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インク アライブ  作者: おーひょい
ロザリア像の下で
13/27

硝煙とローズマリー-2

 翌日、広場へ行くと数人の地元青年たちの姿があった。いつもの露店の呼び声は止み、広場は静寂に包まれている。シャッターが下ろされ、昼寝の老人もサッカーの子供たちもおらず閑散としているが、石畳の広場には朝日が輝き、噴水の水が爽やかに響いている。広場の少し隅で話す青年たちの中にはマルコの姿もあった。日焼けした爽やかな笑顔がオリヴィエを迎える。


「オリヴィエじゃん。あんなに怖がってたのに兎狩り行くのかよ?」


 ニヤニヤと笑いながら肩を小突く。拳の感触が少し痛い。オリヴィエは少し目を伏せて「もうここまで来ちゃったから……」と小さく呟いた。


 すぐにトラックのエンジン音が近づき、やがて噴水の前でガタガタと音を立てて止まった。運転席の窓が降りると、サングラスを掛けたルカが顔を出す。オリヴィエに目を向けるとニカッと笑った。


「おう、全員揃ってるな! 荷台に乗り込んでくれ! 少し散らかってるがな!」


 青年たちに続いて荷台へ上がると、錆びたライフルと空のビール瓶が転がっている。

 荷台に腰掛けると、木のざらつきがズボン越しに伝わる。マルコとオリヴィエは隣に、青年二人、アントニオとディーノという、が向かい合うように座った。トラックが動き出すと、ガタンと空き瓶が転がり足に当たった。


 道中にはオリーブ畑が広がり、葉が風にざわめいている。雲の影が車を覆い、土の匂いが強くなってくる。マルコとアントニオ、ディーノは友人のようで、時折見知らぬ名前を混ぜて世間話をしている。


 オリヴィエは運転席のラジオから聴こえるカンツォーネを遠くに聴きながら、麓へ向かうガタガタと震える振動に、幼い頃の国境越えを思い出していた。大勢の移民たちとともに押し込められ、トラックの貨物室で寒さに震えていた。

 嫌な記憶が過ぎって少し顔を伏せると、隣にいたマルコが覗き込んだ。


「なぁ、オリヴィエはエトナ山、行ったことあるか?」

「ううん。スタジオから、遠くに見るだけ」

「そりゃ勿体ない! 少し登ったところから見る景色、最高だぜ。シチリアには他にも良いとこ沢山あるんだ。なぁ、今度一緒にカターニアへ遊びに行こうぜ」

「いいの? 僕と行っても……つまらないかも」

「何言ってんだよ。せっかく来たんだ、楽しまないと損だぜ」


 太陽を思わせるような笑顔で、人懐っこい茶色い目を細めて笑うのにつられる。


 あの日と違うのは、マルコという友人がそばにいること、灼熱の太陽が肌をジリジリ焦がし、排気ガスに混じる潮風を肺いっぱいに吸い込めること。


 トラックのエンジン音がとまり、アントニオとディーノは荷台の端から飛び降りる。オリヴィエも続いて降りようとすると、マルコが手を差し出した。少し驚いたような顔をしたが、自然とその手を掴み荷台から飛び降りた。

 アントニオ達は持参したであろうライフルを手に、早速獲物を探して辺りを見渡している。トラックのドアが開き、ルカが運転席から錆びたライフルを取り出すとオリヴィエに渡した。木のストックが剥げ、冷たい金属の感触とずっしりとした重みがある。

 夜の森の中、警察のライトから逃れたあの日の記憶が再び顔を出す。茂みに隠れて見た警察の背中には、ライフルが月明かりに照らされて恐ろしかった。


「やっぱり、やめとけば良かったかな……」

「今更だぜ。シチリアの男なら兎の一羽くらい、だろ?」


 手の中のライフルが重く、緊張と過去の影に口の中が乾いて上手く笑えなかった。


 数人で草の陰に隠れ、ウサギを探す。エトナの溶岩石が点在する草原は、朝露に濡れて草の新鮮な匂いが鼻をくすぐる。


「ほら、あそこだ」


 一人の青年が指さした先に数羽の兎が土の匂いを嗅いでいる。そのままゆっくりと静かにライフルを構え、引き金を引いた。


 ダァン──と銃声が山麓に響き渡り、耳にキーンという残響が残る。火薬の焦げた匂いが鼻を刺し、兎が土を蹴って逃げ去る音が聞こえる。銃声の先で茶色い兎が横たわり、草を血で染めていた。


「やった! 心臓に一直線だ!」


 頭に残る銃声に顔をしかめながら手で耳を塞ぐ。未だに心臓が跳ね続け、耳に触れる掌が熱い。


「オリヴィエ、次はお前の番だ。ちゃんと狙えよ」


 気乗りしなかったが、言われたようにライフルを構える。


「これで、合ってる?」

「もう少し肩を寄せるんだ。銃身はしっかり掴んでおけよ。怪我するぞ」


 肩にストックが食い込み、重みが体を傾ける。頬を銃身に近付け、スコープを覗き込んで兎の後を追う。

 先程の銃声でほとんどが逃げ出したが、別の数羽が草の匂いを嗅いでいるのを見つけた。

 その中の一羽、白い兎が海の方を見つめてジッと鼻をヒクヒクとさせている。

 茶色い兎たちの中で目立つのか、背中や長い耳が傷だらけになっていた。


 照準を合わせ、スコープの中でその兎に目を奪われる。風が草を波のように揺らし、佇んで海を見つめるその姿がどこか寂しく見えた。

 引き金に指をかけ、スコープの十字線を心臓へ向ける。引き金を引くその瞬間、兎が一瞬こちらに振り向いた。


 スコープ越し、兎の真っ黒な瞳がこちらを捉える。リカルドの青い瞳が重なり、指が震えた。


 放たれた銃弾は兎の顔を掠め、草を掻き分け土を抉る。土煙が上がり、兎の逃げる足音が遠ざかり、茂みへと消えていった。


「惜しかったな! 力み過ぎだ。次は当てられるさ」


 マルコはオリヴィエの肩をぽんと叩き、叩かれた感触が震えを止めた。硝煙が朝の光に溶ける。震える手で払っても、匂いだけが喉に絡みつく。


 届かなかった。

 向き合ったのに、怖くなって震えた。

 覚悟していたはずなのに。

 怖いのか、僕は。


 昼間際まで兎を追い続け、結局8羽の兎を捕らえた。満足そうなマルコたちと共に、海辺の町まで戻りルカの家へ向かった。

 少し雑草の生える大きな庭の真ん中に、こじんまりとした石造りの家がマルコたちの家だ。石壁は陽光に温められ、オリーブの木が影を落とす。

 家のすぐ側に大きな石の食卓があり、その上にサラダやカポナータ、パーネ・クニャートが並ぶ。トマトの酸味とローズマリーの清々しい匂いが漂い、庭全体を包み込んでいる。家の壁沿いに焼き器があり、ルカの妻、アンナベッラが肉を焼く音が笑い声に混ざる。炭火の煙がゆらゆらと立ち上る。


 オリヴィエはマルコの隣に座り、その横に妹のソフィアが座る。珍しそうにオリヴィエの薄金色の長髪をちらりと見ている。


「兎、取れなかったの?」


 オリヴィエへ声をかける。マルコが代わりに返す。


「白くて逃げ足の速いやつだった」


 談笑していたアントニオとディーノが、ワイングラスを石の食卓に叩く音がする。タバコに火をつけながらアントニオがオリヴィエへ声を掛ける。


「オリヴィエだっけ。リカルドのとこで弟子入りしてんだろ? なんでまたアイツのところなんだ? 無愛想で無口な奴だろ」

「昔、助けてくれた人かも、しれないから」

「あの男が他人を助ける? 冗談だろ」


 笑うアントニオたちの中、妹のソフィアは続けて問う。幼さの残る声が、庭のざわめきに溶ける。


「リカルドさんってどんな人なの?」

「顔は悪くねぇが常に睨んでるみたいな顔してる。スタジオに女連れ込んでるって噂だぜ」

「町の女は全員抱いたとか」

「アンナ婆さんもか?」

「おい! ソフィアの前で下品な話するなよ!」


 時々不機嫌なリカルドから香水の匂いが漂ってきたことを思い出す。甘い花の香りにインクと混じる記憶。


 青年たちがリカルドの下世話な噂話に花を咲かせる中、銃声と引き金を引く感覚、青い瞳と兎の眼が頭をよぎる。硝煙の匂いが鼻に残る。


「昔のリカルドさん、狼みたいだった?」

「狼? なんだそれ?」


 マルコがアントニオたちとふざけ合う手を止めてオリヴィエを見る。庭の風がオリーブの葉を揺らす音が静かに響く。


 そこにルカがワインを手にやって来て静かに言った。ワイングラスに深い赤が満たされて、陽射しがテーブルに反射する。


「シチリアに来た頃は隅で酒飲んでるガキだった。狼かどうかわからないが、全部失ったって、目につくもの全てに敵意を剥き出しにしてるみたいだった。もう十年も前だ」


 傷だらけの白兎を思い出す。海を眺め、左腕を撫でるあの人の後ろ姿が寂しそうで。波の音が遠くから聞こえるようだった。


 だが、照準は逸れて捕えられなかった。逃げてしまった。

 逃げたのか、それとも僕に知る覚悟がないのか。


 疑問は尽きず、ただ注がれたワインを見つめ、テーブルの下で震える手を握りしめる。


「さぁ、みんな出来たわよ。今日も沢山の食べ物が召し上がれること、ロザリア様に感謝して食べましょう」


 アンナベッラが大きな鍋にローズマリーの香りが漂う兎の煮込み料理をテーブルにドンと置いた。ふざけ合っていたマルコたちも静かに顔を伏せ、ロザリアへの感謝の言葉を口にする。再びざわめきが戻り、一斉にナイフとフォークを持つと、アンナベッラが切り分けて小皿に盛った肉を食べ始めた。


「はい。金髪のお嬢さんも召し上がれ」


 アンナベッラが冗談ぽくお嬢さんと呼んだオリヴィエの前にも、綺麗に盛り付けられた皿が渡る。兎肉は柔らかく、トマトの酸味が染み込み、ローズマリーの葉がそっと添えられている。


 「グラッツィ」と小さく笑い、ローズマリーとともに肉を切り口に運ぶ。香りが広がり、柔らかで素朴な肉の味に彩りを加える。噛むたび肉汁が溢れ、オリーブ畑の広がるシチリアの大地の味がする気がした。


「……美味しい」

「それは良かった!母さんの料理最高だろ?シチリアじゃ兎を食べることも多いんだ。また、兎狩り行こう」

「うん。今日は届かなかった。でも、今度は逃げない」



 休み明けのスタジオは静かだった。

 潮風がカーテンを揺らし、消毒液とインクの匂いが混じる。


 オリヴィエは作業台の前でオレンジに針を滑らせた。プチッという音とともに皮が破れる。だが汁は垂れていない。

 針が数ミリの深さに沈み、小さな穴が残る。所々汁が滲み、完璧とは言えないが少し歪んだ円が浮かぶ。


「出来た……」


 リカルドは新聞を畳み、タバコを咥え直して近付いた。青い瞳がオレンジの穴を見つめる。


「悪くねぇ。もう少しやってみろ」


 声は低く掠れていた。初めて認められたような気がして笑みが零れる。

 見上げたオリヴィエの目を見つめ返す。


「昨日、兎逃がしたんだってな」

「はい、怖くなって」


 スコープ越しに見つめた兎の黒い目を思い出す。硝煙の匂いが鼻に残り、ライフルの反動がまだ肩口に響く。


「兎にビビって逃げたかよ」

「……でも、今度は、逃げません」


 震える指を握りしめ、リカルドの目を見つめた。オリヴィエの翡翠色の瞳に朝陽が反射して、あの日の覚悟が揺れている気がした。リカルドは小さく鼻で笑う。


「次はこれだ」


 作業台の上へシリコンシートを投げ置いた。オリヴィエは受け取り、指で感触を確かめる。表面は白く、柔らかな素材で出来ている。軽く押してみると柔らかさの中に押し返すような弾性があり、人間の肌に限りなく近い。


「まずはオレンジに完璧な円を描け。何度やっても完璧になるようにだ。本番はやり直しが効かねぇ、ビビってる暇ねぇぞ」


 低く唸るような声、だがオリヴィエの覚悟を試すような声だった。朝陽に白く光る煙の間から、彼の青い瞳をもう一度見つめた。

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