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インク アライブ  作者: おーひょい
ロザリア像の下で
12/27

硝煙とローズマリー-1

 涼しい潮風が薄いリネンカーテンを優しく押し上げ、部屋の奥へと忍び込む。消毒液の無機質な鋭さと、古びたタバコの匂い、インクの匂いが混じり合い、そこに柑橘系の鮮烈な匂いが割り込んでくる。朝摘みのオレンジの皮を剥いたような、甘酸っぱい刺すような匂い。スタジオ隅の作業台の上には、陽光に輝くオレンジがいくつも転がり、薄い皮が光に反射して金色に煌めく。


 リカルドから「覚悟はあるのか」と低く問われ、翌朝、オレンジに針を刺すよう指示された。オリヴィエは朝日に透ける薄金色の髪を潮風に揺らめかせながら耳に掛け直す。指先が微かに震え、粗雑な木のグリップが掌に食い込む。オレンジの表面は滑らかで、朝露のように瑞々しい。軽く押し当てると意外な抵抗があり、思ったよりも浅く、続けて力を込めると針が深く沈む。そこから橙色の汁が吹き出し、作業台の木目を伝って滴り落ち、甘酸っぱい香りが一気に広がる。


 リカルドは作業台横の軋んだパイプ椅子にどっしりと腰掛け、タバコを咥えたまま新聞を広げている。オリヴィエが「うわっ」と小さく声を上げると、ちらりと青い瞳を上げ、すぐに新聞の影に戻る。


「力を抜け。針は刺すんじゃなく、滑らせろ」


 声は低く、タバコの煙のように掠れた。


「はい」


 あの日の懇願──リカルドに触れ、「針を刺して」と叫んだ瞬間、青い瞳が揺れて、初めて彼の中に触れられた気がした。

 そばにいても、目を合わせても、どこか別の場所を見ているような人だった。

 だが、針が肌に触れる間際、彼の青い瞳と真正面から見つめ合った時、やっと自分を見てくれた。


 もう少しで、針が届く。


 だが、オレンジの皮は裏切り、届かない距離が果汁とともに滴った。汁は指をベタつかせ、木の床に小さな染みを作る。


「下手くそ。今まで何見てきたんだ? ジロジロ俺の事見てたくせによ」


 新聞を膝に置き、苦戦するオリヴィエへ向けて煙を吹きかける。白い煙が潮風に舞い、柑橘の香りを一瞬かき消した。リカルドの言葉に、オリヴィエの耳が熱く赤らむ。


「し、知ってた、ですか?!」

「お前の目は耳障りなんだよ」


 再び新聞の影に隠れるリカルドから目を逸らし、滴ったオレンジの汁を見つめた。指がベタついて不愉快で、そっと舐めると、舌に広がる酸味が喉の奥まで染み込む。


「酸っぱい……」



 しばらくオレンジを刺し続け、客の対応やインク瓶の用意に追われる。

 インクを零せば黒い染みが木の床に広がり、領収書の名前を間違えれば客の苛立った声がスタジオに響くが、初日のような辛い仕事よりもマシだった。


 スタジオの忙しさが落ち着き、穏やかな風がカーテンを優しく揺らす頃、オリヴィエは古い布で窓を拭き上げる。磨かれたガラス越しに、地中海の青い波が陽光を浴びて煌めき、遠くの漁船が白い帆を膨らませて浮かぶ。潮の香りが仄かに鼻を掠め、満足気に「よし」と一息ついて机のオレンジへ向かった。


「おい、今日はルカの店で牛肉買ってこい」


 突然の声に、オリヴィエは少し驚いたような顔で振り向いた。見習いとして本格的に練習に打ち込むものだと思っていたのに。


「あ、え?」

「何だ?見習いでも、お前は使い走りでもあるだろ。行ってこい」


 いつものようにコインを投げられ、それを受け取ると「(はい!)!」と慌てて麻袋を肩に掛けて飛び出した。ドアが軋んで、閉まる音が静寂のスタジオに響く。



 市場の喧騒が遠くに聞こえる路地は、太陽に熱され、足元からじんわりと温もりが伝わる。時々鉛筆や紙を買いに来る画材屋の前では、キャンバスが風に揺れ、油絵の具の甘い匂いが漂う。バールでは香ばしいコーヒーの匂いが立ち上り、昼寝をする老人がベンチに寄りかかり、子供たちが石畳を駆け回る笑い声が響く。顔馴染みがいれば「チャウ」と軽く挨拶をし、時折薄金色の長髪という容姿の物珍しさから声を掛けられることもあるが、シチリアに来た時よりも自信を持って返せるようになった。


 リカルドから「見習い」と言われ、指導の一歩を踏み出したことを実感して笑みが零れる。針であの人の中に触れられそうなことに、嬉しさで足が軽くなる。

 一人で笑みを浮かべる姿に、通りすがりの老婆がいぶかしげに目を細めるのも気にせず歩みだすが、遠くの市場に警察の制服姿を見て足が止まった。思わず路地の影に身を隠し、息を潜めてやり過ごす。石壁の冷たさがシャツ越しに伝わり、潮風が冷たく頬を撫でる。


(今、身分証を求められたら……)


 せっかく近付けたのに、針で触れられそうなのに、何も無い自分が何かを残せると思ったのに、生きる意味を失ってしまう。


 一度大きく深呼吸をし、路地から顔を半分出して覗くと既に警察の姿は消えていた。オリヴィエは安堵の息をつき、壁に寄りかかったまま座り込む。石畳のざらつきがズボンに食い込む。ここに馴染んでも、不法滞在という変えられない事実に膝を抱えた。

 遠くで波の音が響き、市場の喧騒がぼんやりと聞こえた。


 しばらくして市場へ出向き、テント張りの露店の中に、「|マチェッライオ・ディ・ルカ《ルカの肉屋》」という手書きの看板の下、石壁をくり抜いたような店がある。日除けのテントは日に焼けて穴が空き、粗雑な石のカウンターの上には血の滲むまな板があり、その上に肉が並んで生臭い臭いが漂っている。恐る恐るルカの店に近付くが人の気配はない。


「あの、すみません」


 誰もいない空間へ声を掛け、店主を探そうと露店を覗き込むと、仕込み途中の兎がまな板の上に横たわっているのに驚く。茶色い毛皮が血に汚れ、黒い瞳が虚ろに開いている。


「ひぃ……」


 小さな悲鳴を上げたのと同時に、奥の扉からオリヴィエと同じくらいの青年が出てくる。柔らかな茶色い癖毛に、小麦色に日焼けした肌、黒いTシャツの襟元に汗が黒く滲んでいる。


「ルカさんの店、合ってる?」

「あぁ、合ってる。今日は親父の代わりに店番してんだ。お前リカルドのとこに居候してるんだろ? 名前は……」

「オリヴィエです、居候、違いますが……。あの、そこのって、兎?」


 噂が人々の間で広まっているのを実感するのと同時に変な形で伝わっているなと困り顔になる。


「俺はマルコ、よろしく。ん? これか?」


 と兎の耳を掴んで持ち上げる。仰け反ったオリヴィエを見てマルコが笑う。兎の体がぶらりと揺れ、血の滴がまな板に落ちる音がする。


「よそ者からしたら珍しいのか。兎狩り、見たことない?」

「……ない」


 兎をまな板に乗せるとチルネコがマルコの傍に寄る。つるつるとした短い毛並みの下、狩猟犬らしい筋肉質な体つきをしている。マルコはチルネコの頭を優しく撫でてやる。だが次の瞬間、四角く大きな包丁で、ダン!と兎の後ろ足を切り落とすと、店の奥へ放り投げた。肉の切断音が乾いた空気に響き、血の匂いが一気に広がる気がした。


「ひぃ……あ、あの、牛肉を十ユーロ分……」

「はは、ナヨっちぃ奴だな。……あれ、少し足りないな」


 マルコは肉を計り、手際よく包丁で重さを調整すると透明な袋に入れ、最後に紙袋に丁寧にしまうとオリヴィエへ手渡した。


「今はこれだけ。後でスタジオへ直接持っていくよ」

「グラ、グラッツィ、マルコ」


 少し震える手で十ユーロを渡し、露店から離れ市場を去った。喧騒が背後に遠ざかり、未だ切断音が耳に残って潮風が冷たく感じられた。



 切断音の残響が耳に残る中、スタジオへ戻ると再びインクの匂いが迎え、少し安堵する。リカルドは奥の作業台の前、鉄パイプの椅子に腰掛けてデッサン用紙と睨み合っている。


「牛肉足りなくて、また持ってきてくれるって」

「おう」


 仕事用のデッサンを書きながら軽く返事をして受け取る。リカルドの鉛筆が紙を滑る音が静かなスタジオに響く。顔を上げ、一度両手を上に伸ばしてそのまま振り向くと、「ゴミを捨ててこい」と言われ、オリヴィエは裏口へ向かった。


 立て付けの悪い裏口を開け、既にまとめてあるゴミを抱えて残渣ボックスへ放り投げる。途中、古いドゥカティが置いてあるのに気付いた。古いが手入れはされているようで、クロームの部分が陽射しに反射している。傍にヘルメットと肩口の擦り切れた茶色い革ジャンが掛かっている。微かなガソリンの匂いに混じって潮の香りが鼻を刺す。

 辺りをキョロキョロと確認すると、そっとバイクのグリップに触れた。何度も使い込まれたのか手の跡が残っているようで、重ねるように軽く握った。

 どこかへ出掛けているのか、と小さく思いを馳せる。


 スタジオへ戻り、箒を握って床をザリザリと擦る。先程果汁を零した所が染みになっている。


「ルカさんの店行ったら、兎ありました。食べたこと、ありますか?」


 オリヴィエの質問に一瞬鉛筆の手を止めるが、すぐに書き始める。


「好きじゃねぇ」

「そういえば、兎狩り、断ってましたね」

「徴兵時代を思い出して嫌なだけだ」

「徴兵、あったんですか?」

「あぁ。去年廃止されたけどな」


──まぁ、三ヶ月で嫌になって逃げ出したが。


 口には出さずに飲み込んだ。青い瞳が一瞬遠くを見る。


「そうなんだ。戦争は、嫌ですね」


 オリヴィエは幼い頃の村の赤い星を思い出して目を伏せた。共産時代の名残りがまだ色濃い場所だった。寂しい山奥の村を思い出し、スタジオの窓を見た。エトナ山の影がぼんやりと見える。


「掃除したら練習しろよ。中途半端は許さねぇからな」

「わっ、S-sì(は、はい!)!」


 床をザリザリと擦り、窓やテーブルを拭きあげ掃除を終えると、再びオレンジに針を刺す。汁の甘酸っぱい香りが、夕暮れの柔らかな光に包まれる。

 店仕舞いの前、コインをオリヴィエへ渡す直前


「明日は休みだ」


 とリカルドがタバコを灰皿に押し潰しながら言った。突然の休みに困惑した翡翠色の瞳が少しスタジオの中を彷徨さまよう。


「え、そう、ですか……オレンジ、練習してます」

「おう、そうしろ」


 その時、扉が開いて一瞬で肉の匂いがスタジオに広がる。肉屋の店主、ルカが袋を手に入ってきた。昼間の足りなかった分だ。短い黒髪に白髪が混じる短髪で、少し長い髭が揺れている。血の匂いの染み込むエプロンが大きく張り、その恰幅の良さを表している。


「遅ぇぞ」


「すまねぇな。明日の用意をしててな。市場が休みだから色々とな」

「市場も休み、ですか?」

「ははは、毎日やってると思ってたのか?」


 リカルドに手渡して笑う。ルカが笑うたび、人の良さそうな顔に皺が刻まれる。


「明日は久しぶりに兎狩りに行くんだ。お前もそろそろ来てみたらどうだ? シチリアの男なら」

「是非行きたいところだが、俺にも用事があるんでな」


 バイクの鍵を指で回して答える。手の中で受け止めると、ガチャンという金属の音が軽やかに鳴る。


「そうか、上手いこと逃げられたな。ガキはどうだ? リカルドの代わりに」

「え? 僕……? 僕は……兎、好きだから……」

「じゃあ決まりだな。明日八時に広場に集合だ、遅れるなよ」

「えぇ……好きってそう言う意味じゃ……」


 オリヴィエの言葉も虚しく、ルカは笑って出ていった。ドアを閉める音が静けさを残す。

 オリヴィエは助けを求めるようにリカルドへ振り向いたが、肩をすくめるだけだった。

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