回払うか。今月は"アレ"もあって厳しいんだよ」


 リカルドがカポナータを頬張りながら、不愉快そうな呆れるような顔をして吼えた。

 カルラは納得したように肩を竦めながら再びカウンターの奥へと向かう。


「……アレ? ってなんですか?」

「本当に何も知らねぇんだな。なのにここが好きだとか言ってんのかよ。……ここで商売するなら、その対価を支払わねぇと生き残れねぇ」

「役所とかにですか? 国?」


 オリヴィエは首を傾げながら問うが、リカルドは呆れたようにため息をついて指をすぼめた。


「誰とは言わねぇ、だがここはシチリアだってことだ」


 それ以上の説明はなかった。

 触れないようにしているのか、判然としない答えにオリヴィエは終始疑問符を浮かべながらカポナータの上のオリーブをフォークで刺した。



 食事を終え、外へ出ると夜の海風が一気に冷たくなっている。穏やかな月明かりに波が照らされ、潮風が優しく吹いている。


「今日はありがとうございました。リカルドさんとご飯、食べられると思わなかった」

「お前の面倒見るって宣言したようなもんだからな。飯も食わせられねぇのに、師匠振るのも違うだろ」

「優しいんですね」

「……いや。俺も、覚悟を決めただけだ」


 スタジオの近くまで歩き、二人は向き合う。


「ありがとう。また明日」

「おう。遅刻すんなよ」

「はい。おやすみなさい」


 オリヴィエは背を向けてペンションへ歩き出す。背後から扉を開けるガチャガチャという音が聞こえる。一度振り向いたが、リカルドの影がもう扉の向こうへ消えかかっていくところだった。それでも、


「また明日。おやすみなさい」


 と小さく呟いては頬が自然と緩んだ。

 潮風がバールの残り香を攫い、遠くのエトナ山が静かに見守っていた。

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