誰かの光-2
シエスタの後、スタジオの窓に地元民の笑い声が反射する。木の床を擦る箒の音と波の音が響く。
リカルドは鉄製のパイプ椅子に座り、煙を纏わせながらステンシルシートにデッサンを複写している。
鉛筆の擦れる音が静寂に混ざり、オリヴィエは時々彼の姿を盗み見る。
絵が消えねぇだけだ。
マリオの腕に刻まれる針音、消えない誇りを思い出す。
この人は何を考えて彫り続けるのだろう。
盗み見たデッサンの船に星が煌めき、聖ロザリアが微笑む。
どんな思いが込められてるんだろう。
リカルドがまた左腕を無意識に撫で、首筋に伝う汗を拭って首を回すとオリヴィエと目が合う。不愉快そうに眉間に皺を寄せられ、オリヴィエは目を伏せた。必死に箒の先へ目線を向け、集中しようと手を動かした。
扉が軋む音がしてオリヴィエは顔を上げた。
扉には日に焼けた顔で、無精髭の残る三十代くらいの男が立っている。穏やかな笑顔が柔らかく光り、軽く手を上げる。
「よぉリカルド。今日から頼むぜ」
「悪いな、パオロ。少し手間取る」
リカルドは低く唸ってTシャツの赤い跡を引っ張ってオリヴィエを細目で睨む。冷たい目と声に、オリヴィエは小さく縮こまって箒を握る。
「アンナ婆さんとまた喧嘩したんだろ? トマトがナイフになっても知らねぇぞ」
「あの婆さん、俺にクソみたいなトマトしか売らねぇ。ガキには上等なもんだ」
「昔、婆さん相手にしつこく値切ろうとしたお前が悪い。弟子に当たんなよ」
「弟子じゃねぇ」
リカルドはパオロの笑いに煙を吹き、苛立ちを隠さずにステンシルの複写を続ける。
パオロは作業台横の鉄パイプに腰掛け、リカルドの手際を見ながらタバコに火をつけ、お喋りな口が続ける。
「なぁ、リカルド。五年前、ここを始めた時のこと覚えてるか?貸主と殴りあってたときのお前、"狼"みたいな目してたぜ」
"狼みたいな目"という言葉に箒を動かしていたオリヴィエの手が止まる。夢で見た返り血に染まる彼の姿が脳裏を過ぎった。
「狼?」
思わず声が漏れ、咄嗟に手で口を覆うがパオロは笑って答える。
「ただの比喩だよ。シチリアに来た時はまだギラついてて怖かったんだ。よく喧嘩もしてたし。なぁ、リカルド?」
肩を叩かれたリカルドは眉を動かし、「うるせぇ」と吐き捨てた。パオロは「まぁいいか」と笑い、時々デッサンを見るオリヴィエに目を向ける。
「お前こいつの弟子だろ。タトゥー、気になるか?」
オリヴィエは箒を握り直し、翡翠色の瞳が揺れる。
「はい。タトゥー、絵が消えないだけって聞いた……でも、思いや信念がないと、残せないと思う、から」
「信念か。願掛けみたいなもんだな。家族と仕事の絵。今度子どもが生まれるんだ。嫁さんの痛みは代われねぇが、稼いで家族を守る。それを忘れねぇように体に刻む」
「信念を体に刻む……素敵、思います」
「ハッ、タトゥーで守れるなら全身彫ればいい。俺の稼ぎになる」
デッサンから目を離さず、リカルドは鼻で笑う。
「嫌なやつだな」
パオロはタバコの煙を吐き、笑った。
◇
潮風がスタジオに吹き込み、煙を外へ攫っていく頃、パオロはTシャツを脱いで作業台へうつ伏せに寝ている。背中には紫色のステンシルが浮かび、船と星、その傍を聖ロザリア、家族の名が刻まれる。
「さぁ、優しく頼むぜ。安くねぇんだからさ」
「優しく、ね。保証はしないが妥協は絶対にしねぇよ」
リカルドはインク瓶を振ってカチカチと鳴らし、黒、青、緑をカップに2滴ずつ注ぐ。コイルマシンを調整し、8Vで3RLニードルをセットすると低い唸りが響き、針先が肌を穿つ。首筋に汗が伝い、青い瞳が集中で鋭く光る。
片手に持ったペーパータオルで拭く度、紫の線が黒く浮かび上がっていく。潮風が彼の金色の髪を揺らす度、青い瞳が陽射しに反射する。
インクの匂いに混じって血の匂いが鼻を掠めた。
肌を穿つたび、針を持つ彼の姿が十二年前の暖炉の光に重なる。
オリヴィエは箒を握り、翡翠色の瞳で針先を追う。
──インクの下に、どんな祈りを込めていますか?
目を細めて針先を見つめるリカルドの横顔を見て、小さく思いを馳せた。
「いてぇ……なぁ、弟子にはいつ彫らせるんだよ?」
痛みに顔を歪ませ、首筋から汗が滴って作業台の上に小さな水溜まりが出来かけている。痛みを誤魔化すためか、ただのお喋りかパオロが質問を投げかける。
「喋るな。掃除と使い走りだ。マシンに触らせねえ」
オリヴィエは不意に自分が話題に上がるのに驚き、箒の手が止まる。
リカルドは集中したまま針先を線に沿わせていく。
「相変わらずだな、五年ぶりに来てやったってのに」
「市場でも話してんだろ。大体、お前と話すと長くなる」
「シチリア人はお喋りが好きなんだ、仕方ないだろ。ヴェネトの人間はみんな寡黙か?」
「お前が喋りてぇだけだろ」
「頑固な奴め。そうだ、今度兎狩りに行こう。シチリアの男なら兎の1羽や2羽撃って……」
「断る」
リカルドの眉がピクっと動き、心底不愉快そうな顔で睨みつける。
「分かったよ。十年経ってもまだ兎狩りには慣れねぇか。まぁ、いい」
二時間ほどパオロは無視を続けるリカルドへ喋り続け、タトゥーのラインが完成すると「グラッツィ!」と去っていった。
リカルドは作業台を片付け、インク瓶をカチカチと並べ直す。換気扇がカラカラと回り、潮風が消毒液の匂いを攫う。夕陽がインク瓶のガラスに反射し、木の床を赤く染めている。
オリヴィエは箒を動かし、パオロの「願掛け」を反芻した。スケッチブックの波を指でなぞる。潮風がページをめくり、滲んだ魚の線が夕陽に揺れる。ヴェローナの月明かりで描いた太陽が頭を過り、鼓動が波音と重なる。
「僕のスケッチも、誰かの願いに……」
リカルドはタバコに火をつけ、オリヴィエのスケッチを一瞥する。
「おい、ぼーっとすんな。作業台拭いとけ」
オリヴィエは滲んだ魚のスケッチをなぞり、
「僕の絵も……誰かの体、意味を持って、残せる?」
「お前もお喋りになったのか?」
夕陽が左腕を照らし、太陽のタトゥーが血のように光る。煙が潮風に溶け、ヴェローナの遠い夜が過る。
オリヴィエはスケッチブックを握り、リカルドに向き直る。
「僕……誰かの願いを彫りたい」
──そして、その針であなたの過去に触れたい。
もうひとつの願いを心の中にしまい、逆光の中光る青い瞳を見つめる。
「素人に何が出来る? 言葉もままならねぇ、タトゥーの痛みも知らねぇ。何も無いお前に何を期待してんだ?」
リカルドはタバコを強く吸いこんで見つめ返した。太陽のあの人に会うことだけを生きる意味とし、「存在しない子供」として生きてきた執念が瞳に揺れる。
「何も無い僕だから……タトゥー、教えてください」
と頭を下げた。リカルドの青い瞳が翡翠色の瞳を捉え、過去の影にピクリと動く。太陽が熱を持ち、無意識に左腕を掻きむしった。
ガチャンというタバコを灰皿に叩く音がこだまする。
「血の匂いも知らねぇガキが、調子に乗るな」
鼻で笑い、「掃除だけやって帰れ」とコインを投げる。しかしオリヴィエはコインを拾わなかった。床を跳ねるコインのカン、カンという音がオリヴィエの鼓動と同期する。
「Tudom.」
Dimentica.という言葉に抵抗するようにハンガリー語で呟く。赤い夕陽に照らされたインクに疼きが走る。
スケッチを握る手が震え、リカルドの左腕を掴んだ。熱く、インクの下で脈打つような気がした。
「……っ!」
リカルドは全身が硬直した。涙が滲む翡翠色の瞳が夕陽に反射してキラリと光り、思わず息を飲んだ。青い瞳が再び揺れる。
「触るな」
低く唸る声は裏返り、震えていた。振りほどこうとするがインクの上を滑るオリヴィエの指が黒と溶け合う。タトゥーのない細い腕に、薄金色の産毛が光って小麦色の腕が白く輝くように見えた。
「痛みも、血の匂いも知ってる。それでも、足りないなら、僕の腕、針を刺して」
震える唇から言葉が漏れ、手から滑り落ちたスケッチブックが床に開いた。潮風がページが捲り、「Dimentica.」の文字が夕陽に浮かんだ。
潮風は止まり、換気扇のカラカラという音だけがスタジオを包み込む。指から鼓動が伝わり、リカルドの首筋の血管が跳ねた。ヴェローナの夜、相棒に殺された恋人の姿が脳裏に過ぎった。冷たくなった彼女の体と、相棒の「お前のせいだ」という声が頭を殴りつけてくる。
──全てから逃げてきたくせに。俺はまた逃げるのか?
震える指でリカルドは針を持った。
グリップを握り潰して、オリヴィエの腕の0.5cmまで近付けた。息が触れるほどの距離で再びオリヴィエの瞳を見つめる。
「……お前、覚悟はあるのか?」
夕陽が針に反射して、細い腕と黒いインクの上に影が落ちた。




