インクの染み-1
数日後、スタジオ「Inchiostro Vivo」の木の床に午後の陽光が微かに届く薄暗い隅の作業台で、オリヴィエはオレンジを手に取った。窓からの陽光が果物の鮮やかな橙色を柔らかく照らし、表面の微かな凹凸に影を落とす。無機質な木のグリップから針が出ている簡素な彫り用の針を手に、プチッと優しく刺す。続けて刺すと空気にシトラスの香りが漂い、スタジオの古いタバコとインクの匂いに混ざっていく。
円を描こうとするが、時々汁がぽたりと垂れ、指先を濡らす。
「あぁ……」
声が漏れ、針を動かす手が止まる。
作業台に凭れ、タバコの白い煙を口から漂わせて見ていたリカルドが見かね、指で灰を弾いて立ち上がる。
「力入れすぎなんだよ。見てろ」
リカルドの手がオリヴィエの手に重なり、手首を固定したまま、針を刺す。滑らかな動きで小さな円がオレンジの皮に刻まれ、果肉の白い層が僅かに覗く。スタジオに掛かった小さな丸い鏡に、二人の影が動きに合わせた揺れた。
「これが最初だ。次はインクをつけて刺す」
インクカップに一滴黒を垂らし、針の先をつけると再び円を描く。黒く丸い円がオレンジの表面に浮かび、果汁と混ざって微かに光る。
オリヴィエは滑らかな彼の動きを見つめてから、オレンジの表面を真剣に見つめるリカルドの横顔をちらりと覗く。リカルドが話すたび、タバコの匂いに微かに朝のコーヒーの匂いが混ざっている気がする。
「まだ、マシン、使わない?」
「バカ。初心者はハンドポークからだ。今使えば破裂して練習にならねぇよ」
「ハンドポーク?」
聞きなれない言葉にオリヴィエは首を傾げて聞き返す。
「手で彫るやり方だ。俺も最初はそればっかりやらされた」
十三歳の頃、近所のタトゥースタジオの老職人に弟子入りした日のことを思い出す。無口な老人で、不器用な自分は最初の数ヶ月はオレンジにひたすら針を刺しては「下手くそ」と罵られていたことを思い出して少し不愉快な顔をする。
「せいぜい二週間くらいだろ。お前のセンスがクソッタレじゃなければ」
「二週間……頑張ります!」
それからオリヴィエはオレンジに向き合い、数日後も何度も針を刺した。その間、インクを使用して円を描く練習も行った。インク瓶の中の顔料を混ぜ、スポイトでインクカップへ入れるやり方も教わった。その際、入れるインクの量は使い切れる分のみ入れろと強く教えられた。実際ニードルでインクに触れた部分は、感染症などを防ぐために必ず捨てなければならないからだった。
スタジオの空気は化学的なインクとタバコの匂いで満ち、時折遠くから聞こえる町の喧騒が集中を促すように響く。
更に数日、スタジオの掃除と使い走りの合間、インクで練習を続ける。ペンションにオレンジと針を持ち帰り、寝る直前まで練習し、そのまま寝落ちすることも多く、一度針が体に刺さりそうになり、冷や汗をかいたこともあった。
あくる日、スタジオでリカルドが作業台で白い煙に包まれながらデッサンを描く中、オリヴィエはいつものようにスチール棚の前でインクを手にした。透明なガラスに陽射しが反射して、少し寝不足の目に眩しく光る。しばらく黒い液体を見つめ、顔料を滑らかにするためにカチカチと振った。
液体がちゃぽんと音を立てて波打つ様子をぼぅと見ていると、瓶が手から滑り落ちた。
「あ……」
声を上げる暇もなく、木の床に音を立てて落ちた。瓶の蓋が当たり、隙間から黒いインクが流れ込んですぐに木目に広がっていく。
「あぁ……! どうしよう……何か、拭くもの……」
インクを落とした衝撃で咄嗟にリカルドは顔を向ける。古い雑巾を手に床を拭こうとするオリヴィエに、リカルドは眉間をみるみると狭めて睨みつけた。スタジオの裸電球の薄暗い光が顔に鋭い影を落とし、青い瞳が怒りの炎を宿す。
「素手で触るな!!」
初めて聞くリカルドの大声に、オリヴィエの肩がビクッと震え手を止めた。スタジオのコンクリートの壁に反響する声が、静寂を切り裂く。
すぐにリカルドはラテックスの手袋をはめ、ゴムがパチンと音を立てて指にフィットする。ワークブーツの重い足音がオリヴィエへ近付く。雑巾を奪い取り、オリヴィエを押し退けて拭き始めた。黒いインクが雑巾に染み込み、隠れていた床の木目が次第に現れる。
「ご、ごめんなさ……」
「無駄にしやがって。掃除は俺がやる。外行って頭冷やしてこい」
「でも……」
「これ以上面倒ごとを増やす気か?」
前髪から覗く青い瞳が鋭くオリヴィエに向けられ、刺さった視線に続く言葉が引っかかって「はい」としか返事が出来なかった。
窓から吹き込む風が、インクの匂いを運びさろうとするように揺れた。
◇
市場、サンタ・ロザリア像の下で膝を抱える。
午後の陽光が石畳をオレンジに染め、像のスカートに長い影を落とす。オリヴィエは膝を抱え、冷たい石の冷たさが背中に染みる。
怒鳴られた時のリカルドの声と青い瞳が、壁に押し付けられた時のことを思い出させる。
「ダメなやつだ……僕。せっかくここまで来たのに……」
スケッチを開き、鉛筆を握るが思うように線が引けない。諦めて遠くを見ると、石段を登る人影がゆっくりと近付く。
顔を向ける気力もなく、近付くのをぼんやりと待つ。
視界の中に、マルコの顔が割り込んで「よ!」と声を掛けた。
「チャオ、マルコ」
「元気ないな、リカルドに怒られた?」
相変わらず太陽を思わせる爽やかな小麦色の笑顔が、少しイタズラっぽく目を細める。
「まぁ……そんなところかな」
「そっか、それは悪かったな」
「いや、大丈夫」
マルコは腰に巻かれたエプロンを緩め、外して雑に畳むと隣に座った。微かに肉の生臭い匂いが鼻を掠める。
「俺もさ、親父に怒られることあるよ。肉の筋を切れとか、血の処理が甘いとかさ」
マルコは膝に肘をつき、頬杖をついて空を見上げる。遠くで子供たちが石段を駆け下り、笑い声が波のように近付いては遠ざかる。
「……マルコは、肉屋にずっと、いるの?」
「どうかな。何となくそうなるんだろうな。選択肢がないっていうか、自由がないっていうか」
頬杖をついたまま、折り畳まれたエプロンの染みを指で弾く。消えない染みに、埃が舞って日差しに反射している。
「シチリアは良いとこだし、皆も良い奴ばっかだけどさ、この町で生きるには狭いんだよ」
オリヴィエは膝にスケッチブックを置いて静かにマルコの顔を見つめる。
「本当は、違うことしたいの?」
ボロボロのスケッチブックの表紙に、オリーブの葉が落ちる。青々とした葉脈が、風に揺れて影が揺れている。
「どうだろう。世界を見てみたいと思ったことはある。ローマとか、ヴェネツィアとか、もっと遠くとか」
小さな風が吹いて、オリーブの葉が遠くへ運ばれた。マルコは白い歯を見せ、柔らかく笑う。
「マルコなら、どこに行っても友達、作れそう」
「ははっ、そうだといいな」
風がサンタ・ロザリア像のスカートに当たり、遠くで海鳥が鳴いている。像に残る蝋燭の煤と、7月の祭りの紙飾りが揺れる。
スケッチブックが捲れそうになり、手で押さえた。石の冷たさが背中に伝わる。
「……僕も、わからない。リカルドさん見て、誰かの願い、彫りたいと思った。でも……」
足元の石階段に溜まる屑を見つめ、目を伏せる。スコープ越しの兎の眼、躊躇った引き金、消えない染みが頭を過ぎる。
「でも?」
「……その針で、あの人の過去、触れたいと思う。それなのに、怖いとも思う。変だよね」
抱えた膝に、額を軽く当てて背中を丸めた。オリヴィエの言葉にマルコは肩を竦めてみせる。
「それくらい普通だろ。俺だって親父の若い頃の話、聞いてみたいと思うし」
オリヴィエが顔を上げる。
マルコの茶色い瞳が真正面から覗き込む。
「マルコは、優しいね」
「どういたしまして。なんかごめん。励ますつもりが、変に自分の話しちまった。お前がシチリア以外の人間だからかな。こんな話、他の奴とはしなかった」
顔を上げたオリヴィエの肩に、軽く肘で小突いて笑う。スタジオでの失敗と張り詰めていた緊張が少し解けた。後ろで束ねた薄金色の長髪が揺れ、オリヴィエの頬をくすぐり耳にかけ直す。
「ありがとう、話してくれて。僕も、君にだから言えたんだ」
翡翠色の瞳を細めて笑う顔が、妙に子供っぽいのに、陽射しに照らされて光って見えた。マルコは少しだけ、異国の空気を纏うオリヴィエの顔を見つめ、それからまた、二人は互いの話を続けた。
広場は子供の笑い声と遠くの海鳥の声が響き、穏やかな時間に包まれている。コーヒーと潮風の匂いが舞い、風に乗ってロザリア像を優しく撫でる。
静かな広場で響く二人の声が跳ね、近くのベンチで昼寝をしていた老人が、じっと二人の様子を見つめていた。




