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インク アライブ  作者: おーひょい
ロザリア像の下で
15/27

インクの染み-2

 広場でマルコと話した後、少し心が軽くなったオリヴィエはスタジオへの道を歩く。シチリアでの初めての友人、思わず互いの話をして少し遅くなってしまった。石畳を歩く足音に砂利の音が混じり、波音を聞きながらスタジオの前まで来ると影が近付く。郵便配達の自転車が、油の無くなった甲高いブレーキ音を立てながら止まる。彼の紺色の帽子に郵便局のシンボルが光っている。


「リカルド・マリアーニさん?」

「いや、僕はここで、働いてる……」

「では渡しておいてください」


 手渡された封筒にはRiccardo(リカルド) Mariani(マリアーニ)という彼の名前と、ASL、更新の文字が赤く印字されている。

 「なんだろう?」と疑問に思いつつも、オリヴィエは封筒を見ながらスタジオの扉を軋ませる。

中のスタジオは静かだった。椅子に腰掛けるリカルドからタバコがちりちりと燃える音が響いている。


「あの、戻りました……」

「遅せぇ」


 それだけ。

 沈黙が少し気まずく、だが先程の封筒を握り、リカルドへ差し出した。「なんだよ」と眉間に皺を寄せて奪い取るが、封筒の文字を見て中身を見ずに引き出しへしまった。

 ちらりと見た乱雑な引き出しの中には、同じような手紙がくしゃくしゃの領収書の下に隠れている。


「それ。大事なものなんじゃ……」

「別に。聞くだけ無駄だ」


 引き出しの中にはASL、衛生管理局からの封筒が数枚仕舞われたまま埃をかぶっている。

 数年ごとに更新のための講習が案内されるが、都市部では規制が厳しい一方、シチリアや南部は緩く、ASL検査員が来るまで講習をサボるスタジオ経営者が多かった。リカルドも当然、その中の一人だった。


「冷やしてきたか、頭」

「はい。さっきは、ごめんなさい」

「練習だろうと寝不足のままやるな。それと、インクは素手で触るな。次は手袋つけろ」

「気をつけます……」


 リカルドはそのまま黙って書き上げたデッサンと、作業台の上のノートを見つめて鉛筆を走らせていた。

 オリヴィエは隅の別の作業台に座り、黙々とオレンジと向き合う。二人の間に言葉はなく、鉛筆を擦る音とオレンジに針を刺す音だけが響いている。


 インクをしっかり持ち、スポイトで吸い取ってカップに入れる。それから針を浸してオレンジの皮に針先を沈めた。

 力を入れすぎず、だが確実に針を刺し、角度を調整しながら円を描く。最初よりも歪みの少ない円が浮かび上がる。


「まだだ。まだ……これじゃ届かない……」


 オリヴィエはもう一度オレンジを裏返して円を描き始めた。

 リカルドは静かにその様子を見ていたが、やがて「散歩へ行く」と言って扉を軋ませた。



 シチリアの海辺の街を熱くする灼熱の太陽が水平線に沈みかけ、石畳を薄いオレンジに染める。

 スタジオから程なく歩いた所にある路地裏のバール「Bar del Sole」の木製の扉が軋む。リカルドは入るなりタバコを咥え、「グラッパ」と低く唸り、カウンターのスツールに腰掛ける。バールの空気が酒と汗の匂いで重い。

 赤いバンダナを首に掛け、軽く引っ張りながら店主のカルラが地元民とシチリア語で冗談を交わし、グラスを叩く音が響く。彼女がタバコをリズミカルに灰皿に叩くと、リカルドの声に気付いて顔を向けた。


「よぉ、久しぶり。あのガキ、頑張ってまだお前に食らいついてんだって?物好きな奴だよ。掃除の次はタトゥーとか。次は何をするつもりだ?」

「知るか。黙ってグラッパ寄越せ」

「はいはい、無愛想なやつめ。少しはガキのお守りで丸くなったかと思ったが。ほら」


 カウンターにグラスを置くと、リカルドはすぐにグラッパを流し込んだ。強い度数が頭の中を満たし、喉を刺激して歯を食いしばる。


──ここに願い、ありますよね?


 あの日言われた言葉。オリヴィエの瞳が心の奥底、柔らかい部分を突き刺すような気がした。逃げ続けた過去の記憶から逃れる時、決まって左腕を無意識に撫でていた。恋人との約束を刻んだ太陽のタトゥーが熱を帯び、その熱を冷ますように。

 だが、そのインクの上からオリヴィエに触れられた。一番触れてほしくない場所。

 恋人と同じまっすぐなオリヴィエの目が、脈動の伝わる掌が、逃げることは出来ないと言っているようだった。


 家族から逃げ、社会から逃げ、軍隊も逃げ出し、最後は故郷から逃げた。シチリアまで来たのは、自分を「飼い犬」と呼び、全てを裏切った奴の声から逃げたかったから、恋人との約束の海が、その声をかき消す気がしたから。


 突然現れた同じ目をしたオリヴィエに、針で刺してと叫ばれたあの時、逃げ続けた自分と向き合う決意をした。


 覚悟はあるのか、そう問うたのは自分に向けてだった。


「何してんだ、俺は」


 グラスの表面を滴り落ちる水滴を見つめ、タバコを強く吸い込んだ。バールの中は相変わらず騒然とし、後ろの漁師連中の笑い声が耳に刺さる。一人がふらふらと立ち上がり、今年のトンノはどうとか、あいつはロクデナシとか愚痴や噂話を肴にビールを煽る。そのままカウンターに腰掛けるリカルドの背中にぶつかった。リカルドが舌打ちして横目に睨むと、漁師はその視線に気付き、更に熱を帯びる。


oi!tu!(おい!お前!)何見てんだタトゥー野郎!」

「てめぇがぶつかってきたんだろ」


 静かに唸るような声で返す。だがすでに酔いの回った赤い顔の漁師は、その鋭い青い瞳に苛立ちの声を荒らげる。


「てめぇのその北部訛り、気取りやがってムカつくんだよ。よそ者のくせに、何でけぇ顔して座ってる?」


 「おいおい」「喧嘩か?」と周りが囃し立てる声が沸き立ち、重苦しい空気が一気に熱を帯びてくる。リカルドは売られた喧嘩に応えるように、カウンターを殴りつけて立ち上がった。恰幅のいい漁師より更に背の高いリカルドが見下ろす。


「どこに座ろうが俺の勝手だろ」

「シチリアの人間が使う場所だ。お前みたいな兎も撃てねぇ腰抜けが座る場所じゃねぇんだよ」

「てめぇ……」

「よそ者で腰抜け。しかもあの変な喋りのガキ、弟子なんだって? 女の次はガキかよ、良い趣味だぜ」


 酒臭い息を吐き出し、シチリア訛りで畳み掛ける言葉にリカルドの眉間の皺が一層深まる。今にも殴り掛かりそうな震えた手を抑え、「弟子とは認めてねぇ」と掠れた声で低く唸る。


「弟子じゃねぇ? ならなんだ? お前んとこでうろついて、まるで"飼い犬"みてぇじゃねぇか」


 漁師が酒瓶を叩き、「マンマ・ミーア」と笑う声がバールに響く。「飼い犬」という言葉にすぐさま火のついたタバコを握り潰し、漁師の胸ぐらを掴んだ。


「もう一度言ってみろ、クソッタレ」


 頭にこびり付く耳障りな目が、グラッパのグラスが揺れる。


「おいおい、またかよ……」


 カルラはカウンターの奥でタバコを指に挟んだまま頭を抱える。壁に寄りかかり「グラス割るなよ」と忠告するが声は届かず、リカルドの目は鋭いまま漁師の顔から目を離さなかった。


「何度でも言ってやるよ、ヴェネトのよそ者が。孤独を気取ってるくせに、本当は寂しくてガキ拾ったみてぇだな。情けねぇにも程があるぜ」


 肩を押され、グラスが床に落ちて砕ける音が響いた。「腰抜け野郎!」と野次する笑い声が相棒の言葉に重なり、リカルドは床に散ったガラス片を踏み潰し、漁師に右ストレートを放った。


 沸き立つ野次連中の声の中、漁師は「クソッ」とよろけて酒瓶を落とし、木の床に転がる。だがすぐに立ち上がり、リカルドの胸ぐらを掴んで壁に押し当てた。酒と潮臭い息が顔にかかる。


「いいぞ! やっちまえ!」

「ボコボコにしてやれ!」


 野次が耳に刺さる中、リカルドは怒りの炎を纏ったまま、胸ぐらを掴む漁師の顔を睨みつける。だが漁師は血まみれの口で笑った。


「よそ者同士仲良くしてろよ、寂しがり屋のクソガキ」


 そのままリカルドの左頬に拳を叩きつけた。椅子をなぎ倒しながら倒れ込み、歓声と怒号が上がる。木目の床に散った血の跡を手で叩きつけ、そのままテーブルに這い上がって睨みつける。


──お前は一生俺から逃げられない。全部、お前のせいだ。


──ここに願い、ありますよね?


 裏切りの声と純粋な声が頭を巡って、グラッパのせいか殴られたせいか、視界が揺らぐ。鉄の味が口に広がり、かき消すように歯軋りをした。


「どいつもこいつも、うるせぇんだよ!」


 リカルドは吼え、もう一度右ストレートを叩き込むと、漁師は床に倒れ込んだ。

 騒ぎを聞いたマリオが見かねて「もうやめろ」と間に割って入ったが、リカルドは黙って振り払う。息切れしながらタバコの箱を取り出して火をつけるが、手が震えてライターが床に落ちる。

 もう一度拾い上げ、興奮の覚めない笑い声と罵倒する声を背中に受ける。


「弟子でも何でも、お前の所にいればいいだろ! クソガキ!」


 と後ろで漁師が笑うが、聞こえないふりをしてバールを後にした。



 バールの外、潮風が首筋を撫でて、遠くで波の音が響く。アドレナリンで痛みを感じなかった傷が、砂利道を歩くたびにズキズキと痛み出す。親指で口の端を撫で、目を細めてタバコを強く吸い込んだ。

 石畳に細かな雨粒が落ち、煙が雨音に混じる。灰色の空にヴェローナの太陽が滲み、遠くで漁船のロープが軋む。


 オリヴィエのことを「飼い犬」と呼ばれ、昔の記憶が蘇ってつい喧嘩をしてしまった。昔の自分を思い出したからか、それとも自分の惨めさをオリヴィエに重ねたからか、理由はよく分からない。だが過去の影が過ぎってどうしようもなく手が震えた。


 覚悟を問うたのに、その覚悟は自分にはなかったのか。


「覚悟が出来てねぇってか。情けねぇ」


 オリヴィエの鈍臭い素直さと、願いを口にする純粋さが煙とともに喉に引っかかる。


──痛みも、血の匂いも知ってる。


 あの日のオリヴィエの目の奥に、追い続けてきた執念が宿っていた。逃げ続けた罪が自分の目の前に現れ、自分の閉ざした心を叩いた。

 隠した墓標が疼いて舌打ちする。タバコの煙が傷に染みて、痛みに目を細めて遠くの波間を見つめた。ポケットに突っ込んだタバコの箱を静かに握り潰す。


「上等だ。お前の執念に答えてやる。逃げるのはもうやめだ」

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